116話
「それに今、使用しているものも、大切な方からいただいたものなんです。私の全てを知り、私が全てを知るヴァイオリンですから。これ以外に考えてはいません」
当然、いい楽器を使えばいい音が出るのだが、それを弾きこなすには時間が必要であり、実力も伴っていないと宝の持ち腐れになることを、ブランシュは理解している。それならば、愛用しているものを修繕し、使い続けるほうが理に適っている。
「まぁ、たしかに。よく私にはわかんないけど、来月にはリサイタルもあるわけだし。ヴィズの顔に泥を塗るわけにもいかないからね。そらそっかぁ」
勢いよく腕を天に伸ばし、肩や肩甲骨のコリをほぐしたニコルは、人目を憚らず欠伸。本人がいいって言ってるならしゃーなし。シュライバーを使用しないと末代まで呪う、と脅そうと思ったが、一応は姉妹ということになっているため効き目がない。自分まで呪われる。
だが、コーヒーのカップを持つブランシュの右手が止まる。少しカタカタとソーサーの音までたてだす。歯もガチガチとひっそり。
「……!」
「ん?」
明らかに動揺している姉の姿に、目の端に涙を浮かべたニコルは、テーブルに両肘をつき前のめりになる。
「どうしたの? なにかあった?」
なにか変なことを言っただろうか。思いつかないが、非常事態であることは間違いないらしい。目がバタフライで泳いでいる。
思い詰めたようにブランシュは口を開く。
「リサイタルのこと……忘れてました……」
「まじ?」
しっかり者のこの子にしては珍しい、とニコルは口笛を吹いた。いつもは自分よりも他人を気遣うが、忘れているとは。疲れているのかな?
肺に溜まった悪い空気を全て吐き出し、ブランシュは今後の予定をピックアップ。
「……そろそろヴィズさんと打ち合わせ兼練習をしていかないと」
時間はない。が、焦ってもいい演奏はできない。有料なのだから。お金を払ってくださる方々のためにも。と、それともうひとつ。懸念材料。
上手いこと同じタイミングで思いついたらしく、ニコルは先んじて話題にあげる。
「それと香水。三曲目だし、そろそろ慣れてきた?」
クラシックテーマに合った香水を作ること。それがギャスパー・タルマから課された宿題。を、ブランシュに代わりにやってもらっている。慣れてきたのであれば、あまり負担にならないように感じてくれていたら、こっちも気持ちは楽。
しかし、憧れの方に試していただく、という観点からもブランシュの気が休まることはない。
「慣れません。どんな曲がくるのか、その時にならないとわかりませんし。弾いたことのない曲だったら、と思うと……」
曲名を聞く時は心臓に悪い。人間の一生の鼓動の回数は決まっているというが、その瞬間に相当消費している。
「で、なんだっけ? なんかおどろおどろしい曲名だった気がするけど」
今回の三曲目、聞いたのだが当然のごとく忘れたニコルは、早々に思い出すことを諦める。聞いたほうが早い。
そんなことだろうと思っていたブランシュ。もう四回目くらいな気がする。目を瞑り、脳内で再生。
「同じような曲名のものが何曲かあるので紛らわしいのですが、作曲者はサン=サーンス。曲名は——」
踊る。骸骨が。墓地より這い出で。踊り狂う。
「『死の舞踏』、です」
木々が、揺れる。




