#2 あざとい小悪魔
「終わったぁ」
夕焼け空が焦げ始める頃合い、ようやく春斗は用事を済ませた。辺りは既にぼんやりと暗く、世界が宝物をこっそりと隠しているように思える。
午後七時と言えど、今は夏の入り口に立っている季節だ。まだ子供が寂しくなるほどの暗さではなくて、不思議な高揚感が湧いてきた。
「メシ、買って帰ろうかなぁ」
今日は夕食を作る気分にはなれなくて、そう思案する。ちょうど近所には手頃な価格の弁当が売っているスーパーがあったはずだ。
問題があるとすれば時間帯的にまともなものがなさそうなことだが……。
「って、そうだ。ハンカチ届けてこないといけないんじゃん」
丁寧にポケットの中に入れていたハンカチの存在に気付いたのは、スーパーへと歩き出したときだった。
取り出したハンカチは今朝見た通り綺麗だ。しわをつけてしまわなかったようでよかった、と思う。
だが、同時に問題も一つぷかりと頭に浮かぶ。
もう帰宅途中なのだ。さっきハンカチを拾った場所の最寄り駅から電車に乗り、二つほど隣の駅で下車してしまっている。めっきり人の数が減っているのがその証拠だ。
「あー……どうすっかなぁ」
おそらく、拾った場所から最寄りの交番に届けるのがベストだ。
けれども今から戻るのは些か面倒くさい。駅二つ分だけなのでそんなに遠くはないが、帰宅気分になっている状態で戻るのはどうしても躊躇ってしまう。
こんなことなら現地解散にすればよかった、と後悔する。まぁ、ハンカチの存在を忘れていた自分が悪いのだが。
「あそこの交番でいいか」
今いる場所から少し離れたところに交番がある。そこまで歩く分には抵抗がない。電車に乗るのと乗らないのとでは、それだけで心持ちがだいぶ違った。
どうせ近所の交番同士では落とし物の情報くらい交換してくれるだろう。詳しい事情は知らないが、きっとそうだと信じて最寄りの交番に向かうことにした。
とってん、かったん、すっぽん。
履き慣れたスニーカーの気の抜けた音が閑静な住宅街ではやけに目立つ。
すぐそこには都会があるのに、この辺りはぷかぷかと眠っているみたいに静かだ。このアンバランスさは心地よく、それと同じくらい切なさに似た何かが湧いてきた。
「あれって……」
少し歩いたときだ。
道端の自販機に寄り掛かり、小さく体育座りをしている少女の姿が見えた。
何故だか、春斗はその少女を見て泣きたい気持ちになった。センチメンタルとは少し違う感情を胸の奥に押しやり、今はそれよりも少女のことを考える。
その少女は制服を着ていた。しかも、春が通う久呉高校のものだ。胸元の青いリボンは、彼女が一つ年下、つまり一年生である証だった。
亜麻色のミディアムボブと薄暗闇の中でも分かる肌のきめ細やかさ、そして自販機が発する光によって照らされた横顔。その全てに見覚えがある。一年生と面識が少ない春斗でも聞いたことがある有名人だった。
――小悪魔、と。
確か少女はそう呼ばれていた。名前は桜内花火。桜と花火で春夏制覇だな、とくだらないことを思ったのは記憶に新しい。
そんな花火は、もちろん本当に悪魔なわけではない。かと言って単なる小悪魔系女子とも異なり、『小悪魔』は春斗の学校では花火個人を指すあだ名と化していた。
同学年では並び立つ者がいないほどの美少女である彼女には噂があった。それが『何人もの男をたぶらかしている』というもの。
事実として、彼女は、一般ににあざといと言われてしまうような行動をしており、学年を問わず勘違いして告白する男子が多い。噂では、花火は告白してきた男子のうち自分の眼鏡に適った男子複数人と付き合っているらしい。
つまり小悪魔とは、花火をビッチだと揶揄するあだ名なのである。
(で、そんな俺と同類の奴がどうしてこんなとこにいるのかね)
肝心なのはそこだった。
無論高校はこの辺りなので、花火の家が近所だというのはおかしな話ではない。だが仮にそうだとしても、この時間帯に自販機に寄り掛かって体育座りをする女子高生というのは普通ではない。
手元のハンカチと花火を遠目に見比べた春斗は、小さく溜息を吐いた。
(こんなの放置できるわけがないだろ)
このあと、自分は交番に向かうのだ。花火を見捨てて行けば、まるで悪事を自首しに行くように思えてしまう。その意味の分からない罪悪感に苛まれるのは嫌だった。
「こんなところでなにやってるんだ」
「…………ナンパなら、他でお願いします」
ゆっくりとこちらを見上げた花火の瞳は、哀しげに凪いでいた。
拒絶色の絵の具が、水の入ったバケツの中で滲んで溶けている。春斗は困ったようにくしゃりと笑い、咳払いをした。
「こほん。いいや、あのな? ナンパのつもりならもう少し明るい時間にするだろ」
「そうでもないと思いますけど」
声はとても淡泊で、小悪魔だなんて呼ばれている少女のものとは思えなかった。
あざとさなんてどこにもない。相手にどう見られているのか、ということに頓着する心の余裕がないのだろう。
「まぁ、確かにそういうナンパもあるわな。でも俺は違う」
「信じられるわけないじゃないですか、ヤリチン先輩」
「ひどっ……。っていうか俺のこと知ってんのかよ」
「知らないわけないじゃないですか」
花火との面識はなかったはずだ。それでも花火が春斗のことを知っているのは、彼が悪目立ちしている証拠に他ならない。
「酷いよな。お前は小悪魔呼ばわりなのに、こっちはヤリチンだぞ。なんかいい感じにファンタジーなあだ名をつけてほしいと思わないか?」
「知りません。あっち行ってください」
「そうもいかないんだよ。俺はこれから交番に行く。そのときに迷子の女子高生を見捨てたら、挙動不審になるかもしれないだろうが」
「……知りませんよ」
ほんの少しだけ、花火の声の温度が上がった気がした。それでも二度、三度と拒絶を繰り返されてしまうのにはちょっとだけ堪える。
どうしたものか。春斗は髪をくしゃりと搔き、思案する。
カフェオレ色の瞳の奥で沈む不安を容易に掬い取れる、スプーンみたいな万能さがあれば、どれだけ救われることだろう。
でも春斗にはそんなものはない。だから――
「オッケー。なら粘り勝負でいこう。ナンパ野郎らしく、ネチネチな」
財布から100円玉二枚を取り出し、自販機にカランカランと入れる。
「何がいい?」
「…………」
「答えないならあったかいコンポタになるぞ。先輩命令で粒一つ残さず飲み切るまで帰さん」
「……いちごオレで」
「うわ、あざとっ」
一瞬でもムカッとした顔を見れたことに、春斗は小さなガッツポーズをした。
ちなみにいちごオレは120円だったので、100円玉を追加投入することになった。




