123話
「ホームシック、ってやつかしら?」
少し意地悪さが増したヴィズも加わる。パリ生まれパリ育ちの彼女にはわからない感情。経験してみたいようなそうでもないような。
ホームシック、とは違うのだが、正しい表現がブランシュにもわからないため、言葉に詰まる。
「……どうなんでしょう、一度帰りたいとは思いますが、今ではないですね。まだ二ヶ月、です」
故郷の友人達から温かく送り出された手前、今はまだ早い気がする。もう少し、ここで経験を積んでから。
そうこうしているうちに、完全に慣れた手つきでホールのフラッパーゲートを通る。別に普通なのだが、偽物の戸籍で侵入しているニコルが一番堂々としているのには、ブランシュには違和感しかない。
そして現在は使用中のため、ホールの扉をゆっくりと開けつつ、ニコルは先陣を切って入る。
「よっしゃ一番……ん? なぁ、あれって」
すり鉢状の階段を降りつつ、現在使用している人物に注目。古代ローマのアンフィテアトルムから着想を得たという、客席がステージを円形に囲むホール。そこでスタインウェイの最高級ピアノを弾く姿に見覚えがある。
続いて入ったヴィズもすぐに気づいた。
「イリナね。ちょうどいいわ、眠らせましょう」
「待ちましょう」
なぜ穏便に事を済ませようとしないのか、ブランシュには甚だ理解できないが、見知った方でよかったという安堵もある。イリナのまるで羽根のような軽やかで柔らかなタッチ。それを時間まで聴いているのも贅沢。
……なはずだが、その音の違和感をすぐに把握した。
「……ヴィズさん、これって——」
横に並んだヴィズに視線を移す。胃がもたれるように息が詰まる。
考えていることは一緒。浮かべるヴィズの表情は苦々しい。
「……みたいね……」
シューベルト作曲『糸を紡ぐグレートヒェン』。ゲーテの戯曲である『ファウスト』の詩を出典とする歌曲。ファウストのことを想うグレートヒェンの独白。美しくも哀しい悲痛な叫び。激しい胸を高鳴りを表現するため、詩では六節と七節、九節と一〇節は区切られているにも関わらず、文章としては続いており、いわゆるアンジャンブマンという手法が用いられている。
感情の昂りに呼応するように、元になった詩もリズムをあえて乱したような箇所もある。ありとあらゆるものを使って、極上の表現で書き起こされた至極の詩。そんな複雑な乙女心をピアノで表現するイリナ。髪も振り乱さんばかりに、全身でグレートヒェンと一体化する。




