王太子妃の覚悟 王太子の説得
スティーヴンが実父を国家反逆罪で訴えた。王宮内は一時騒然となったが、元々殿下が水面下で色々と準備をしていたらしく、混乱はしているものの大騒動というわけでもない。政治に興味のない私でも、レヴィがシェッドと縁を切ろうとした事くらいはわかる。殿下から何も伝えられていない事が不安になると思ったけれど、思ったより落ち着いている。サマンサが背中を押してくれたからかもしれない。本当の気持ちを言えば殿下の側にいられないと思ってずっと黙ってきたけれど、もう何も言わなくてもこの政略結婚は破綻したのだから側にはいられない。殿下が私を正妻にしておく理由がない。
私はアリスと二人きりで庭を散歩していた。シェッド帝国派の貴族達がレヴィ王宮を続々と追い出されている。私もいつまでもここにいられないだろう。シルヴィやデネブと一緒に追い出されるかもしれない。だけどあの二人と帝国に返されたくないから、どうにかしてレヴィ国内に残る方法を考えなければ。
しかし考えた所で私の頭ではいい案が浮かばない。サマンサに相談をすればきっと王宮にいていいと言ってくれるだろうけど、それでは駄目なのだ。シェッド皇女として嫁いできた以上、殿下の側にいるのは相応しくない。いくら戦争にレヴィが勝ったとはいえ、父と兄は生きている。またいつ仕掛けてくるかもわからない。そのきっかけになりえる私は、殿下から離れなければいけない。
私一人なら平民として暮らしていけると思う。だけどアリスもいるとなると別だ。大聖堂にいる人達は皆栗色の髪だから、それがレヴィの普通なのだろう。黒髪の母親と金髪の娘という組み合わせは目立ちすぎる。それにアリスは殿下に愛されている。私が連れて行くよりも殿下に任せた方が幸せに暮らせるはずだ。わざわざ無理に連れ出して苦労をさせるのはアリスの為にならない。
「アリス、私がいなくなってもいい子にするのよ」
まだアリスは言葉を話さない。だけど私の言う事がわかるのか、私の雰囲気が違うのがわかるのか、何だか不安そうな顔をしている。
「大丈夫。アリスの事は殿下に頼むから幸せになれるわ」
私が無理して笑おうとしているのを察しているのか、アリスは私の方に手を差し出した。まるで慰めてくれるかのようなその態度が愛おしくて、私はアリスを抱きしめた。
「生まれてきてくれてありがとう。私はアリスに出会えて本当に幸せ者だわ」
その夜、私は殿下に話す時間が欲しい旨の手紙をしたためて寝室へと向かった。返事がないとわかっていても、二年前のあの日以降ノックをする事は癖になっていた。
「どうぞ」
するはずのない声に私は驚いて取っ手を掴み損ねた。何故殿下がいるの? いや、ここは殿下の寝室なのだからいてもおかしくないのだけれど。私は頭の中が整理出来ないまま、取っ手を掴んで扉をゆっくりと開けた。室内には殿下がこちらに背を向けてベッドに腰掛けていた。私は静かに扉を閉める。
「今夜は早いのですね」
「あぁ。やっと一段落してね」
そう言いながらも殿下は振り返らない。そちら側は私が寝る場所なので困るのですけれども。とりあえず不要になった手紙をベッドの下へと滑り込ませた。
「ナタリー、少しだけ話をしてもいい?」
「はい」
何だろう? ここを出ていけと言われるのだろうか? やはり私がレヴィに残る道はないのだろうか?
「ナタリー。今までとても苦労をしただろう? 君は自由を手に入れた。君が望む道を出来る範囲で用意すると約束する」
「自由、ですか?」
私が意味を必死に考えていると殿下はこちらを振り返り、隣に座るようにとでも言うかのようにベッドを叩いた。私は意味がわからないまま殿下の横に腰掛ける。
「帝国派は一掃された。私達の政略結婚ももう意味を持たない。何も遠慮しなくていい。私の事など気にせず、ナタリーの望みを言って欲しい」
殿下の表情が少し強張った。何だろう? 私が無謀な事でも要求するとでも思っているのだろうか? 確かに殿下の側に置いて下さいなんて殿下にはご迷惑なだけだろうけど、それを言ってはいけない事くらいは弁えている。
「アリスにはレヴィの姫として生きて欲しいと思っています。それは叶いますか?」
「アリスは私の可愛い娘だ。誰が何と言おうと守ると約束しよう」
よかった。アリスの将来を約束してくれるのならそれでいい。殿下も実の母に育てられなくても立派に王太子として振る舞えている。アリスも後継の正妻か側室に育てて貰えるだろう。
「ありがとうございます。アリスを宜しくお願いします」
「つまり、ナタリーはアリスをここに置いて去るというのか?」
「私達の政略結婚は終わりました。将来の王妃として相応しい方を御探し下さい」
「出来ればはっきりと言って欲しい。私の顔を見たくないと」
私は眉を顰めた。殿下は何を言っているのだろう?
