知らないふりをさせて下さい
私はゆっくりと瞼を開けた。昨夜の事は夢だったのではないかと思う程静かな朝。あれは本当に現実だったのだろうか? 私の願望で長い夢を見ていたのではないだろうか? 殿下に確認しに行った方がいい? でも公務の邪魔はしてはいけないし、どうしよう。本当にこのままレヴィにいて大丈夫なのだろうか?
横向きに寝ていた身体をゆっくり起こすと、視界の端にいつもいるはずのない存在が映り、心臓が跳ねるのではないかと思うくらい驚いた。な、何故殿下がまだ寝ているの?
「殿下、朝です。起きなくて宜しいのですか?」
私は控えめに背を向けている殿下の身体を揺すった。人を起こした事がないから力加減がわからない。
「ナタリー、間違っているよ」
殿下の声が普通だったので多分起きていたのだろう。殿下は寝返りを打って微笑んだ。やはり力加減を間違えた?
「申し訳ありません。揺する力が強かったでしょうか?」
「それは別に強くない。私の呼びかけが違う」
殿下、ではなかった。エド様。つまり昨夜の事は夢ではなく、私はこのままここにいていいのだ。そう確信したら思わず笑みが零れた。
「申し訳ありません。以後気を付けます」
「謝っている態度ではないな」
そう言って殿下は私の腕を引っ張ると口付けをした。私は何が起こっているのかわからず、目をぱちくりさせていると殿下が微笑む。
「次に呼び方を間違えたら、ナタリーが口付けをする事。いいね?」
「ま、待って下さい。時間を下さいとお願いしたではありませんか」
殿下は何を仰っているのか。名前を呼ぶのが恥ずかしいのに口付けとか余計に無理。
「それは呼び捨てにする為の時間だろう?」
「いえ、違います。殿下を呼び捨てになど出来るはずがないではありませんか」
私が慌てている事など気にも留めず殿下は含みのある笑みを零した。
「もう間違えた」
昨日の今日で急に愛称呼びは難易度が高すぎるのですよ。私が悔しそうに殿下を見つめると、殿下は期待したような笑顔で見つめ返してきた。そのような顔をされても出来ない事はある。
「ですから時間を下さい。私は柔軟な対応は出来ません」
「私を愛してくれていると言うのは嘘だったの?」
「嘘ではありません」
「それなら出来るよね?」
そういうものなのですか? そもそも結婚して五年半ですけれど口付けしたのは二年前のあの日と昨夜と先程だけですよね? していない日の方が断然多いですよね?
「何もかも時間を下さい。恥ずかしくてどうにかなりそうです」
殿下の妻でいられないと思っていたのに、急に話が変わって殿下と相思相愛という現実も未だ馴染まない内にぐいぐい言われても困る。殿下は慣れているかもしれないけれど、私はすぐに慣れたり出来ない。
私が困って視線を外すと殿下は起き上がって私を優しく抱きしめてくれた。
「すまない。気が急いてしまった」
わかってくれた? 私の歩調に合わせてくれる?
「唇が難しいなら頬からにしよう」
「そういう問題ではありません」
私は慌てて口を押さえたが遅かった。心の声が漏れてしまった。どうして私はこうも対応が下手なのだろう。
しかし殿下は抱きしめる腕の力を緩めると、私の顔を真剣な表情で覗き込んだ。
「我慢をせずにそうやって言いたい事を言えばいい。ナタリーが遠慮すると私もどうしていいかわからない。私は頼りない?」
「決してそのような事はありません。ただ私は殿下の為に何かをしたいのに足を引っ張るような事しか出来ませんし、せめて不快にならないように……」
私が一生懸命考えて話している途中で、それを無視するかのように殿下が口付ける。もう何なのですか!
「ナタリーはただ私を受け入れて愛してくれたらそれでいい。他は無理をしなくていい」
「しかしそれでは……」
「ただ愛するというのはかなり難しいと思う。今まで私が隠していたものを全部受け止めて欲しい」
隠していた? 一体何を隠していたのだろう? 私が首を傾げると殿下は再び口付ける。
「私は結構面倒だと思う。かなり執着するだろうし」
「執着ですか? しかし殿下はいつも不特定多数の女性と仲良くされていたのではありませんか?」
「興味のない者に執着はしない。今私が執着しているのはナタリーとアリスだけ。ナタリーなら何度でも抱ける気がする。今から始める?」
「始めません!」
顔が熱い。殿下の冗談か本気かわからないこの言動に、これから私は振り回されるの? もしかして私はとんでもない人を愛してしまったの?
