夜空君と瞳ちゃん《うそつきともうもくしょうじょ》
よく覚えている。自分のやることに意味と価値を見出せず、その日その日を機械的に過ごしていたことを。
よく覚えている。自分の居場所がどこにもない気がして、虚無感に襲われながら毎日を過ごしていたことを。
よく覚えている。何をしても、どんなにがんばっても――満たされず、生きる意味を問い続けながら生きていたことを。
自分は使い勝手の良い便利な道具なのだと言い聞かせ、物事を律儀に、せっせとこなしてきたことを。――困っている人たちに救いの手を差し伸べていたことを。
よく覚えている。教室の窓をぼんやりと眺めながら、また一日が始まると憂鬱だったことを。
そうやって、常に頭のどこかで、あるいは心で、意識的に――潜在的に飽きることなく考えて、止まらない歯車のように頑張っていたから。特別なことが起こったその日のことは、本当によく覚えている。
自分の過ごしているクラスに転校生が来たのだ。新しいクラスの仲間と、担任の教師が紹介したのは小さな少女で――両目を覆うように包帯を巻いていた。
「八色 瞳です。私は、病気で目が見えません」
ゆっくりと放たれた少女の一言でクラス中がいっきにざわつき始める。こうなるのも無理はないだろう、衝撃的だし、転校生というだけでどこか浮かれてしまうし。不謹慎極まりないが、盲目の人が珍しいというのと、なぜそんな子がこの学校に、という疑問もあっただろう。きっと、それぞれが色々な思いを抱いたと思う。
目の見えない少女にとって、何が起こっているかもわからない、色々な感情が渦巻く空間だというのに、臆することなく堂々と立っている小さな姿が、とても力強く、美しかったのを、僕は覚えている。
それからは、担任がざわつきを静めて、僕の隣が開いているからという簡単な理由で少女は僕の隣の席で過ごすことが決まって。一人じゃ移動が出来ないから、席まで手を引いて連れていけと担任に言われて、みんなの視線を浴びながら、気恥ずかしさと、戸惑いで少女の前まで移動して――
その後は――なんだっけ? 僕は何をしたんだろうか。
「そう……夜空海星……きれ……え……」
あれ……この子はなんて言ったんだ? 何でここだけ記憶から抜け落ちているのだろう。
――でもその後のことはちゃんと覚えている。
「よろしくね、海星」
席に案内して、といわんばかりに少しだけ差し出された、色白く華奢な手。こんなに美しい手に僕が触って良いのかと――怯えながら君の手をとったことを覚えている。
――強く握ったら折れてしまいそうな小さい手、マシュマロのような柔らかい感触、ぎゅっと握り返された力加減。そして何よりも、初めて触れたその手の優しい温もりを僕は覚えている。
使い勝手の良い便利な僕に新たな役割が一つ生まれた。
『小さな手の優しい温もり』
「八色さん、起きて」
四限目の授業終了後、お昼休み前の睡魔に勝てず夢の世界へ誘われて机に突っ伏す隣の少女に僕はいつも通り声をかけた。勿論、返事は返ってこない。出会ってから数ヶ月。寝ている少女を毎日、毎授業ごとにお越してきたので、この程度で夢の世界から帰還することがないのは重々承知だ。それでも、起こすという役割があるので声をかけずにはいられない。
「まったく……」
こんなふうに感嘆の息を漏らし、再び起きてと声をかけるが、目覚める気配は微塵も感じない。時折、スースーと小さな寝息が聞こえてくるし、少女はとても深い眠りについているようだ。
「お昼休みだよ、ご飯食べよう?」
「ご飯~ご飯~」と起きていない少女に語りかける。こんなことをしても無駄なことはわかっているが、もしかしたら「ご飯」という単語で目覚めるかもしれないと、淡い期待がいつもあった。余程お腹が空いているか、あるいは少女が食いしん坊なら可能性はあるかもしれない。――いや、ないか。変な属性をつける前に早く少女を起こしてしまおう。
「仕方ないなぁ……」
こうなったら最後の手段しかない。
――実力行使だ。暴力という最悪の手段で少女を眠りから覚まそう。
そうだな、まずは頬を指先でつつくのが良いか? それとも脇をくすぐるとか? まぁ、そんな事をして、少女に訴えられたら勝ち目がないし、そんなことをする度胸はないから、呼び掛けるだけに留めておくけど。
「お昼ご飯、先に食べても良いかな……?」
「駄目……許さない……」
「まぁ、だよね・……おはよう、八色さん」
「海星に……嵌められた……」
「はいはい、って、人聞きの悪いこと言わないでよ」
「気持ちよく……眠っていたのに……」
「そ、そうだね?」
「うん……チャイムが鳴る前には……起きていたけど……」
「おかしな? いつもは呼び掛けても起きないのに」
「いつも……起きてる……寝たふりをしてる……」
「なぜそんなことを……」
「海星が……目覚めのキスを……してくれるの・・・・・・待ってる……」
