163話
「……最後まで責任取れっての」
サロメがボソッと追加する。元はといえば、あんたが連れてきたようなものでしょうが。できることを、できる人間が。それがピアニストと調律師の関係性。
「お願いします……!」
どんどんと時間が経つにつれて、イリナの力はさらに弱まる。振り絞った希望の欠片がサラサラと、その手から砂のようにこぼれ落ちていく。そんな気がする。
グレーバーの一八二〇。普通に生活していたら、まず出会うことはないだろう。悩むルノーの顔も険しくなる。
「……」
どうするべきか。どうできるのか、自分に。
「……ダメ、ですか……」
俯いたまま、手を離すイリナ。全然、なにもわからないけど。ダメだということはわかる。奥歯を割れそうなほどに強く噛んだ。
意を決したルノー。自分自身にも言い聞かせるように。
「……掛け合ってはみる。可能であれば、明日にでもここに届けよう。だが、三割程度の可能性だと思ってほしい」
自分にできることを。そして、このピアノを使ってできることを見届けたい。
「……!」
イリナは一瞬見上げ、ルノーと目線が合う。が、すぐに下げて震えた。
「あり……がとう、ございます……!」
これからなにをしようとしているのか、なにをされるのかわからないけど。でも、スタートラインには立てたのかもしれない。
「はいはい、じゃ、とっととよろしく。行った行った」
とりあえずうまく事が運びそうになっていることに、サロメは満足して先を促す。ダメだったらどうしよう。そのときは諦めましょう。
今後の先の見通しを立てるルノーだが、色々と不安が押し寄せてくる。
「全く。無茶させるね。ある場所はわかるけど、骨の折れる作業だ」
「それが社長の仕事。期待してるわ」
自分は調律するだけ。それ以外はやるつもりはない。雑用は店長と社長の仕事。住み分けは大事。
少し元気を取り戻してきたイリナが、疑問を口にする。
「……それで、グレーバーの一八二〇ってどんなピアノなんだ……?」
未知のピアノ。グレーバー自体も触れたことがないのに。音もわからない。柔らかいのか、煌びやかなのか。
悩ましく顎に触れるルノー。眉も寄せて口元が歪む。決意はした。のだが。
「うーん……なんと言えばいいのか……」
感情を露わにして懇願した彼女を思うと、伝えなければいけないことなのだが、なんとも伝えづらい。落胆するのでは。そうしたらどうし——
「ある意味ではスタインウェイの最上級モデルとかよりもずっとレアな逸品」
全く臆することなくサロメは欠伸をまたひとつ。そういえばこの前もこの種類を調律したわ、と珍しいことの連続に顰めっ面をする。
「……」
その通りなのだが、やはり言いづらい。いや、言わなきゃいけないことなんだけど。早めに。天井を仰いだルノーは、おそるおそるイリナのほうに顔を向けてみた。
そして向けられた本人も、見て取れるのは呆然。
「……レアな……ピアノ……」
目の焦点の定まらない少女を一瞥したサロメ。さらに渋面が険しさを増す。
「なに? なんか不満? 言っとくけどあんたが——」
「それなら、あたしが輝けるんだなッ!?」
興奮と不安と、その他自身でもわからない感情の奔流。それらを隠すこともなく、イリナはサロメの両方を持って揺らす。自分というものを、目の前の毒ばかり吐く少女に賭ける。
無表情になったサロメは冷淡に事実のみを示した。
「知らん」
それはあんた次第。




