13.元妻は最後に暴言を吐く②
私は死に掛けているようだった。
だから、ライラがここにいる。病院から事前に十歳未満の子供を連れてのお見舞いはお控えくださいと告げられていた。つまり子供が騒ぐと他の患者の迷惑になるから駄目だということだ。
もう最後だからと特別に許されたのだろう。――別れの挨拶のためにここに呼ばれたのだ。
お医者様はもう何もしていない。出来ることはすべてやり尽くし、私の命が消えたあとに『残念ですがご臨終です』と死亡宣告する為だけにここにいるのだ。
まだ息をしているのは、微かに胸が上下していることから辛うじて分かる。
けれど、もう駄目だなって、医学の知識がない私でもそう思った。
…‥死ぬんだな、私……
――奇跡は起きなかった。
リヴァイの顔は涙と鼻水でぐしょぐしょになっている。ライラはそんな父に抱かれているけれど、キョトンとしていてる。まだ幼すぎて母親との別れを分かっていない。
分かるわけがない、まだ一歳なのだ。…そう、母の記憶さえ残らない。
この子は産みの母親を知らずに成長していくのだ。
ごめんね、ライラ。お母さん、頑張れなくて。あなたに何も残してあげられない。
母の味も教えていない。裁縫も、勉強も、歌も、そして恋をした時にどうすればいいのかも、何もかもまだ教えていない。
――教えたかった。
『お母さんっ、もう分かっているから!』
『そう?でもね、もう少し――』
『もうっ!お母さん、心配しすぎだからね!』
こんなふうにライラは反抗したのかな…。
そして年頃になって恋を知って、素敵な人と巡り会って『お母さん、聞いて聞いて!』と嬉しそうに話してくれて…。
もうそんな未来を見ることは叶わない。……見たかったな。
そっとリヴァイの頬に手を伸ばす。
約束通りに涙を拭ってあげたいけれど、私の手は彼に触れることはない。
「カサナっ!約束を破るな…よ。うっ、うう…」
(破ってごめんね、本当にごめんね…リヴァイ)
「許さない、絶対に許さない…か…っ…ら」
(愛しているわ、私も愛しているからね…)
私の声を彼には届かない。それが分かっていても、声を限りに叫び続ける。
ライラを抱いて泣き崩れる彼を抱きしめようとしても、私の腕は彼らの体をすり抜けてしまうだけ。
……もう私に出来ることはなにもない。
これから私はどうなるのかな。
声が届かなくても、何も出来なくても、リヴァイと娘のそばにいたい。
それぐらいは許されるはず。
そうよね?神様…
そう呟いたのは神様に尋ねたかったからではなく、習慣みたいなものだった。
だって、神は本当はいないともう分かっている。
(すまんの、それは無理なんじゃ)
(えっ、…神様…?)
――神はいた。
その姿は想像通りで、神様以外考えられない。
さきほど神は無理だと言った。
でも事情を話せばきっと分かってくれるはずで、なんなら奇跡を起こしてくれるかもしれない。
だって神は平等に愛を分け与える。
こんな悲惨な結末を見逃すはずはないわ。
私はみっともなく神に縋がりついた。『どうか奇跡を起こしてください、お願います!あと数年、いいえ、数ヶ月だけでもいいから』と。
でも神は『出来ないんじゃ、すまんの』と繰り返す。
(どうしてですかっ!)
(そもそも起きないから、奇跡なんじゃよ)
はっ…はは、奇跡は安売りしないというのか。
期待させて突き落として、また期待させて突き放す。
(それなら、せめて夫と娘のそばにいさせてください。ただ見守っていたいんです。何も出来ないのは分かっています。それなら意味がないだろって思うかも知れませんが、それでもそばにいたいんです!神様、お願いします)
(死んだものは天に行く決まりになっているんじゃ、すまんの)
あれも駄目、これも駄目。それならなんだったら出来ると言うんだっ!
神様のくせにっ…!
神に向けるべき感情ではないと分かっていても、怒りを吐き捨てる。
(神を名乗っているくせに奇跡も起こせない、ささやかな望みすら叶えない、誰も救わない。ただ迎えに来るだけなら死神じゃない…)
怒りを買って地獄に落とされても良かった。
夫と娘のそばにいられないのなら、天国も地獄も大した違いはない。
(神は運命に関与は出来ないんじゃ。どんな者でも受け入れ、そしてその者の怒りや苦しみなどの負の感情がなくなるまで寄り添うだけなんじゃよ。すまんの、命の灯が消えたら魂は天に昇る。ここには留まれん)
神はベッドに横たわる私の体に視線を向ける。
さっきまで立っていた医者が今は私の手首を触って脈を確かめ、そして首を振ってからゆっくりと立ち上がる。
別れの時なのだと分かった。
私の意識がだんだんと曖昧になってくる。これはきっと神様が言っていた魂が天に昇るということなのだろう。
まだ別れを言ってないのに。聞こえなくてもちゃんと言っておきたい。
(リヴァイ、一緒にお婆ちゃんになれなくてごめんなさい。ライラ、成長を見守ってあげられなくてごめんね。それから、ライラをお願いね!リヴァイ、それから愛して…ぃ…)
――「残念ですがご臨終です」
医者の言葉とともに私の意識はこの部屋から離れていく。愛する旦那様と娘を残して……。
踏みとどまろうとしても、どうしようもなかった。
(すまんの、決まりなんじゃよ)
(……神様なんて大嫌…ぃ………)
◇ ◇ ◇
ふわふわと漂っている感覚。
隣には神様がいて、魂となった私も体がある。これは実体があるわけではなく、生きていた頃の記憶が体の感覚を作っているのだと神様は教えてくれた。
魂には時間の感覚がないようで、あの部屋から出てからどれくらい経過したか分からない。
数分なのかそれとも一時間なのか。
たぶん、時間はそれほど経っていないと思う。心を抉られる苦しみはそのままだから。
まだ天に向かっている最中で、神様は気軽に話しかけてくる。気さくなお爺ちゃんという感じで、神々しさはない。
(全知全能の神のくせにっ……)
(すまんの。だが勝手に人間が言ってるだけでな。儂も困っておるんじゃ)
申し訳無さそうにそう告げてくる神。
(困っているなら否定しなさいよ。奇跡は起こせませんって!期待しちゃったじゃない…の…)
(そうしたいんじゃが、なんせ生者には神は見えんからの……)
魂になっても涙は出るようで、私は怒りをぶつけながら泣いていた。
神様が私を咎めることはない。
――ただ忍耐強く受け止めるだけ。
(負の感情が消えるまで魂は天に留まる。だから天国から見守ることが出来るぞ)
(……っ……!)
大事なことは最初に言うべきだ!
遠くから見守れるという事実に胸がいっぱいになる。
ライラとリヴァイにまた会える。一方的に覗き見るだけだけど、それでもいい。
――子供のように声を上げて泣く。
悲しくてやりきれない、どうしようもなく苦しいけれど、それでもほんの小さな灯りが心に宿る。
私は天国に着くまで泣き続けて、神様はそんな私にずっと寄り添っていた。