この子はいったい何を言っているのだろう。というか、今まで起きてたのね。少し呼び掛けただけじゃ起きないとか、僕の思い込みだったのね……この二ヶ月間、ずっと勘違いをしていたのね……
「まったくもう……」
「どうかしたの……?」
「なんでもないよ、僕の思い違いだったってだけ。それよりもご飯食べよう。お腹が空いたよ」
「わかった……その前に……」
少女の手が、何かを探るように空中を彷徨う。少女は目が見えない。誰かの助けがないと自分がいる場所も、自分の置かれている状況も、まったく把握できないのだ。少女が居るのは、きっと僕には想像できない。未知の世界。
「ここにいるよ」
だからこそ、たとえ少女に見えていなくても、僕はその未知の世界に語りかける。
――大丈夫。
彷徨っている少女の手をしっかりと掴む。マシュマロのように柔らかい感触と、握り返された力加減。そして、この手の温もりは、ずっと変わらない。
「そう……なら良かった……」
そう言って少女はクスリと笑う。そうだ、ひとつだけ変わったことがある。少女は独特な喋り方をするようになった。最初に自己紹介をした時のようなハキハキとしたしゃべり方ではなく、ゆっくりと何かを確かめるように、なにかを必ず伝えようとするように、一言一言、ゆっくりと喋る。最初は違和感を感じたが、今ではなんとも思わない。むしろ聞き取りやすくて心地が良いくらいだ。
繋がれた手が少女に引っ張られる。
「目覚めの……キス……」
「絶対にしないからね」
不満だといわんばかりに、むぅ、とほほを膨らませる少女。そんな少女を見て、とても可愛らしいと感じる――今の僕はどんな顔をしているのだろうか。
それは、少女にも僕にもわからない。
***
「はい、あーん」
「あー……ん」
僕は小さく開かれた少女の口に食事を運ぶ。傍から見たらきっと僕たちは痛いカップルに見えることだろう。しかしこれは仕方のないことなのだ。少女は一人で食事をすることが出来ない。誰もが簡単にこなすようなことが、本当に困難なのである。周囲の視線はもう慣れた。お昼休みの名物として、微笑ましく見ている人も居るらしいが……
「美味しい……もっと……」
「待ってね、はい、あーん」
「あー……ん」
最初は恥ずかしかったこの食べさせ方も、今は嫌ではない。小動物にえさを与えている感じがして、申し訳ないと思うが楽しさを感じる。後、何よりも可愛い。くちをあけて、租借している少女が本当に可愛い。
「今……失礼なこと……考えた……?」
「べ、別に何も!」
「そう…・・・」
この少女は妙に鋭い。僕がなにかを考え事をしていたり、ちょっとした喜びも、辛いと感じた出来事があった時も。どうかしたの? とか、なにかあったの? なんて優しく話しかけてくれる。勿論、声をかけられないこともあるが、圧倒的に声をかけられることのほうが多い。まぁ、僕は決まってなんでもないと答える。他人からしたら『嘘』になるのだけれど。
――だってこの子には関係のないことだから。
「そう……なにかあったら……言ってね……?」
「うん――大丈夫だよ」
また嘘をついた。
それを話す時はこない。だから、こうやって返すしかない。
僕は、この子の道具だから。この子が、安全に、安心して学校生活を送れるように務めるだけだから。
繋がれていた左手に、力を込められた気がしたが、きっと気のせいだ。
***
昼食をとり終え、残り二つの授業も済ませ、それぞれが帰宅したり、部活動に向かったりして、人が居なくなった教室で、僕たちは少女の迎えを待っていた。迎えが来るまでは、ずっと手を繋いでいて、他愛もない話をしたり、少女が見えない世界の話を事細かにして。面白い話でないかもと不安になったが、少女は相槌をしてくれたり、時折クスクスと笑ってくれた。――よっかた……
そんなことをしているうちに、時間はあっという間に過ぎていって少女の迎えが来たと連絡を受けて、僕たちは二人並んで、教室を出た。いつも通り、何も変わらない、二人だけの静かな時間。
手を離さないようにしっかり握って、部活動をしているはずなのに、とても静かな廊下を歩いて。下駄箱で靴に履き替えて。正面玄関を出て、校門に向かって。教室の時とは変わって、何も話さず、黙ってゆっくり歩いた。
いつもと変わらない光景。二人だけの穏やかな時間。
外は六月の後半だというのに、まったく夏を感じさせない冷たい風が吹いていて、肌寒い。
あまりの寒さに、少女の手を強く握ってしまった。
「ご、ごめんね……」
「……」
少女からは何の返答もない。怒らせてしまったのだろうか? そう考えるととても怖くなってしまった。こんな些細なことでも僕は少女に何の危害も加えたくない。
――例えそれが、手を握る力加減であっても。
「……」
