156話
モンフェルナ学園のレッスン室。着脱可能な吸音板が装備され、残響時間を操作することも。床には木目のフローリング、壁は白とライトグリーンを基調とした爽やかな色合い。ピアノが一台。ゆったりとした広いスペース。
シューベルト作曲『ピアノソナタ 第一八番 ト長調 幻想』。第一楽章は二〇分以上にも及ぶ、なんとも不思議な曲。穏やかなメロディが続き、盛り上がりもほとんどない。だが気を抜いていると唐突に転調しだし、シューベルトにしては珍しいフォルティッシシモの和音。ざわざわとした不安が心を支配したまま、そしてなにを伝えたいのかもわからないまま、この楽章は終わりを迎える。
弾いていたのはイリナ・カスタ。学園に通う音楽科のピアノ専攻。好きな作曲家はまさにシューベルト。
その演奏を聴いていたサロメ。イスに腰掛け、ぐったりと舌を出しながら厳しい意見。
「ひっど。久しぶりにここまで酷いシューベルト聴いたわ。シューベルトの子孫に聴かれて襲撃されても、あたしの名前出さないでよ」
「……うるさい……」
イリナにとって今の演奏で手を抜いていたか、というとそんなわけはない。ヤマハのグランド。調律も申し分なし。言い訳のできる環境ではない。さらにそこまで難易度の高い曲でもない。
モンフェルナ学園のピアノ調律。その一端を担っているのが、三区にあるアトリエ『ルピアノ』。その社長でもあるルノーが学園から許可を得、この部屋を使用させてもらっている。
「サロメ、やめときなさいって。ま、現状はわかった。技術的な部分というより、見た感じでもわかるけど、精神的なところが大きいね。迷いが音に出ている」
メトロで見かけた少女。声をかけ、名刺を渡してみたがその後、電話があった。ある程度の予想はしていたが、学園の子だったということで都合がいい。ウチのエースもいるし。
苦悶に顔を歪め、奥歯を噛み締めるイリナ。わかっている。今の演奏が酷かったことくらい。感情の乗らない音楽。命の宿らない八八鍵。それはただのインテリア。
「……迷った音って……なんなの……?」
だけど、乗せようとしても乗らないんだから、仕方ないじゃないかッ……! シューベルトの気持ちも。自分の気持ちも。なにを伝えたいのか。伝えることができるのか。
背もたれに寄りかかり、足を伸ばして欠伸をひとつ。飲食禁止の部屋にも関わらずお菓子が欲しくなったサロメ。時間の無駄。
「ねぇ、社長。寝てていい? てかなんであたし呼ばれてんの?」
なにやら不思議なことなった。知らない同級生の、よりにもよって眠たくなる曲を聴かされる。しかも表現力も皆無。なら睡眠をとるほうが健康にも美容にもいいでしょ?