私の困惑の表情を理解していないのか、殿下は私をベッドへと押し倒した。
「始めないと言いました!」
「名前を呼んでくれたらやめてあげる」
何その交換条件。どっちも困る。私が悩んでいる間にも殿下は寝衣の釦を気にせず外していく。迷っていられない、この人本気だ。
「エド様。からかうのは程々にして下さい」
「からかっているわけではなく本気なのだけど、今朝はここまでにしておこうか」
殿下、ではなくエド様。心の中でも呼び方変えないと対応出来そうもない。エド様は笑顔でわざわざ釦を留め直してくれた。本気の方が質悪いと思うのですけれど。と言う言葉は懸命に飲み込んだ。
「さて、君の侍女二人の件だけど。ナタリーはどうして欲しい?」
急に話が変わった。しかも真面目な顔をしている。殿下の切り替えの早さは見習いたい。
「シルヴィとデネブがエド様のお気に入りという事でしたら、私が口を挟む事はありません」
本当は二人ともここにいて欲しくないけれど、エド様が側室にしたいというのなら私は従うしかない。そう思っているとエド様が頬を軽く抓った。私が痛いという抗議の視線を向けると、エド様はつまらなさそうに離した。
「何故私があの二人を気に入らなければならない? ナタリーの目は節穴?」
「ですがエド様の寵愛を受けているとあの二人が言っていました」
「言っておくけど、あの二人と身体の関係はない」
どういう事? 寵愛を受けるというのは身体の関係があるという事ではないの?
「帝国を動かすのに少し役に立って貰う必要があったから菓子を振る舞ったり服を誂えたりはしたけど、流石の私でも抱けない者はいる」
「つまりあの二人以外は結構な女性を抱いたという事ですよね?」
エド様が私に驚いたような視線を向けたので、自分の心の声が漏れたという事に気付いた。あぁ何で私はこうなの。レヴィは一夫多妻制の国だから、そこは知らないふりをしなければいけないのに。
「気にしないで下さい。私はエド様が側室を何人抱えても大丈夫です。いつかこの人だという方が現れた時はすぐ正妻の座も御譲りしますから」
エド様が再び頬を抓った。確かに痛みには慣れているけど何故何回も抓られなければいけないの? だけどエド様の表情は悲しそうだ。
「やはりナタリーの中で私はそれくらいの価値なのか。面白くない。二度とそのような事を言う気にならないようにするから覚悟して」
何だろう? 私はエド様の触れてはいけない部分に触れてしまったのだろうか?
「私はあの二人を追い出したい。ナタリーが望むなら命を奪っても構わない」
話が戻った。でも命を奪うなんてそこまでしなくてもいい。
「シェッドへ帰して頂ければそれで構いません。あの二人の命は奪う価値もありませんから」
「そう? 随分と虐げられてきたのではないの?」
「ですがエド様の手を汚す価値はありません。顔を見なくて済むならそれで結構です」
「わかった。ではあの二人はシェッドへ強制送還しよう。今日二人に話をする為に午後ナタリーの部屋へ行く」
私は頷いた。私の前で話してくれるのは嬉しいと素直に思えた。
その日の午後、いつもなら女性に声を掛けるかアリスに会いに来るかの時間、予告通りにエド様は私の部屋に訪ねてきた。私は特に告げていなかったので、シルヴィとデネブは嬉しそうにエド様を迎えた。私は一歩下がろうと思ったのだけれど、隣に座るように言われてしまったので仕方なく従った。シルヴィとデネブの視線が痛い。
「今までご苦労様。帝国までの旅程はこちらで手配をするから、明日までに荷物をまとめておいて」
エド様は笑顔だけれど纏っている雰囲気がいつもと違う。こんなに人を寄せ付けない雰囲気を醸し出せる人だったのか。まだまだ知らない事が多そうだ。そして目の前のシルヴィとデネブは、その雰囲気を何故か感じ取っていないようだ。
「どういう事でしょうか?」
「シェッドと戦争をしてレヴィが勝った。君達二人にもう用はない。ナタリーの願いで命は奪わないから速やかに準備するように。もし間に合わなかった場合は、レスター領との国境に変更になるから」
レスター領の国境は馬車が通れないから山道になる。この二人が山道を歩けるはずがない。
「何故急にそのような事を仰るのですか。私達の事を愛して下さっていましたよね?」
「まさか。そのような事は一度も言った覚えがない」
「ナタリーはどうするのです?」
デネブの問いにエド様は私の腰に腕を回すと、自分の方に引き寄せた。
「ナタリーは私が唯一愛している女性だからここに残って貰う。君達は要らない」
シルヴィとデネブの瞳に嫉妬が宿ったのが見えた。私はその視線が怖かったけれど、選ばれたのは私なのだと強い気持ちで二人を見た。エド様はそんな私の髪を撫でて頭に口付ける。何故煽るような事をするの?