少女は何も答えない。握られた手に力を込められた気がした。何故だろうか、少女も寒いと感じたのか、それともやり返してきたのか。僕はその真意を知ることはない。
それからは何事もなく、黙って歩き続け、少女を待っている車の前に辿り着く。
いかにも普通の車とは違う風貌、この車をリムジンと呼ぶのだろうか? 初見は勿論驚いた。なにかの間違いかとも思った。が今は見慣れたものである。
八色瞳という少女は、お金持ちの家のお嬢様だったのだ。そんなお嬢様を迎えているのは車だけではない。高級車の前で高そうなスーツを見にまとい、綺麗な直立で立っている初老の……本物の執事さんも待っている。
こればかりはいまだに慣れない。執事とかこの世界に、こんな身近に存在居るとは信じられないもん。あと、偏見だけれど圧が凄い。
「お帰りなさい、お嬢様」
「ただいま、黒木」
黒木とは、この執事の名前らしい。直接聞いた訳ではないけれど、少女がそう呼ぶのだから間違いない。軽く会釈をした後、車のドアを開き、僕が握っていない少女の反対の手を握る。
これで、今日の僕の役目が終わる。
僕の手が少女の手から離れるその刹那。
ギュっと、今までにない力加減で握られた。
「また明日ね……海星……」
僕は、また何かしてしまったのか……
何も……何もしていないはずなのに……少女の意図がまるでわからない。
気がつけば、車に乗った少女の姿が見えなくなっていた。そして、車は走り出す。僕はそれが、見えなくなるまで眺めていた。
呆然と立ち尽くす。何で強く握られたのだろう。本当にわからない。
強く握られた手を力強く握ってみる。勿論そこには何もない。自分の指が手のひらに触れるだけだ。
――だけど感じる。手のひらに、少女がくれた優しい温もりを。
***
「ただいま」
声がむなしく響き渡る。
誰も居ない家。本当は寂しいはずなのに。そう思うのが普通なのに――そう思わなければいけないはずなのに。なぜか安堵を覚える。
家には誰も居ない。それが本当に心地良い。ずっとこの時間が続けばいいと思った。だけどそうはいかない。
しばらくすると、この家に自分の居場所はなくなる。ここが『家族』の帰る場所なのだから。
だからそれまではゆっくり休もう。何も考えず、静かな時間を思う存分、満喫しよう。本当に居場所がなくなる前に。
『呼んでほしくて・知りたくて』
私の視界は霧で塞がれている。
とても明るい、神々しいまでの深い濃霧に。本当に眩しくて、とても深くてなにも映らない。
悲しい出来事も、美しいと思う景色も、物語を作る沢山の文字も。今は見えない。
それだけではない、笑ったり、泣いたりする人の表情も、それを見せてくれる人そのものも。晴れない霧は、私から見ることによって得られるすべての情報を奪った――私は一人ぼっちだ。
何も見えないこの世界は、本当に寂しいし、何よりも怖い。自分がどんな格好をしているのかもわからなければ、そこにどんな人が居るのかもわからないし、どんな状況におかれているかもわからない。頼れるのは、家族と、身の回りのお世話をしてくれる執事の黒木に、侍女たち、それと――
一人ぼっち世界で、生きていくには欠かせない力も身に付いた。私の耳は物音を的確に捉える。絶対音感などという大それたものではないけれども、秀でた聴力。
聞こえてくる。何かを知らせる鐘の音と苦痛から解放されたかのような晴れやかな笑い声、パタパタと動き回る足の音、ガタガタと何かを動かす音が
そして――
「八色さん、起きて」
誰かが私を起こす、優しい声。
そうだ、もう少し寝たふりをしようかな。
彼はきっと何度も私の名前を呼んでくれるだろうから。
――ちがう、これは私が名前を、いつまでも彼に呼んでほしいだけだ。
***
四限目が終わった。お昼の時間前だ。寝たふりをされているのはわかっている。それを知ったのは昨日だし、僕だって学習する。――頑なに寝たふりをしてくる理由は、わからないけれど。僕には呼び掛け続けるという方法しかない。それが僕の役割だし。
「おはようございまーす。お昼の時間だよー」
どうすればこの少女は起きてくれるのか。やっぱり目覚めのキスか? 絶対に無理だ。そんなことは絶対にしない。最悪の場合、この少女が寝たふりを永遠に続けるかもしれない。間違いなくないけれど。
「ほら、八色さん、お昼ご飯一緒に食べよう」
「……もっと……」
「あ、えっと……お弁当足りないかな?」
「……違う……」
「お、お昼ご飯一緒に食べよう?」
首を横に振られてしまった。完全に起きてるじゃないか。
「名前……」
「えっと……や、八色さん……?」
「もっと……」
「八色さん……」
「まだ……足りない……」
「八色さん?」
「最後に……もう一回……」
「八色さん」
「うん……目覚めた……」
「起きてたよね?」
「いま……目覚めた……」
「起きてたよ?」
「今……」
「そ、そうなんだね……」
「うん……ご飯……」
