160話
軽く舌打ちをしたサロメは、藁にも縋り付く想いの少女に近づき、肩にポンっと手を置く。
「……全てを捨てる、ねぇ。あたしらはピアノの先生じゃないからね。なんてったって、あたしはピアノはほとんど弾けない。簡単なやつをゆっくり、程度。そこのオッサンも素人にしては、ってくらいよ」
ハハッ、と鼻で笑う。残念でした、そんな歪んだ見下ろす笑い。期待しても無駄。そもそもピアノを調律するのに、弾ける必要は一切ない。
一瞬、怒りにも似た表情で見上げる形になったイリナだが、すぐにまた俯く。フォルテからピアノ。モーツァルトならそう書き記すだろう。
「……なんだよ、じゃあどうすりゃいいんだよ……!」
腿を掴む指に力が入る。スカートを掴む。今まで鍛えてきた指で。
感情が揺れ動く様を見届けつつも、サロメにはどこ吹く風。もとはといえば社長のせい。悪の根源。あたしもこの子も被害者。
「知らないわよ。しばらく離れてみる、ってのがよく聞くやつ。半年とか一年とか。それで治る人もいるし、治らない人も——」
「それじゃあ……間に合わない……!」
床に向けて声を絞り上げるイリナは、震えている。
「? なによ間に合うって。コンヴァト? 受けんの?」
たしかノエルの時期に教会でリサイタルがあると聞いている。それで演奏するのだろうか。一度奏者の名前を見たのだが、サロメは完璧に忘れてしまっていた。イリナなんていたっけ?
言ってから、その先を言うまいか悩むイリナ。言葉を濁す。
「……そう……いや、それだけじゃない……けど……!」
どっちにしろ、今のままじゃなにもできない。賭けられるのならなんでもいい。なんでもいいから……誰でもいいから……もう一度ッ……!
「……」
詳しい事情はわからないサロメ。特に音楽に関わるこういった症状には、非公式かもしれないが名前がついている。
「ハイフェッツ症候群ね」
「たぶんな」
同じ病気をルノーも感じ取っていた。長年ピアノに携わっていると、時折発生するこの症状。
歴代で世界最高のヴァイオリニストは? という問いに対しては、ひとりのヴィルトゥオーゾの存在がかなり偏りを生んでいる。
彼の名はヤッシャ・ハイフェッツ。ヴァイオリニストの王とも呼ばれ、並ぶ者が今後もいないとさえ。もちろん、音の好みもある。パガニーニなどのヴィルトゥオーゾの場合、録音すらないというハンデもある。だがそれでも、彼の地位は揺るがないとさえ言われている。
あまりに他のヴァイオリニスト達とのかけ離れすぎた実力。まだ子供のハイフェッツの演奏を聴いた、すでにその当時世界的なヴァイオリニストであり作曲家となっていたクライスラーが、自身との実力の差に絶望して、持っていたヴァイオリンを叩き割ろうとしたほど。




