12.元妻は最後に暴言を吐く①
私は成功率五パーセントの手術を受ける病人とは思えないほど元気で、直前の検査結果の数値も劇的に良くなっていた。お医者様も驚いていて『この状態なら成功率は八十パーセント以上です』と言ってくれた。
「……神様って本当にいるのね」
思わずそう呟いていた。信仰心は待っているけれど、実際に会ったことはないから、人づてに奇跡が起きたと聞いても、本当かな?と実は疑っていたのだ。
疑い深い子羊をお許しください、神様。
でも今は信じている。これを奇跡と言わずになんと言うのだ。
「今まで真面目に生きてきて良かったな」
神の存在を目の当たりにして感動していると、ベッド脇にいる元夫も深く頷いている。彼も今回のことで信仰心が深まっているのだろう。
「カサナは真面目で、可愛くて、料理上手で、…怒ると凄く怖い」
「……最後のはいらないわ、リヴァイ」
なんでだろう、微妙に話が噛み合わない。
訂正します、神様。今日も元夫はいつも通りで、たぶん信仰心も変化なしです。
いつも通りだからこそ、手術前の緊張がどこかに飛んでいく。
ふふ、ありがとうね。
本当に夫婦もとい元夫婦ってよく出来ている。
これも変わった阿吽の呼吸なのだろうかと笑みが溢れる。
三日間だけの元夫婦呼び。思ったより悪くないなと思ってる。何十年後に『こんな事もあったのよ』と孫に話すのが楽しみだ。
「リヴァイ、あなたとまた結婚するのが楽しみだわ」
「落ち着いたら二度目の式を挙げような」
形だけの離縁なのだから必要はないという私に、元夫はなぜか気まずそうな顔になる。
「……もう頼んだ」
「なにを?」
目を逸らし小声で呟く元夫。肝心なことを言わないから当然聞き返す。
「花嫁衣装だ。ライラとお揃いの生地にした」
「えっ、それって……」
親子でお揃いということは特注だからキャンセルは出来ない。もし無駄になったらと考えなかったのだろうか。
まったく、こんな時に無駄使いしてっ!
そう言おうとして、彼が唇を噛み締めて泣くのを必死に我慢していることに気がついた。
――こんな時だから彼は買ったのだ。
彼はこうして私がいる未来を先に形にしてくれている。
『ここが君の居場所だから絶対に死ぬなっ!』と本当は泣き叫びたいのだろう。
でも必死に堪えているのだ、手術を前にして私に負担をかけないように。
だから、こんな形で頑張れって伝えようとしている。
――花嫁衣装は彼の想いそのもの。
「絶対に花嫁衣装を着るね」
「……」
彼は返事をしなかった。きっと口を開いたら泣いてしまうと思っているから黙っているのだ。その代わり何度も何度も頷いている。
「泣いていいの、いつも通りにして」
「‥……なか…な…ぃ…」
私は彼の頬に手を伸ばし、その頬を伝う涙をそっと拭う。彼の想いと同じでその涙も温かい。
彼は静かに泣いていた。……でも自分では気づいていない。なぜなら私の頬を濡らす涙を拭うことに一生懸命だから。
――二人で泣いていた。
泣かないつもりだったのに、いつから私も泣いていたのだろう。
きっと彼と一緒に泣き始めていたんだろうな、夫婦だから。これからもずっと……。
「リヴァイ。私、目覚めたらまたあなたの涙を拭ってあげるわ。だから、その分の涙を残しておいて。ねっ?」
だから、もう泣かないで…。
あなたが泣き止んだら、私の涙も止まるから。
「…うっ…うう‥。俺の涙を拭くのは一生カサナ‥の役目だからっ…な…」
「ええ、約束するわ。リヴァイ」
「破ったら許さな…からなっ」
許さないって言われているのに『愛しているっ』と叫んでいるようにしか聞こえない。
…私も愛してるわ、泣き虫な旦那様……
本当は言葉にして伝えたかったけれど、そうしたら彼は泣き崩れてしまう。
必死で耐えている彼を支えるのは、妻の役目――私だけの特権。
だから愛を込めて、違う言葉を彼に贈る。
「私が約束を破ったことあった?」
「ない!!」
彼の涙は止まっていた、そして私の涙も…。
枯れたのではない、大切なその時までとっておいているのだ。
それから二人で抱き合って、手術の時間が来るまで未来のことを話し続けた。
そして手術室へと向かう時間となった。
私にも彼にも、もう悲壮感はない。あるのは未来への希望だけ。
かもん、奇跡!