「あ、ごめん。今用意するね」
この少女は、時々読めない発言をしてくる。それにとても嬉しそうだし
――きっと僕はからかわれていたのだろう。
そんなことを思いつつも、少女の手をとった。
勘違いか、それとも寝起きだからか。互いに繋がれた手が、いつもより暖かい気がした。
***
いつも通りの、静かな放課後。だけれど、少女がとにかく上機嫌だ。お昼辺りからずっと口が緩んでいて、微かに鼻歌も歌っている。こんな少女を見るのは初めてだ。
「何か良いことでもあったの?」
「特には……」
「そ、そう……」
そんなことを言っている少女の口元は、相変わらず緩い。よくわからないけど、楽しいことがあったのならなによりだ。実際、楽しそうに鼻歌を歌っている少女を見ていると、とても可愛いと思える。違う、微笑ましい。
「今日はどんな話をしようか」
「あのね……海星のこと……」
「僕のこと?」
「うん……聞きたい……教えて……」
そういえば自分のことを話したことはない。聞かれても、話せることはないけれど。それに、自分のことを話して、少女に楽しんでもらえるとは微塵も思はない。――本当に困った。
「ごめんね、特に話せることがないよ」
「じゃあ……質問……して良い……?」
「良いけど、面白いことは答えられないよ?」
「大丈夫……」
何が大丈夫なのか、全くわからないけれど。少女は色々なことを質問してきた。僕の好きな食べ物とか、どんなことが好きかとか、休みの日は何をしているのかとか。一つの一つの質問に丁寧に、それがどんな物事かを、事細かに答えた。どれも平凡な回答のはずなのに、少女は嬉しそうに聞いてくれる。何故だろうか、何故少女はこんなにも――
本当に色々な質問をしてきてくれた。上手く答えられていたか、それはわからないけど。そんな質問攻めの時間もすぐに過ぎて。少女の迎えが来たみたいだ。
「それじゃあ、行こうか」
「最後に……一つだけ良い……?」
「うん、どうぞ」
「ずっと気になってた……海星……」
そこで、少女の言葉が止まる。先程まで、何の躊躇いもなく質問してきたのに。最後に、どんな質問をしようとしているのだろうか……? 意を決したかのように少女が口を開いた。――どこか申し訳なさそうに。
「お友達は……」
「えっ……」
「その……ずっと……私と居るから……」
「あぁーー大丈夫だよ、多くはないけどちゃんと居るしから」
一人ぼっちだと思われたみたいだ。まぁ、無理もないか。少女が来てからは、ずっと一緒にいたし。少女に友達のことを話したことはないし。
――なによりも、今の僕には優先してやる役目があるから。
「心配かけてごめんね。ちゃんと連絡も取ってるし、休日とか、たまに一緒に出かけたりしてるし」
「でも……学校で……お友達と話したり……一緒に帰ったり……」
「ううん、大丈夫。皆ちゃんとわかってくれてるから」
「……」
「本当だよ、そこで変に責任を感じることはないからね?」
「……」
「八色さんは何も悪くないよ」
「そう……」
少女の顔から、笑みが消えた。ずっとこんなことを気にしていたのだろうか。駄目だ、そんなことを気にしてはいけない。僕なんかのことを気にして、暗い気持ちになってはいけない。――絶対に、何があっても。
「本当に気にしないでね」
「違う……そうじゃない……」
「どうしたの?」
「私が知りたいのは……」
少女がそこで口を閉ざしてしまい。続きを聞くことは出来なかった。何だろう、妙に引っかかる。何て言おうとしていたのか。でも、先を聞いても仕方がないので追求はしない。
「それじゃあ、帰ろうか」
「うん……」
身支度をして、教室をでる。いつも通り僕たちは並んで、教室を後にする。なにも変わらないはずなのに。とても居心地が悪い。
「海星……」
いきなり少女に手を引っ張られ、呼び掛けられた。
「どうかしたの?」
「名前を……呼んで……」
「えっと……八色さん?」
「もう一回……」
「……八色さん」
「うん……ありがとう……」
「それから――ごめんね」
何かを言われた気がしたが。それは僕に届くことはなかった。
***
「めずらしいね、八色さんが起きてるなんて」
翌日、いつも寝ている少女が、放課後になるまでずっと起きていた。今日は一度も起こしていない。何か話すというわけでもなく、ただ黙って手を握っていた。お昼の時も何も話していないし、もしかしたら、今日これが初めての会話かもしれない。何か話さないと、と焦りと危機感を感じた。
「……」
少女からの返答は何もない。ただ黙って首を横に振るだけだ。まだ昨日のことを気にしているのだろうか? そうだとしたら、そんな風に思わせてしまった僕にも責任はある。でも、何とかしようとしても、少女の気を引く話題が、今は思いつかない。
「海星……」
話題をあれこれ考えていると少女の方から話しかけてきた。――今日、始めてこの子の声を聞いた。
