157話
ルノーは手で大きな『×』を作る。社長権限発動。
「ダメ。あなたが調律するの。で、その答えなんだけど、ピアノの鍵盤は一〇ミリしか沈まないって知ってる?」
流れるように話を戻す。もうひとつ欠伸をする子はほっておいて、今日の仕事に取り掛かろう。
「知ってる……けど」
目線を合わすことができないイリナ。白鍵盤の輝きが鈍く感じる。心の病みは、目にもくるのかな、と全く質問にも集中できない。
むにゃむにゃと口元を動かしながら、ダラケきったサロメが話に割り込む。
「けど、なに? ていうか音楽科にまで入っておいて、そんなこと説明されなきゃわかんない? 教わるでしょ、てか、教わらなくてもわかるでしょフツー」
唇を尖らせ、口を開けば不満。苛立ちはピーク。
「すまん、私が悪かった。少しだけ寝てていいから。出番になったら呼ぶから。むしろ寝てて」
じゃじゃ馬すぎて話が進まないため、エースには寝ててもらうことにしたルノー。自分の見積もりの甘さに反省。というか、どんどん不貞腐れ具合が日に日に増してる気が。
許可を得たサロメは、もうひとつイスを持ち出し、靴を脱いで足を伸ばす。一気に楽になり、溶けるように夢の中へ。
「じゃ、よろしくー……」
寝た。
胸を撫で下ろし、ルノーは順を追ってやっと仕事に取り掛かれる。
「まぁ、知っていると思うけどイチから説明するよ。ペダルのことは今回考えないとして、その一〇ミリの中でそれぞれ個性を出したり、自分の解釈をピアノを通して伝える。もちろん、全て一〇ミリ押すわけではない。五ミリの時もあれば七ミリ、九ミリなんてこともある」
「……」
そんなことは知っている。頭では。でも、指先はそれを忘れてしまったかのように。できない。やろうとすると震えがくる。先ほどの演奏がイリナの中で蘇る。
ピアノに近づき、鍵盤をひとつ叩くルノー。基音のラ。いいユニゾン。自分でやったわけだが、派手さはないものの、ヤマハに合った平均律。
「浅く弾けば音量も弱く減り、音色も変わる。変わった弱い音色にもそれぞれ違いがあるね。少しボヤけたような、柔らかい弱さ。消えそうだけど、どこまでも響いていくかのような、広がりを見せる背骨のある弱さ。逆にすぐ消える弱さ。物語の始まりを教えるような、輝く弱さ。いくらでもある」
ラ、はただの『ラ』ではない。作曲家が意味を込めて書き記したものなのだ。ひとつとして意味のないものは……いや、少し、うん、稀にある。ハイドンとか。
「……あたしのは……」
同じように鍵盤をイリナも弱々しくひとつ叩く。E68。乾いた音色。なにがダメ?




