129話
「音自身が聴衆に語りかけてくれる。我々ピアニストがそれを押し付けるのは傲慢だわ」
弾きながら、隣に座る迷い子に語りかけるヴィズの忠告。いいピアニストは、聴衆に考えさせるピアノを弾く。私はこうだ、と主張するのではなく、私はこう思うけどあなたは? そんな対話が成立するような。
まるでシューベルト本人の囁きが聞こえてくるようで、ブランシュは圧倒される。
「すごい……!」
初めて会った時も、彼女の『愛のワルツ』は深く沈み込む重さと、喜びの跳ね上がる軽やかさが染み渡る、そんな素晴らしいピアノだったことを思い出した。心臓がドキドキとする。
第一楽章は約一五分ほどあるが、その途中で唐突に弾くのをやめるヴィズ。これ以上は意味がない。
「命の燃える温度。輝き。後悔。苦悩。そして、最後の刻。ビブラートなんかなくても、あなたよりはよりシューベルトを理解できているつもり」
ブラームスやバッハなどと比べて、譜面の読み込みは当然浅い。だが、しっかりとした自分の答えを持っているため、響くものがある。
舞台下で呆けた顔をしつつ音を捉えたニコルにも、目に見えないなにかが伝わった。
「今、見えた気がする……」
隣に並ぶブランシュも同意見。ずっと昔に亡くなった人物の声が、たしかに届く。
「シューベルトの想い、のようなものでしょうか。ヴィズさんの技術と、音に乗せた解釈。見事、としか言いようがないですね……」
たった一〇ミリの鍵盤の沈み込みとペダル。それだけで過去と現在、未来が繋がる。数分の演奏だけでも、感じ取ることができた。
しっかりとダメージを負ったイリナの声はか細い。
「……三曲目ってなんなんだ……?」
半分以上は諦めている。だが、せめて曲名だけでも。知らずに終わりたくない。
感情を一切交えず、事実のみを語るヴィズ。
「サン=サーンス『死の舞踏』。くしくもこれも命を司る曲目。本来ならあなたがやるべきだった」
その言葉に、堰を切ったようにイリナは溢れ出す感情を床に向けて吐露する。
「必死に練習するからッ! だからあたしが——」
「ブランシュにとっては楽しく作るから意味があるの。今のあなたでは無理」
こんな状態で手伝われても迷惑、とヴィズの強い語調。婉曲した言い方はしない。最短距離で突き刺す。
そのやりとりを呼吸を忘れて見入っていたニコルが、ようやく流れをまとめにかかる。
「……非常に話に入りづらいんだが、ヴィズにお願いしちゃってオッケーってこと?」
「それかブリジットね。あの子、今弾くのが楽しくてしょうがないって感じだから。ショパンだけじゃなく、色々な作曲家に触れているから、サン=サーンスもいけるでしょう。カルメンとベルも手伝うって言うでしょうし」
ヴィズが挙げた人物の中に自分はいない。恥ずかしさも相まってイリナはイスから立ち上がり、俯きながら早足に階段を駆け上ってホールから出ていく。