「どうしたの?」
「今日も……海星のこと……聞いて良い……?」
「うん、大丈夫だよ」
「そう……ありがとう……」
やっぱり気にしていたみたいだ。僕のことなんて何も気にしなくていいのに。悪いのは、気にさせるような返答をしてしまった僕なのに。この少女は本当に何も悪くないのに。
自分を責めた。これじゃあ、道具として僕は失格だ……
「海星は……いつも……何を考えているの……」
「な、なにって……」
「私には……見えないけれど……海星ずっと……何かを考えてる……」
本当にこの子は鋭い。口に出していないのに、何でこうもわかられてしまうのだろうか。――この少女には何も見えていないはずなのに。
「すごく……悩んでる……」
「……」
「すごく……苦しそう……」
駄目だ、やめてくれ。
僕は君の道具でしかないのだから……
「本当の事……聞きたい……」
だから、何も気にしてはいけない。
「本当の……海星のこと……知りたい…・・・」
僕のことなど、知ろうとしてはいけない。
「それは、全部気のせいだよ」
だから、また一つ嘘を重ねた。――僕はどうしようもなく嘘つきだ。
「えっ……?」
「僕は何も考えていないし、何も苦しんでなんかいないよ」
「嘘……」
「本当だって。今もこうやって普通に会話が出来てるし。何より元気だよ。それに、今の僕は紛れもなく本物だよ」
「無理……してない……?」
「してないよ」
「……」
それ以上、少女は何も追及してこなかった。変わりに、よくあるような質問をしてくれた。前に聞いた質問とは被らないように。一つ一つ確かめながら。ゆっくりと静かに。
「海星……また明日も……色々聞いて良い……?」
「勿論、何でも聞いていいよ」
「うん……ありがとう……」
何で僕のことなんか気になるのだろう。他に、もっと面白いことや価値のあることなんか山ほどあるのに。何で僕のことなんだ。
「私ね……海星のこと……沢山知りたい……」
僕の考えを見透かすように、少女は微笑みながら言った。
***
次の日から毎日毎日飽きることなく僕に質問をぶつけてきた。どうしてこんなにも質問が思いつくのか尋ねてみると。
「毎日……沢山……寝る前に……考える……」
だ、そうな。まぁ、会話をする時間が増えて、少女の退屈がまぎれるのならば、それで良い。――そう思っていた。
話せば話すほど、自分がわからなくなっていった。本当にそれは好きなのか、本当にそんなことを思っているのか……
攻め立てられているような、追い詰められているような。苦しくて辛い時間はいつまでも続いた。
こんなはずではないのに。こんな思いを抱くはずではないのに。
***
誰も居ない自宅に帰宅すると、すぐさま自分の部屋に向かい、着替えもせずにベットに倒れこんだ。ここ数日で、沢山の嘘を付いた気がする。自分の気持ちを誤魔化すような嘘。自分を隠すような嘘。自分の思っていることとは反対の、求められていることとは反対のことばかり答えている気がする。
本当はそんなこと思っていないはずなのに。もはや、自分でもわからないことだらけだ。ただただ疲れる。
こんな事になったきっかけは何だっけ。――あの質問か。
ちゃんと友達はいる、はず。一緒にいて楽しいと感じる友達が。普通に話せる友達が。だけれど、本当に友達なのだろうか。どこか置いて行かれている気がして話題にも入れない。勝手な思い込みなのに、どうしても信じ切れなくて。
自分には来ない明るい未来。将来のことを夢や希望を楽しげに話している友達が羨ましくて、寂しくて、妬ましい。こんな感情を抱いている自分に、友達と呼ぶ資格はあるのか。
あぁ、こんな感情を抱いている醜い自分が、周囲を信じられない弱い自分が。
――本当に、どうしようもなく大嫌いだ。
***
『――人に迷惑をかけては駄目だ』
『――それくらい出来て当然だ』
『――そんなことして何になる』
『――もっとしっかりしなさい』
『――お前は優しくてきっと良い子なのだから』
そうあって欲しいという両親の願い。躾のように体に刷り込まれた拘束。いつまでも縛られている。
得られなかった無償の愛。喉から手が出るほどほしかったそれは。今はもう得ることが出来ない。
『――お前が家族を支えろ』
父の去り際に残された、誰にも解けない呪い。
「――!」
いつの間にか眠ってしまったみたいだ。それにしても、ひどい夢を見た。忘れたくても忘れられない記憶。厳しく躾られたころの記憶。褒められることが自分の生きる意味だと気が付いたあのときの記憶。出来ない自分を必死に隠し通してきたあのときの記憶。――いつまでも道化師を良い子の自分を演じた記憶。フラッシュバックのように蘇った自分を追い詰める最悪の夢。本当に最悪の目覚めだ。いつからこんなに生きにくいと感じるようになったのか。いつからこんなにも自分が満たされない虚無感に囚われるようになったのか。死んでしまいたいぐらいの、目に見えない不安をいつまでも抱えて生きるようになったのか。
