145話
あの少女。普通科で、音楽の教育など受けたことのないブランシュ・カロー。楽器が違うとはいえ、飛び抜けたものがあることはすぐにわかった。その彼女が目的のためにピアニストを欲していること。最初は半信半疑だったが、香りを音にするという能力に衝撃を受け、そして『新世界より』の演奏が終わった時、絶望と同時に思いついた。
五人の中で、自分が選ばれれば、きっと自信が戻ってくる。
すでにカルメンとベルは選ばれた。だが、別にひとり一回と決まったわけじゃない。チャンスは残り八回。このままだと全てベルに奪われる。だが、幸いにも調律次第というピーキーな腕が……幸い? 友人が力を出せないことが? 自分が高みに上るのではなく、他人が落ちれば上に行ける? 汚い汚い汚い汚い——
「……選ばれるってなんだよ……」
自身の一番の武器はピアニッシモ。ビブラートじゃない。ビブラートなんて、ポリーニだってツィマーマンだってやっていない。それさえできれば、彼らに並ぶことができる? そんな甘い話ではない。でも、しょうがないじゃないか。ひとつでも武器が多くないと戦えないんだから。
楽しそうな音楽。膨れ上がっていく聴衆。ユーロ札や硬貨を掴んで、支払おうとしている人もまだまだたくさん。映画のジャックとローズのように、タップダンスのように踊る人も。だが、自身は全く体が動かない。まるで対岸の火事を見ているかのように、目を細めてただ振動する空気を感じるだけ。
泣くこともできない。カラカラに渇いた干物のように、絞り出せるものがない。悔しさが薄れてくる。今、お腹は空いている? 喉は渇いている? どこか痛いところは? 体のこともわからない。なんかもう、どうでもよくなる。自業自得とはいえ、あっけない終わり方だ。
次にどんな趣味を見つけようか。ゲームとか、スポーツとか。今更始めたところでまた中途半端終わるのだろう。わかっている。今更? なら何歳から始めるのがよかった? 今、三曲目か。『ブラーニー・ピルグリム』。どうでもいい。
そんな時だった。
「いい曲だ。映画は観た?」
唐突に、見知らぬ中年男性に話しかけられたイリナだが、一瞥し、興味なさそうに視線を音源のほうに戻す。
「……別に」
観たけど話を膨らませたくない。最後は沈んで終わる。あたしはローズではなくジャック。
キャリーケースを転がしている男性は、気にせず話を続ける。
「タイタニックには実際、八人の音楽家が乗っていて、劇中でも沈みゆく船の中で仲間に『今夜、諸君らと演奏できたことを光栄に思う』と発したバンドのマスター、ウォレス・ハートリー。彼は婚約者にプロポーズしたばっかりだった」
「……知らないって」
八人もいたっけ? 少し思い返してみたが、曖昧にしか脳裏にないイリナ。そしてあの男性はそんな名前だったのか。しっかりと会話が完成してしまっているが、感情は揺れない。