「な、何て失礼な男なの! 私達よりナタリーを選ぶなんて頭がおかしいのではなくて?」
「そう思うなら早く立ち去って欲しい」
「そんな女を選んで後悔しても知りませんよ?」
シルヴィとデネブが慌てているのを初めて見た気がする。やっと自分達の立場が分かったのだろうか?
「後悔はしない。とにかく明日の朝十時に間に合わなかったら帝都にも帰れないだろう。早く身支度をした方がいいと思うよ」
エド様の身に纏った雰囲気が冷えたように感じた。この人、実はとても怖い人なの? 敵に回してはいけない人? むしろ愛してはいけないような危険人物? 私は怖くてエド様の顔を見る事が出来ず、シルヴィとデネブを見ていた。
「わ、わかりました。行くわよ、デネブ」
シルヴィとデネブはやっとエド様の普段と違う雰囲気に気付いたのか、慌てて部屋を出ていった。恐る恐るエド様の顔を見ると、そこには笑顔があった。先程の冷えた空気は既にない。
「本当にこれだけで良かったの?」
「十分です」
シルヴィの怯えたような声は初めて聞いた。怖くて顔は見られなかったけど、きっとエド様は恐ろしい顔をしていたに違いない。
「帝国からは戻って来られないと思うからそこは安心していいよ。ジョージがライラさんの誘拐再発防止の為に、国境警備を徹底しているから」
「兄がまた誘拐をすると思われているのですか?」
もしかしたらエド様は兄の誘拐を諦めさせる為に、わざと協力したふりをしたのだろうか? しかし兄は自分の過ちを認められない人だから、多分何度も同じ事を平気で出来る。その度に失敗を臣下のせいにして信用を失う。そのような人だ。
「そうみたいだ。正直、他にやる事があると思うのだけど君の兄上は大丈夫なの?」
「私は兄と親しくないのでよくわかりません」
「それでいい。シェッドがどうなろうと、ナタリーはあくまでもレヴィの人間として対応してくれたらいい。直に周囲の目も変わるだろう」
エド様はもしかして私がレヴィに馴染めていない事を知っていた? そして馴染めるように何かしてくれるのだろうか?
「このまま暫くここで休憩にしようか」
「もうすぐアリスの昼寝が終わる時間なので、私はこれから散歩に行きます」
息を潜めているけれどイネスが控えていますから! エド様は少し残念そうにしたもののすぐに笑顔になった。
「それなら三人で散歩にしよう。散歩しながらアリスの事を話し合おうか」
私は頷いた。アリスの事を一緒に話せるなんて嬉しい。
「つかまり立ちなどアリスの初めてを何も見られなかった事がとても残念で。アリスが話し始めるのは絶対に聞きたいと思っているのだけど、その予兆はある?」
「いえ。まだ話す様子はありません。ですが私が話している事はわかっているような気がします」
つかまり立ちも歩き始めたのもアリスの部屋で、それはエド様の公務の時間だった。正直話し始めるのも公務の時間になりそうだから難しいとは思うけれど、出来たら叶えてあげたい。
「そうか。それなら今日からたくさん話しかけよう」
殿下の笑顔がアリスに向ける時の父親の優しい笑顔になっている。私は嬉しくて思わず笑みが零れた。エド様が立ち上がって手を差し出してくれたので、そこに手を添えて私も立ち上がる。部屋を出てアリスの部屋に向かう途中、殿下が私の耳元で囁いた。
「これから昼間は親子三人仲良く、夜は夫婦二人で仲良くしよう」
エド様は私の耳朶を食むように触れると何事もなかったように前を向いた。不意打ちはやめて下さい。
「昼間は出来るだけ遠慮して頂けないでしょうか?」
「夜は遠慮しなくていいという事なら了承しよう」
私が訝しげな表情でエド様を見つめると、そこには笑顔しかなかった。もう知らないふりはしなくてもいいのだけど、暫くは見逃してもらおう。エド様がどのような人でも多分嫌いにはならないと思うけれど、一度に全てを知るのは怖い。ゆっくりとエド様と向き合い、いつか全てを受け入れられるように頑張るから、とりあえず今見えない部分は知らないふりをさせて下さい。