――こんな事があるから、眠るのも起きるのも怖いんだ。こんな苦しいだけの人生を送ることならいっそ――死んだほうが楽だ。
ベットから起き上がるとシャツが汗で濡れていることがわかった。
居間で家族の笑い声が聞こえてくる。
『本音』
どうも朝から気分が優れない。風邪というわけではなく、ただただ頭が重い。出来ることなら帰って眠りたいのだが……そうはいかない。憂鬱な気分をぐっと堪え、少女の待つ場所に向かう。
「おはようございます」
少女を迎える場所に行くと、執事さんと少女が待っている。執事さんに挨拶をしてから少女の手を握った。
「行ってきます……黒木……」
「本日も、お嬢様をよろしくお願いいたします」
そう言って執事さんは律儀にお辞儀をした後、車に乗って颯爽と去っていった。
「八色さん、おはよう」
「おはよう……海星……体調……悪いの……?」
何で気づかれた。まだ何も言っていないし、何かを感じさせるようなことをしてもいない。
「大丈夫だよ? それよりも、行こうか」
これから学校が始まるというのに出だしから嘘をついた。気分が重くなるが、これも少女のためだ仕方がない。
「うん……」
少女が小さく頷いて、握られた手に力が込められる。今までにない、少し痛いくらいに。
***
今日は、最悪の日かもしれない。自分の気分が優れないというのもあるが、何よりも少女の機嫌が悪い。お昼ごはんの時もまともに返事をしてくれないし、食べようともしてくれない。放課後の今の時間ですら何もはなさない。それに、いつもは繋いでいるはずの手が、繋がれていない。僕は何かしてしまったのだろうか、何か少女の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。
怖くなった。このまま僕は捨てられてしまうのだろうか。そうなったら、存在価値がなくなってしまう。嫌だ。怖い。
自分勝手な思考が頭の中をぐるぐると駆け巡る。考えて、考えて。ひたすら考えて、――考え疲れて。疲れ果てた頭に浮かんできた言葉は。
「ごめん八色さん……」
情けなくて、便利じゃなくて、使い勝手が悪くて。いろんな意味が込められた謝罪だ。深く反省した。だから許してほしい、とかではない。本当に申し訳ない、その一身で。まぁ、少女は何も返してくれないだろうけれど。
「海星……」
その予想は、良い意味……悪い意味で裏切られる。
「あなたは……どこにいるの……」
「ぼ、僕はここに」
「あなたじゃない……本当の……海星……」
この少女は、何を言っているんだ。僕はここにいる。夜空海星。本物だ。
――わからない、言っている意味がわからない。僕には、少女自体がわからない。わからない、わからない事だらけだ……
それ以上、少女と喋ることなく今日が終わった。当たり前に繋げると思っていた手を繋げないまま。いつも通り二人で教室を出ることもなく、少女は連絡に来た教師と一緒に出て行ってしまった。
「ハハ――」
乾いた笑いが出た。誰も居ない教室に、虚しく響き渡る。拒絶された。いや、捨てられた、というほうが正しいかな。
「ハハハ――」
何が面白くて笑っているのか、自分でもわからない。頭を抱えた。頬を伝い机に雫が何滴も零れていく。あぁ、僕は泣いているのか。それを理解するのに、時間はかからなかった。自分のことなのに――自分で自分がわからない。
本当の夜空海星って誰なんだよ。誰でもいいから教えてくれよ。
こぼれる涙は止まらない。虚しく鳴り響く泣き声と、誰もいない空間に嫌気が差す。
――あぁ、ここでも一人ぼっちか。
***
涙が乾くのを待ってから、帰路に着いた。足取りは重く、まっすぐ歩けているかもわからない。体に力が入らないのだ。残っている気力で何とか歩いている感じだろうか。どうでもいいか……どの道をどう通ってきたか、全く覚えていない。気が付いたら自室のベットに倒れこんでいた。なんだか、どっと疲れた。
このまま寝てしまうのではないかと思った直後、コンコンとドアがノックされる。珍しく母親が帰宅していたみたいだ。
「何してるの?」
怪訝な顔で聞かれた――いつも通りに。
「なんでもないよ、なんだか体が重いだけ」
やってしまった。本音を言ってしまった。
「――」
あぁ、またここに帰りたくなくなってしまう。
母親が言ったその言葉を脳が理解するのを拒んでいた。それほどまでに聞いた言葉。拘束、呪い。
『変な事を言うな』
『そんなことじゃ困る』
『もっとちゃんとしろ』
『人に迷惑をかけるな』
限界は、きっと超えていたのだろう。
僕は最初から壊れていたのだろう。
この家に、この家族に産まれてしまったから。こんな自分に育てられたから。こんな自分を受け入れて、演じていたから。きっと、どこかで必ずこうなる定めだったのだろう。それが、今というわけだ。
