170話
左右の二人を目だけで追うサロメ。暗い中、ポップコーンを噛む音が響く。
「この映画のサリエリは、モーツァルトの才能に嫉妬して死に追いやった、ってなってるけど完全にフィクションだから」
一応注釈。研究の結果、その可能性はほぼ皆無、とされている。つまり、この映画はただのエンターテイメント。
それに反応したブランシュ。多少ではあるが、モーツァルトの流れは抑えてはいる。
「たしかプーシキンがその毒殺説をもとに戯曲を書いてましたね。そしてさらにその戯曲をコルサコフがオペラに」
「その通り。そんでもって、そこから百年経ってブロードウェイで『アマデウス』が上演されると。完璧な流れね」
様々に形を変えて生き続けるモーツァルトに、サロメは驚嘆するしかない。さすが神童。
「そして映画へ、ね」
今から始まるものにも、モーツァルトは息づいていることは、イリナにもわかっている。音楽をやっている者として、羨ましい限り。
「この作品では、モーツァルトの音楽が登場人物の心情を、音楽で表現するという手法が使われていてね。まぁ、観てればわかんでしょ」
サロメによる事前の解説もここまで。ここからは喋るのは無粋。観ることに集中する。
まず、年老いて自殺を図るサリエリの告白から始まる。つまりは時間軸としては一番最後の部分から。そして過去に遡り、彼の視点からモーツァルトとの邂逅観ていくことになる。
神童と名高いモーツァルトに憧れを抱いていたが、実際には人間としては軽蔑すべき存在であったことを知るサリエリ。だが、それでも作る曲の素晴らしさは格別。その葛藤。
(モーツァルト。それを忌み嫌い、恐れ、そして愛するサリエリ。友情と憎しみ——そして、死)
渦巻く陰謀。重圧。嫉妬。そして、それらを表現する音楽。名指揮者ネヴィル・マリナーが担当し、冒頭の『交響曲 第二五番』、エンディングの『ピアノ協奏曲 第二〇番 第二楽章』をはじめとして、その登場人物の心象風景をモーツァルトの曲で表現されている。サロメの言っていた通り、比喩的だからこそより伝わる。
(死とは、亡くなった当人ではなく、残された者の感情……)
指揮を執るモーツァルト。ピアノを弾くモーツァルト。俳優であるトム・ハルスは、実際にピアノと指揮を猛特訓して代役なしでやり切ったらしい。とてつもないことだ。素晴らしい指導者がいるとはいえ、並大抵のことではない。だからこそ、本当に憑依したかのような臨場感を得ることができる。
やがて弱っていくモーツァルトと、それでも作り続ける素晴らしい音楽。その制作に協力するサリエリ。憎んでいたはずの相手の、一番のファンであることがわかる熱量。
(もしかしたら……)
最後の扉がほんの少しだけ、開いたような感触をブランシュは感じた。チラッと顔の向きは変えずに、イリナのほうを覗く。
ほんの少しだけ、指が動くイリナ。もっと、優しく。あたしなら語りかけるように。サリエリの行動ひとつひとつに強弱を入れる。そのピアノの音。最初は爆発するように激しく、そのまま少しずつ消え入るように。全ては音楽でできている。ピタゴラスも、宇宙は音楽でできていると言ったように。
長尺の映画。思い思いの解釈を取り入れつつ、サロメは単純に音を楽しんだ。ポップコーンは結局八割は彼女の胃袋へ。
「んー、いい映画は何回観てもいいね。対比がいい。三時間もあった? って感じ」
腕を伸ばしてストレッチ。時刻は二時をまわっている。眠気と疲れが心地いい。よく眠れそうだ。「じゃ、先寝るねー」と、二人を置いて部屋から出ていく。
映像は途切れ、プロジェクターの明かりのみ。また無音。だが、鑑賞前とは違う無音。確実な手応えがお互いにある。
「ブランシュ」
今度はイリナから。少し落ち気味の瞼。時間も時間だから仕方ない。最後の力を振り絞る。
「はい」
返事をするブランシュ。目を瞑る。そっちのほうが楽、というのもあるが、まだサリエリとモーツァルトが瞼の裏にいる。
すぅ、とイリナは息を吸った。吐く前に息を止める。
「負けない」
目を開くとサリエリとモーツァルトはいない。サン=サーンスと骸骨の群れ。ブランシュは見据える先を変えた。
「……はい」
決意。それはイリナと手を取り踊る円舞曲。ピアノとヴァイオリン、ピアニストとヴァイオリニストのトーテンタンツ。