「そのような事はありません。私はシェッドの血を引く者としてけじめをつけるだけです」
「君は自由になったと言っただろう? 帝国の指図を受けていない事はわかっている。けじめなど要らない。ナタリーがここに留まったとしても誰も文句を言わない」
それはわかる。サマンサも受け入れてくれた。だけど私に流れる血は変わらない。私は殿下を見つめた。
「けじめは必要です。レスター卿を失脚させた一連の流れで、私と離縁をして下さい」
「離縁してどうする? 君はシェッドに帰りたくないだろう? アリスを産んだ以上修道女にもなれないだろう?」
修道女になれない事はわかっている。だからこの王宮の外で私に何が出来るか必死に考えた。裁縫なら出来るし、刺繍も編み物も教えて貰った。どこか住み込みで働ける所を王都で探せばいい。父から送りつけられた宝飾品を売れば、当面の生活費くらいにはなるだろう。
「この五年半とてもいい暮らしをさせて頂き、本当に感謝しています。ですがその前までの私の生活は王都の民より酷いものでした。仕事が出来るかはわかりませんが、平民になる事に抵抗はありません」
「私はナタリーを平民にする為に帝国派を追い出した訳ではない。どうしても君が私の顔を見たくないというのであれば、王都以外の町に屋敷を建てて、一生困らないように生活の面倒を見させてくれないか?」
「そのような配慮は結構です。アリスの母という情けは要りません」
私の言葉に殿下は寂しそうな表情を浮かべてため息を吐いた。
「そこまで君に嫌われているとは思っていなかった。私の血を継いでいるアリスも要らないから置いていくのだろう?」
「違います。アリスは殿下にとても懐いていますし、アリスの幸せを考えて出した結論です。この結論に至るまでとても悩みました」
本当はアリスを連れて行きたい。私と殿下を繋ぐ唯一の希望。だけど黒髪の母と金髪の娘ではレヴィで静かに暮らせない。私は染めても構わないけれど、アリスの綺麗な金髪は染めたくない。それにアリスには王女として幸せになって欲しい。
「それでは何故アリスを置いてここを去る? ここにいてくれてもいいだろう?」
「今までは政略結婚の為でも殿下が私を必要としてくれると思ってきましたが、もうその政略もなくなりました。私には何の価値もありません」
「ナタリーは私が何故帝国と戦争をしたかったか、わからない?」
急に難しい話を振ってきた。でもわからないではいけない気がする。
「帝国と縁を切りたかったのですよね? 私が正室ではレヴィ王家が安泰になりませんから」
「半分はそうだけど、半分は違う。ナタリーには皇女ではなく、レヴィ王太子妃として私の息子を産んで欲しいと思っての行動だ」
殿下が何を言いたいのか理解が出来ない。何故父の計画を知っているのに、私に出産を願うのだろう。
「殿下の跡取りはシェッドの血が流れない方にお任せした方が宜しいと思います」
「つまり私に抱かれたくないという事?」
殿下の表情が困惑に歪んでいる。全然わからない。レスター一派が排除されたとしても、シェッド帝国はまだ存続しているのだから私はここにいない方がいい。
「私はあの日、君に最低な事をしたのに、ここまで謝らず申し訳なかった。許して貰えるとも思っていない」
殿下は頭を下げた。殿下は先程から何を言っているのかよくわからない。
「頭を上げて下さい。あの日余計な事をしたのは私です。殿下は何も悪くありません」
「そのような事はない。ナタリー、嫌な事は嫌だと言うべきだ。どうしてもここを出ていくと言うのなら散々私を罵ってからにしたらいい」
「罵る事などありません。そのような最後は嫌です。出来る事ならアリスに見せるあの優しい笑顔を、私に向けて頂ければ嬉しいです」
あの笑顔が胸にあればこれから生きていける気がする。だけど殿下の表情は硬いままで、笑顔に変わる気配はない。
「どうしても私とは夫婦でいられない?」
「殿下は好きな人と結婚して幸せになるべきです」
「だがその人は私の元を去りたいと言う」
私は自分の耳を疑った。まるで殿下の思い人が私のように聞こえた。そんな都合のいい話があっていいはずがない。
「ナタリー、もう少し時間をくれないか? 急に君がいなくなったらアリスが寂しがるだろうし、私も辛い。笑顔で送り出せるかわからないけれど、滅多に言わない君の希望だ。出来るだけ善処しよう」
「殿下は私がここに残るより去る方が辛いのですか?」
「当たり前だろう? 今懸命に説得していたではないか。だがナタリーに無理強いはさせないから安心していい。君は自由なのだから私に縛られる必要はない」
私はここに残るように説得されていたの? 私が殿下の側にいてもいいの?
