126話
胸に手を当てたブランシュは、小刻みに呼吸を繰り返しながらその質問に返す。
「……そういう曲ではないですね。まず、まるで天に召されることがわかっている自身を、受け入れて俯瞰しているかのような、そんな優しいピアニッシモから入るのですが——」
というお膳立てをキッチリ回収するピアニッシモが唐突に遮る。
強張ったイリナの指が奏でるソナタ。
「……たしかにちょっと強いような、そんなこともないような……」
なんとなく、ニコルにも言われたら伝わるものがある、そんな気もする程度。だが二人にはさぞかし聴くに耐えないのだろう。
「シューベルトも苦笑いね」
やはり聴く人によってはすぐにわかる。荒々しい、尖ったピアニッシモ。すぐに訪れる、低音部での唸りのようなトリルにも、感情が見受けられない。そしてそれに引っ張られるように変ト長調に転調。ものの数秒で判別できた。
明らかな不満を見せるヴィズを横目に、ニコルはブランシュにもひっそり確認を取る。
「ダメそう?」
感情的になっているヴィズよりも、フラットに見えているだろうと予測。できれば、その予想は外れて、いい演奏だったら万々歳。
ということもなく、静かにブランシュは首を縦に振る。
「……はい……」
イリナの性格とは正反対な、タッチの柔らかさが全く生かされていない。まるで挽いたエスプレッソをポルタフィルターに入れすぎた時のような、雑味のある味わい。本来の彼女の輝きからはとても似つかない。
「あーッ! もうッ!」
自身でも弾いていてストレスが溜まったようで、途中でイリナは投げ出す。曲の難しさでいえば中級程度。弾けない難易度では決してないが、余計なことを考え、余計な力が入り、余計な技術を加えようとして弾けるものではなかった。
言った通りの結末になったニコルだが、納得がいかない様子。
「でもなんでいきなり調子を崩したの? ケガとか?」
まだしっかりとイリナの演奏を聴いたことがあるわけでもないし、聴いたところでわかるかは微妙だが、その理由は気になる。今後の戦力として数えてあるので、ここで離脱されたら困ると言えば困る。
ブランシュとヴィズには、ひとつ思い浮かぶ節がある。そして先ほどの演奏で気になった点。
「……たぶんですけど」
「ビブラート。できていないけど」
二人の意見は一致する。ビブラート、ピアノでは実現可能であり不可能でもある、音を『揺らす』技術。
ピアノは一度ハンマーが弦を叩いたら、その後は音は小さくなっていくのみ。声やヴァイオリンのように、震わせることは構造上不可能。だが、鍵盤を叩いた瞬間の僅かな緩み、遊びの部分で上下もしくは左右に振動させることで、可能とも言える。だが、かの二〇世紀を代表するピアニストであるグレン・グールドですら、使いこなせなかったピアノにおいての極限の技術。
ビブラートすることによって、感情などを表現する力は高まる。が、一方で調律に左右される点や、過信し過ぎれば弾きづらさを招く諸刃の剣。理論上可能であるだけ。それには高い基礎的な技術があってこその、実用性のない一発芸でもある。