もう疲れた。
その後、何をしたかは覚えていない。気が付くと部屋の壁に大きな穴が開いていて。
死ぬのだけはやめろと、母親が大きな声で泣き叫んでいた。
***
この部屋に閉じこもって、どれくらいが経っただろうか。学校にも行かず、食事もまともに取らず。一日中ベットに寝て、穴の開いた空いた壁をただひたすらに眺め日々が。もう日付の感覚はない。あるのは後悔と不安に身を打ちひしがれ、まともに眠ることも出来ない夜と、疲れ果てて眠り、起きることに絶望する朝。
それから始まる一日は、訳もなく涙が出たり、無性に死にたくなったり、すぐにでも死のうと考えた。それでいて無気力で。ため息を吐く気力さえ残っていない毎日。そんな日々がどれくらい続いたか。
今日も眠ろう。いつまでも。次に起きるのは朝か、それとも夜か。それとも永遠に眠るか。まぁ、どうでも良いか。
「おはよう……」
聞きなれた声がした。学校でよく聞いた、少女の声だ。夢にまで出てきてしまったか。ここでも、役割を果たさないと駄目かな。
もう疲れたんだ、夢の中ぐらいは休ませてほしい。
「おはよう……」
聞こえるはずのない声がまた聞こえる。やっぱり、答えなきゃいけないのか。嫌だ、何もしたくない。それに、その呼び掛けに答える気力もない。夢の中だから、僕の好きにさせてくれ。この時だけは、人でいさせてほしい。
「おはよう……」
聞こえるはずのない声が聞こえる。学校でよく聞いた少女の声、それに。
マシュマロのような柔らかい感触、ぎゅっと握り返された力加減。ずっと感じていた小さな手の優しい温もり。
「おはよう……海星……」
「八色さん……? 何でここに……」
「……」
少女は何も答えなかった。黙って手を握って。顔がこちらをじっと向いている。見えていないはずなのに。そういえば前に聞いたことがあったっけ。耳がいいから、物音がすると、位置がわかるとか何とか。まぁ、どうでもいいか。
静かな時間がずっと続いた。手の温度が、この静かな時間が、数日会っていないだけなのにとても懐かしく感じる。
今の僕には、苦痛だった。また道具としての役割を果たさなければいけない気がして。とても心苦しい。今の僕は役に立たないのに。それを演じる気力はもうないのに。
そんな時、握っていた手に力が込められる。度々あったこの行動にどんな意味があるのだろう。その意味を僕は知ることは出来ないけれど。
「何しに来たの……」
これ以上、何もしないでここに居られるのは、精神的に来るものがある。用がないのなら、すぐにでも帰ってほしい。
「聞きに来た……海星のこと……」
「何のこと……」
「本当の海星を……教えて……」
またこれか、僕を追い詰めて楽しんでいるんだろうか。本当に性質の悪い質問。
「こうやって横たわって無気力状態になって、何の役にも立たないのが僕だよ」
嫌味っぽく言った。もう疲れているし、道具として振舞うのさえ苦痛だ。
「そう……」
「それだけ? なら帰ってよ」
「まだ……どうしてこうなってるの……?」
「どうして? もう疲れたんだよ! 何かを考えることも、何かをすることも!」
腹が立った。何でそんなことを聞く。どうでもいい、何の役にも立たない、僕をからかうような質問を。
「どうして……疲れてるの……」
――あぁ、我慢の限界だ。
「今まで散々頑張ってきた! 家族のことも学校のことも! 馬鹿みたいに正直に、便利な道具として! 君には絶対にわからない! 幸せな家族に恵まれて、近くにいてくれる人がいて!」
言ってはいけない、わかっていた。だけど自分の中に隠し、抑えていたものが溢れ出し、止まらなかった。
「君みたいにちゃんとした人間が! 幸せな(ふつうの)家族に産まれた君が! なんにも恵まれなかった僕の気持ちなんかわかるかよ!」
今までにないほど発狂した。こんな姿を見せるなんて、自分でも驚きだ。僕は、目が見えなくても、それを全く気にすることなく、正しく、強く、堂々と生きるこの少女に憧れと嫉妬の両方を抱いていた。人として、最も機能しなくてはいけない部分が機能していなくても、僕より遥かに人として生きていたから。だから、こんな質問をされて、答えが見つからなくて。僕の中にはこんな醜いものしか存在していなくて。
限界だったから、壊れていたから。こんな最低の形で持っていた不満をぶつけた。完全に八つ当たりだ。そもそも疲れている理由になるのかも怪しい。それでもひたすらにぶつけた。後悔はないといったら嘘になる。
でも、少しだけ、気持ちが軽くなるような気がした。
さぁ、言いたいことは感情任せに言った。まだまだ抱えている思いはあるけれど、それはこの少女には関係のないことだし。それにしても、何の反応もないのか。ここまで言って何の反応もないのは少し寂しいな。
