131話
冬の風が吹き 夜は更ける
菩提樹は恐ろしげに 唸りを上げる
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誰もが俯いて情報を得ようとする。それは今日のニュースなのか。友人とのメッセージのやり取りなのか。はたまた思いついたことをメモしているのかもしれない。
パリ市内を走るメトロ。時刻は一九時をまわった。携帯を真剣に見つめる人々に紛れ、同様にインターネットを介し動画を観るイリナ。そこまで混んでいない車内。座席も空いている。だがドア付近に立つ。表情は晴れない。
「……」
ワイヤレスイヤホンから流れてくる音。適当に興味のある動画を再生。すぐ消す。再生。すぐ消す。面白くない。画面をタップする指にも力がこもる。そのまま突き刺しかねないほどに指は震え、大きく息を吐いて中断する。家に帰るまでの電車の時間。なんて無駄な時間。一秒でも長く練習しなきゃ、と思いつつも、その練習に意味はあったのか、と回顧する。
「……」
思い出したように、ピアノを弾いている動画配信者のチャンネルへ。上手い人もいれば下手な人も。中にはコンヴァトを卒業している人もいるが、そういう人は当然上手い。なんで配信するんだろう? 承認欲求? お金のため? 誰か憧れの人と近づきたい? 再生を消して無音の中。色々と考えてしまう。
「……」
ふと、サン=サーンス『死の舞踏』の動画を開く。ピアノ独奏もあれば、オーケストラもある。このくらいであれば自分でも弾ける。それと同時に、弾くだけになっていることに気づく。作曲家の想いを汲み取ろう、という基本的なことさえ忘れていた。サン=サーンスからこうメッセージを受け取った。でも読む前に破り捨てた。そんなピアノに意味は?
「……」
自身の成長に停滞感を感じ、焦りからベルの技術を真似しようとした。どこか、ベルを下に見ていたのかもしれない。窮屈そうに弾く彼女のピアノ。だが、調律さえ合ってしまえば、誰よりも輝く。これじゃダメだ、と意識を入れ替えるが、ならどうすればいい? と解決にはならない。
一度自分の音を見失うと、面白いように音に迷いが見えてくる。ピアノという繊細な楽器。曲芸に浮気をしたツケは大きく、球技などでもよくあるイップスのように、突然に今までできていたことができなくなってしまうことがある。
「……」
小さな体に似合わぬ、パワーのあるフォルテッシモを武器にピアノを弾くカルメン。作曲家の意思を読み取り、自身の音を引き出すことに長けたヴィズ。調子に波はあるが、一度乗ってしまえば圧巻の技術を見せるベル。詩を読むように、流麗な音の粒を持つブリジット。みんな自分の音がある。
ならあたしは? 柔らかなピアニッシモが失われたあたしに価値は? グレートヒェンのような、心の乱れた曲しか弾けない? でも、カルメンもヴィズもベルもブリジットも。きっと、自分だけの音を持ちながら乱れた心を表現できる。ただの濁った音とは違う。
ピアニストは、鍵盤の深さ一〇ミリの強弱とペダルで違いを生み出す世界。そこに自分の居場所はあるのだろうか。きっと、みんな優しく迎え入れてくれるはず。でもそれゆえに、あたしは安心して堕ちていくのだろう。
「……」
昨日までできていたことが今日できなくなり、明日には忘れてしまう。ピアノのない世界はどこだろうか。シューベルトが魔王なんて作曲しなければ。リストがピアノの可能性を広げなければ。そんなことを考えながら、メトロに揺られ、運ばれていく。その役割を全うしてくれる。




