113話
「で。ヴァイオリンケースなんか持って、どうするんだ?」
この爺さんが今から始めるとは思えない。くれるのならもらう。弾かないけど。ベアトリスは嫌々ながらも質問した。
ギャスパーはニヤリと笑う。その中身。自身も少し気後れするもの。
「とりあえず開けてみてよ」
そう、ヴァイオリンケースをベアトリスに手渡す。価値のある重み。それから解放されると、多少の安堵の表情を浮かべた。
「なんだ?」
不審に思いながらも、指示通りベアトリスはケースを開ける。そして驚愕する。
「……こんなものどうする気だ? これを持って普通にここまで来たのか? ありえん」
貶すように、ギャスパーを見つめる。軽く舌打ち。
そしてギャスパーもその視線を受け止めた。
「さすが。よくわかってるね。ストラディバリウス『シュライバー』」
さすがにベアトリスも一度深呼吸する。今ここに、とてつもないものがある。
「ストラディバリウスには、様々な名前がついているが、『シュライバー』はどこにあるのか不明だったはずだ。よく見つけたものだ。本物かはわからんが」
「頑張りマシタ。すごいでしょ?」
家庭菜園で取れすぎた野菜、くらいの軽い感覚で持ってきたのか、ギャスパーは少しおちゃらける。
ベアトリスも冷や汗。ストラディバリウスの三大名器、とまではいかないだろうが、とてつもない価値があるものだとはもちろんわかっている。
「答えになってないな。で、こんな数百万ユーロするようなもの、どうする気だ? コレクションか? 自慢するために持ってきたのか?」
それに対するギャスパーの答えは、案外あっさりしたものだった。
「まさか。どんなものも使ってこそ価値がある。使われなければ、ストラディバリウスも、ただの木と弦の置物だよ」
そして、視線を舞台の上に向ける。その先には、演奏を終えたブランシュ・カロー。普通科に通う、ただ音楽を楽しみたいだけの少女。
焦りとも落胆とも取れるため息をベアトリスはつき、睨むようにギャスパーを問いただす。
「……正気か? これをあの子に?」
「太っ腹だよね、自分でもそう思う」
その目線の先は、本当にブランシュなのか。その先のなにかなのか。ギャスパー自身もわからない。ただ、そうしたいという欲望。予測のつかない未来が見たい。
そろそろだ。自身も午後からは店を開ける。そのためにもそろそろ帰宅しなければ。ベアトリスは最後にひとつだけ、ギャスパーに問う。
「あんた、あの子のなんなんだ?」
なんでもかんでもお見通し、そんなこの子でもわからない。少し愉快。その問いに対し、ギャスパーは口元に人差し指を当てて返す。
「秘密」
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