115話
「でも、手伝ってくれてるから、ってことで貸してもらえるんだよ? ギブアンドテイクじゃない? 遠慮することないって」
食い下がるニコル。いつも心の底ではブランシュに対して、深い感謝をしている。本来、香水を製作するのは自分の役割。それを担ってくれている。感謝の気持ちを示したい。まぁ、じいさんのヴァイオリンなんだけども。
もう食事も終え、ゆったりと午後の授業を待っている。本来なら席を立つべきなのだろうが、まぁまぁ空席もあることと、喋っているだけの人々も大勢いるため、同様に会話を楽しむ。ただ、二人の場合は押し売りのような形なので、本当に楽しんでいるのかはわからない。
自室に置いてきた、この場にない自身のヴァイオリンを、ブランシュは思い浮かべる。
「お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます。本来、ストラディバリウスなんて名器、ヴァイオリニストであれば、一度でも弾くことができたら誉れなわけですから」
それでもやはり、かの有名なストラディバリウスを手に入れたのでもう、今のヴァイオリンを弾きません、なんてこと、自分には言うことはできない。それに弾きこなすことなど、できる気もしない。ただ、楽しく弾くことが目的。ならば、一番信頼のおける楽器に託したい。
「弾いちゃえばいいじゃん。ちょっとだけ。浮気とかじゃなくて、試弾、っての?」
唇を突き出したニコルの眉も寄る。そしたら、もしかしたら考えも変わるかもしれない。殻を破って、前に進もう。
だが、それでもブランシュは頑なに首を縦に振らない。
「私はヴァイオリニストではありません。上手くなる、というのは結果です。目的ではあってはダメなんです」
それを求め出した瞬間から、自分の音が自分のものではなくなる。そうなることが怖い。だからこそ、『楽しい』という枠内で終えなければ。
「……あーもう、はいはい。こうなったら頑固だから、テコでも動かないわね。ま、借りたくなったら言って」
諦めるしか今はできないニコル。彼女からしたら、香水が出来上がれば正直なんでもいい。最高ランクのヴァイオリンて、みんな弾きたいものなんじゃないの? という考えから勧めたまで。
ストラディバリウスは協会などが所持し、持つに相応しい人物に貸している、というものも多い。ドルフィン、アサード、メサイアの愛称で知られるストラディバリウスの中でも三大名器と名高いものを筆頭に、音楽財団やNPO法人、大学などが保有し、貸与している。
ヴァイオリンはインテリアではない。楽器は弾かないのであれば劣化していくのみ。ピアノなどもそうであるが、弾くことによってひとつひとつのパーツが馴染み、新しい音を形成していく。ゆえに、奏者が何代にもわたって紡いでゆく。
六〇〇あるヴァイオリンのストラディバリウスの中には、詳細が不明なものも多数ある。そのうちのひとつ『ストラディバリウス シュライバー』。記す者、を意味するこの一台は、一七一三年に製造されたという以外は謎に包まれている代物。その後行方がわからなかったが、現在はギャスパー・タルマが友人から贈答され、所持している。




