130話
「あ……イリナさん——」
去っていく彼女の腕を掴むこともできず、ブランシュの手が空を切った。どんどんと小さくなっていくその姿が儚く消えていく。熱い吐息が漏れる。
淡々とひとり、イスに座り直して準備を整えるヴィズ。細く長く呼吸。全身に行き渡るように。
「放っておきましょう。一度バランスが崩れると、持ち直すには時間がかかる時もある。本当にビブラートの道で進むのか、それとも道を戻すのか。個人的には、ビブラートを狙っているあの子、すごくつまらなそうに弾いてたから、私の嫌いなピアノだった」
ギリっと奥歯を噛む。本来のあの子のピアノなら、誰よりもサン=サーンスの死の世界観を表現できたはず。口惜しい。
ブランシュもイリナの実力を知っているだけに、いきなり来た挫折に耐えられるのか、どうしても気になってしまう。
「……大丈夫、でしょうか」
程度は違えど、あのベートーヴェンですら挫折で遺書まで書き残している。音楽しかやってこなかった音楽家にとっての挫折は、想像を絶するほどにダメージが大きい。まさかベートーヴェンのようなことはないだろうが、辞めてしまう可能性も。
だが、ブランシュよりはイリナのことを知っているヴィズは、いつものこと、とでも言うように心拍数も平常。
「ベルだって一度ピアノを辞めている。頑張って努力する意味なんてないんだから、辞めるのも正解。あの子の人生にピアノがあるなら弾き続けるわ」
弾けたものが弾けなくなる。そのダメージはたしかに甚大だが、治りも早い。治らないなら、違う道を探すのもいい。
その妙に説得力のある人生観に、ニコルは疑問を持った。なんとなく、達観している。
「ヴィズも辞めたくなった時ってあるの?」
その根源はどこか。本人の体験談なのだろうか。
しかしヴィズの否定はかなりあっさりとしたもの。
「ないわね。弾きたくなくなったら弾かない。私は上手く弾くことより、この先長く弾くことを目指しているから。だから、元々上手く弾こうという気はないの」
肩に力を入れず、自由に思うがままに。限界以上の演奏を求めず、常に出し切れる全力を。それゆえに気負うこともなく、自身を俯瞰して見ることができる。
その落ち着いたピアノの音に、ブランシュは納得した。
「それがヴィズさんと噛み合っているのかもしれませんね」
勉強になる。出せる力を見極めること。安定感。ヴィズの強みがわかる座右の銘。
小さい頃から、ピアノに関して言えば緊張とは無縁だったヴィズ。大きくなるにつれて、ほどよい緊張とリラックスの中間地点がわかり、自身のベストに常に身を置いている。
「これは私のピアノだから。参考にしていいけど、押し付けたりはしないわ。とりあえず、弾きましょうか」
「……はい」
イリナのことはやはり気になる。だが、今は目の前のことに集中する。時間を割いてくれているヴィズのためにも。気合いを入れ直し、ブランシュは舞台へ上がった。




