147話
気持ちはローズのまま、持論を表明する男性。彼女のように辞めたいと話す子は一定数どうしてもいる。そんな時に伝える自身の純粋なピアノへの想い。
「ピアノに資格はいらない。必要なのは『意志』だ。片手がなかろうと、指が無かろうと、死の間際だろうと、そこに奏でたいという意志以外はいらない。余計なものだ。曲が濁る」
不思議なことに、ピアノは精神を写す鏡のようなもの。壊れた鏡を拾い集めて直すと、むしろその鏡はより強固になって、反射率も上がる。気がする。
意志。握る拳の力がさらに増すイリナ。
「……なにを奏でたら一流になれるの……?」
ピアノは音を奏でるもの。そうでないというならばなにを? ヒントだけでも。辞めたはずなのに、すがる自分が滑稽で鼻で笑う。
その後、少しの沈黙。『ケッシュジグ』が弾き終わる。一九七〇年代に流行した、アイルランドの伝統音楽バンドである『ボシーバンド』のデビューアルバム、その一曲目がこの曲だ。それゆえに広まり、今なお愛されている。
そこから見えてくる熱い情熱。男性はゴソゴソとコートの内ポケットから一枚、小さな紙を取り出す。
「魂、かな。ピアノ宿る魂。譜面に隠れた魂。作曲家が込めた魂。それを、弾きたいという意志で表現する。一度、今の自分の技術も長所も、全て壊す意志があるなら、ウチに連絡してほしい。はい」
イリナの眼前に突き出された名刺。視界の端に捉え、またも冷ややかに男性に視線を向ける。
「……いらない」
「なら本の栞にでも使って。それじゃ」
そう言って男性は強引に手に握らせた。少し曲がってしまったが問題ない。そのまま足早にコンコースを去って、連絡通路へ向かっていく。
「……」
ひとり残されたイリナの視線は空を彷徨ったが、ふと下に落とし、左手に握られた紙を見つめる。
「……壊す、意志……」
一体なんの仕事、会社? なのだろう。見るだけでも。どうせもう終わったんだから。もう。もう、なんでもいい。