刹那。
少女が、僕の元に倒れこんできた。まるでその目に見えてるかのように綺麗に抱きついて、迷うことなく、右手が僕の頭に触れる。それに顔がとても近い。何が起こったか、わからなかった。理解が追いつかない。
抱きしめられた左手に、強く力が込められる。
「やっと、やっと逢えたね。夜空海星」
あれ、なんでこんな……最初にあった時のときの自己紹介のときのような話し方をするのだろう。
「今まで、聞いてあげられなくてごめんね」
何でこの少女は謝ってきたのだろう。
「今まで、ずっと、一人で頑張ってきたんだね」
それは、何よりも僕が欲した言葉。
「本当に、頑張ってきたんだね」
僕が僕であるために欲した言葉。
「もう、大丈夫だよ」
労をねぎらうのではなく。今までの自分を認めるように、褒めるように、慰めるように、頭に触れた少女の右手に撫でられる。
あぁ、そうか。今まで人として接してこなかったから、本当の僕を知りたいって言っていたのか……少しでも、僕に近づこうとしてくれていたのか。醜い僕も彼女は認めてくれたのか……
自分でもわからないが、涙が吹き出た。自分の頬をつたって布団に染み込んでいるのがわかるぐらいに。泣いた。彼女の腕の中で、涙がかれるまで泣いた。今まで与えられなかった無償の愛を味わった気がした。価値のない僕を受け入れてくれたのかと思うと嬉しくて涙が出た。泣いて泣いて泣き続けた。そんな僕を彼女は飽きることなく、愛するように抱きしめ、いつまでも慰め続けられた。
その後は、彼女に自分の全部話した。家族のこと、友達のこと。抱えている不安や、今までの考え方。そうなった過去のこと。嘘偽りなく。全てを洗い流すように。彼女は、嫌な顔をせず黙って、どこか嬉しそうに聞いていた。
『人だから』
「はい、あーん」
「あー……ん」
久しぶりに、彼女に食事を与えた。またやってる、と、微笑ましく見ている人が居るみたいだし。
「もっと……」
「はいはい、あーん」
「あー……ん」
やっぱり、小動物にえさを与えている感じがして、楽しさを感じる。後、何よりも可愛い。口をあけて食事を待っている彼女が、租借している彼女が本当に可愛い。
「失礼……」
「ご、ごめんなさい」
ばれてしまったか、本当に鋭い。
「ねぇ、八色さん」
「なに……」
あの出来事から少しして、彼女の喋り方が戻ってしまった。違和感はないし、むしろ落ち着く。だけど少し残念だ。
「ごめん、呼んだだけだよ」
「わかってる……」
彼女はエスパーか何かだろうか?
***
放課後の時間、誰も居なくなった教室で僕たちは、彼女の迎えを待っていた。珍しいことに放課後になっても彼女は起きない。きっと待ってるのだろう。
「目覚めのキスはしないよ。名前なら沢山呼んであげるけど?」
「キス……」
「しないよ……」
「キ……」
「絶対にしない」
「ケチ……」
「ひどい言われようだね……」
観念して起きた八色さんに、適当な話題を振って話し込む。彼女の事を聞いたり、逆に彼女が僕のことを聞いてきたり。今までにしてきた質問もあった。それに、何も隠すことなく答えたり。人として、相手のことを知ろうとして。
こうやって、気兼ねなく話せるようになって、嬉しかった。もう、深いことは何も考えなくていいんだ。普通の人として。
――平行線にあり、決して交わることのないお互いを、その気持ちを少しでも理解できるように。話して、聞いて、理解して、近づいて。
そんなこんなで話しこんでいると、彼女の迎えが来たと連絡を受ける。名残惜しいけれど……僕たちは二人並んで、教室を出た。いつも通り、何も変わらない、二人だけの静かな時間。
特別な関係ではないけれど。僕は、この静かな時間がとても好きだ。
手を離さないように、しっかりと握って歩いた。
強く握ったら折れてしまいそうな小さい手、マシュマロのような柔らかい感触、ぎゅっと握り返された力加減。そして何よりも触れたその手の優しい温もり。
本当に何も変わらない。でも、この手をずっと離したくないと、今は感じる。
不意に、彼女に手を引っ張られた。
互いに繋がれた手に彼女が優しく力を込めた。
「大好きだよ、海星」
本当にこの子はわからない。というか、そんなことを言うのは、不意打ちにも程があるだろうに。何を考えているんだ……
繋がれた手に、熱がこもった。何よりも顔が熱い。今の僕はどんな顔をしているのだろうか。
僕には全くわからないが、彼女がとても綺麗な笑顔で、誰よりも幸せそうだから、それで良いか。
――きっと僕は道具から人へと変わっていくはずだ。でも、だからと言って明るい未来が必ず待っている訳では無い。不安にかられるし、一日一日を苦痛に感じそんな日々を送るかもしれない。
今を生きることは簡単でも、今後を生きていく事は難しい。
だからこそ、生きていくという決断をした僕は、誰よりも偉いんだ。