「ちょっと行ってきます」
近くの魚屋さんへ行ってきますという感じで告げた。
「おうっ!そして三日後にはまた夫婦だな」
「そうね、貴重な独身生活を手術台の上で楽しんでくるわ」
私は軽口を叩いて笑っている。リヴァイとはあれから未来の約束をたくさんしていた。私には破るなんて選択肢はない。
それに神様も私に味方してくれているから、もう奇跡が起こる未来しかない。
私は元夫に元気に手を振って手術室へと入っていく。そして『待ってるからな!』と見送る彼の声も明るかった。その手には記入済みの婚姻届が握られていて、三日後の準備は万端だった。
まったく、気が早いわ……
苦笑いしながらも、そんな彼の態度を誰よりも喜んでいるのは私だった。
◇ ◇ ◇
――三日後、私は目覚めた。
目の前には夫の姿があって、その腕には可愛い私達の娘ライラが抱かれていた。
ベッドの周りには、白衣を着たお医者様や数人の看護人も立っている。
思った通り夫は泣きながら『カサナっ…』と私の名を叫んでいた。
感極まってだと分かっていても、その様子はちょっと引いてしまうレベルだ。
涙を拭う約束はしたけれど、これはどう見ても泣き過ぎ。周りにはお医者様もいるのだから、もう少し人の目を気にしてもらいたい。それにライラだってびっくりして泣き出してしまう。
クスッ、本当に困った旦那様ね……。
(もう起きているわ、リヴァイ)
声を掛けるけど反応してくれなかった。それは夫だけでなく、他の人もだった。
自分では声を発したつもりだけど、術後だから出ていなかったのだろうか。
それとも夫の泣き声に掻き消されたの。
(ねえっ、ちゃんと起きているわ)
意識して大きな声を出したのに、やはり誰も何も言ってくれなかった。
目覚めたばかりだからまだ頭がぼうっとしているけど、なにかがおかしいと感じた。
なにがだろうか……?
まず誰も反応を返してくれないことが変だ。
そして、次におかしいのは視線があわないことかな……。
――あっ、…あぁ…そんなっ…
なんで気づかなかったのか。
私が目覚める時は必ずそばにいると夫は言ってくれた。
それなら、目覚めたばかりの私はベッドの上から、彼の顔を見上げていなければおかしいのだ。
それなのに、今、私は彼の震える背中をこの目に映している。
では、ベッドには誰がいるのか。
――私がいた。
真っ白な顔でベッドに横たわっている、まるで死んだように動かない。
鏡に映る見慣れた自分と違って、頬はこけ、目は窪み、そしてその目は固く閉じられたまま。
でも紛れもなくそれは私だった、見間違えるわけがない。
私の体はまだ目覚めてはいなかった。
それなら、目覚めて立っているこの私はいったい誰な…のだろか。
頭の中が真っ白になって、ふらふらとベッドのそばに近づいていく。
誰も私のほうを見てくれない、みなの視線はベッドの上にいる私に注がれたままだ。
(ねえ、誰か教えて!お願いだから、そっちじゃなくて私を見て……)
震える私の声に応えてくれる人は、誰一人としてこの部屋にいなかった。
お読みいただき有り難うございます。