「殿下は何をお望みなのでしょう? 私に出来る事でしたら何でも……」
「それはもういい。君はこの五年、立派に王太子妃を務めてくれた。私を責める事なくアリスを産んで育ててくれた。十分感謝している。だから私の事は気にせずナタリーの希望を素直に言えばいい」
「では私が王宮に残りたいと言えば、取り計らって頂けるのでしょうか?」
私の質問に殿下は訝しげな表情をした。でも側にいてもいいのなら残りたい。殿下の迷惑にならないのなら出来るだけ近くにいたい。
「王宮を出たいのではないのか?」
「本当はここに残りたいのです。殿下とアリスの成長について語らいたいのです」
「でも君はいつもアリスに会いに行くと一歩下がったではないか。私に会いたくなかったのだろう?」
「いいえ。殿下の休憩に私は邪魔だと思ったので下がっていたのです。ですが殿下の近くに置いてもらえたら嬉しいです。使用人でも何でもいいので、王宮内に置いて頂けるのならその方が嬉しいです」
「それなら私の妻のままでいいではないか」
殿下の表情が辛そうだ。だけど私が正妻のままではいけない。
「ですが私にシェッドの血が流れている以上、殿下に御迷惑をおかけします。私はシェッドの事はどうでもいいのですが、レヴィの将来は安泰であって欲しいと願っています。殿下の跡取りについて揉めないような方を選ぶべきです」
「説明が悪かったか。私に息子が生まれてももうシェッドは口出し出来ない。ナタリーが何人産もうとそれは全てレヴィの子。その問題は気にしなくていい」
「しかし父も兄もまだ生きています」
「大丈夫。余計な事は考えなくていい。ナタリーが私の事を受け入れてくれるという、その気持ちだけあれば後は全て私に任せて。君と子供達は必ず守ってみせる」
殿下は柔らかく微笑んだ。私は涙が零れそうなのを必死で堪える。
「私で宜しいのですか? 私は何の役にも立ちませんよ?」
「ナタリーが側にいてくれたらそれでいい。そしていつか私を愛してくれたらなお嬉しいけれど」
「私は殿下の事をずっとお慕いしています。あの日、確かに私の想定とは違いましたけれど、抱いて貰えて嬉しかったのです」
私の言葉が意外だったのか、殿下が少し驚いた顔をした。
「それならそうと言ってくれたらよかったのに」
「あの後殿下は何事もなかったように振る舞われていたので、私が至らなかったのかと思い胸にしまったのです」
「あれはナタリーが忘れたいだろうと思って、必死で取り繕っていただけだ」
私は殿下と顔を見合わせた。そして同時に笑顔を零した。私達はしなくてもいい遠慮を長らくしていたのかもしれない。殿下は真剣だけれど優しい表情を向けた。
「今まで以上に君を愛すると誓う。だからこれからも私の妻として側にいて欲しい」
「はい。これからも宜しくお願い致します」
殿下は私を優しく抱きしめてくれた。結婚して五年半も経つのにこのような事は初めてで、心臓が高鳴っておかしくなりそう。それでも何とか殿下の背中に腕を回して抱きしめた。こんな風に殿下と触れ合える日が来るなんて夢みたい。
「殿下、ありがとうございます」
「エドでいい」
「しかし名前で呼ばれるのは嫌なのではないのですか?」
「あぁ。心を許した者にしか呼ばれたくない。ナタリーには名前で呼んでほしい」
急に名前で呼んで欲しいと言われても困る。それなのに殿下は抱きしめる力を弱め、期待したような眼差しをこちらに向けてくる。そんなに呼んで欲しいの?
「エドワード殿下?」
「いや、エドで。二人きりの時なら敬称は要らない」
急に愛称とか難易度が高い。私はさっきまでここを去るつもりだったのに。何故このような展開になっているの。
私が困っていると殿下は微笑んで私に口付けた。その行動に困惑の表情を向けると、殿下は楽しそうに何度も口付ける。殿下はたくさんの女性と関係を持ったでしょうけども、私は殿下が初めてだから追いつかないのに。
「殿下、少し待って頂けませんか?」
私が殿下と呼んだ事が面白くなかったのか、殿下はつまらなさそうな表情をしながら再び口付ける。ですから!
「エド様。からかうのは程々にして下さい」
「様は要らないのに」
「呼び捨ては難しいです。お許し下さい」
私はイネスでさえさん付けでないと呼べないのに、殿下だけ愛称呼び捨てとか出来るはずがない。使用人を呼び捨てにして祖父に怒られてから、口にする時は呼び捨てに出来ないのに。サマンサの様付けをやめるのでさえ、とても勇気が必要だったのに。殿下の要求の意味がわからない。
「仕方がない、妥協しよう。その代わりこの部屋で殿下と呼んだら罰だからね」
「罰とは何でしょう?」
殿下はいやらしく微笑んだ。それはつまりここで何かしろという事ですか? そのような事を期待されても困る。私は何も知識がない。出産しているけれど、そういう事はあの夜一回だけだ。それとも殿下色に染められるという事?
「あの、お手柔らかにお願いします」
「呼び方さえ間違えなければ問題ないよ」
間違えたら問題になるような感じなのですか? 私はもしかしてもう少し考えて返事をするべきだったの?
私が困惑を隠せないでいると殿下は笑顔で口付け、私をベッドに押し倒した。私は考える事を放棄してそのまま流される事にした。多分考えても答えは変わらない気がする。それなら何も考えず殿下と甘い時間を過ごしたかった。




