やがて訪れる転機の前兆
窓から見える庭の景色を見て、また一年が過ぎたと実感する。その度に殿下の足を引っ張らないよう立派な王太子妃になろうと決意をするけれど、三年経っても未だにシェッド皇女のままで、レヴィ王太子妃としては認められていない気がする。スティーヴンに言われた事は一通り出来るようになったけれど、地下暮らししかしていない女が王太子妃になど簡単にはなれない。わかっていても悔しい。
私と殿下の距離は相変わらず縮まっていないけれど、シルヴィやデネブと殿下の距離が徐々に縮まっているのも悔しい。殿下は不特定多数の女性と相変わらず絡んでいるけれど、そこにシルヴィとデネブも入っているのだろうか? 聞きたくないのであえて聞いていないけれど、あの二人の機嫌が最近いいので多分そういう事なのだろう。
「ナタリー様、馬車の用意が整いました」
イネスに声を掛けられ、私は頷いて椅子から立ち上がった。リアンに紹介された後、私は定期的に大聖堂へと足を運んでいた。そこに集う子供達に聖書や絵本を読み聞かせるのも楽しいし、大人達と其々の宗教観について討論をするのも楽しい。王宮での私の居場所は未だにどこかわからないけれど、大聖堂はここに居てもいいと言われているような安心感があるから好きだ。だけど無宗教であるレヴィ王家の人間が足繁く通うのは好ましくないようで、月に一度くらいしか大聖堂には赴けない。それでも私はその月一回を許可してくれた殿下に感謝している。
「俺には宗教がよくわからないけれど、よく続くよね」
帰りの馬車の中でリアンが私に話しかけた。私が大聖堂へ赴く時は大抵リアンが付き添う。リアンの都合が悪い時はスティーヴンになる。私は一人でもいいと伝えたけれど、王太子妃が護衛もつけずに王宮の外に出るのは許されないのだそうだ。殿下の側近以外に軍人も二人控えている。正直私には逃げる場所もないし、誰かに誘拐されるほどの価値もないので大袈裟だと思う。
「リアンさんはこれだけ付き合って下さっているのに興味を持たれませんね」
「俺は目に見えないものは理解出来ないから」
リアンは殿下の前ではきちんと話すのに、何故か私の前では口調が砕ける。スティーヴンの表面的で他人行儀な話し方に比べれば、こちらの方が親しみもあるし憎めないので、これも人柄なのだろうと気にはしていない。そもそも自分も仕事があるだろうに、こうして定期的に付き合ってくれるだけで十分にいい人だというのはわかっている。
「信じていない方にも女神マリー様は優しく微笑んで下さいます」
「だから見えないのに微笑むなんてどうやってわかるの? それが理解出来ない」
リアンは訝しげな顔をしている。そう言われると私も答えられない。マリー様は私達の幸せを願い常に天空から笑顔で見守って下さっていると言われて育ったので、そういうものだとしか言いようがない。
馬車が王宮に到着した。護衛は王宮の入り口までらしく、馬車を降りて王宮に入る時には軍人二人の姿はない。流石に三年もいれば日常生活に必要な場所は一人で歩けるようになった。それでも王宮内全部を歩いたわけではないので、知らない場所も多分まだあると思う。
「ごめん、俺は別件があってここでもいいかな?」
「どうぞ。王宮内は一人で大丈夫ですから」
「ありがとう。殿下にはこの事を内緒で宜しく」
リアンは少年のような笑顔を向けて王宮内へと消えていった。内緒も何も、私は相変わらず殿下とは滅多に話をしないのだけれど。側近である彼がそれを知らないとは思えないのだが、どうも彼は殿下に騙されているような気がする。騙されているとは表現が悪いかもしれない。殿下は夜会や晩餐会など私と同伴が必要な時、それはもう理想の夫を演じている。常に私に気を遣い、優しく微笑みかけてくれる。殿下に愛されていると私自身毎回錯覚しそうになる。でもそれはあくまでも公式の場だけ。寝室には私の起きている時間に来る事はない。それでも未だに側室を迎えないので、私は殿下に触れられないにもかかわらずあの寝室で寝起きをしている。
「ナタリー様、少々お時間を宜しいでしょうか?」
突然声を掛けられ驚いた。中性的に見えるその人が誰だかわからず、私は訝しげな表情をしてしまったと思う。
「失礼ですけれども、どちら様でしょうか?」
「チャールズ殿下に仕える者です。宜しければチャールズ殿下にお会いになって頂けませんか?」
この三年、全く見かけないので第二王子チャールズという人は、そもそも存在しないのではないかとさえ思っていたのだけど実在したらしい。イネスが嘘を吐く必要はないけれど、晩餐会も夜会もいつも体調不良で欠席だった。そんな人が私に会いたいとは一体何の用なのだろう? 殿下が親しくしていないのだから関わらない方がいいのかもしれないけれど、今会わなければ一生会えないような気がする。
「わかりました。伺わせて頂きます」
チャールズの側近は一礼すると私を案内してくれた。王宮三階には初めて来た。私はまだまだこの王宮全体像を認識出来ていないらしい。
「チャールズ殿下、ナタリー様をお連れ致しました」
室内にいたのは肌白で儚げな青年だった。金髪で瞳も灰色のせいか全体的に色素が薄い。しかし殿下に似ていない。どちらかというとスティーヴンに似ている。兄弟より従兄に似るのは不自然でもない。母方レスター公爵家の血が強く出てしまっただけだろう。
「急に呼び出して申し訳ありません。どうぞそちらにお座り下さい」
チャールズに勧められ、私は一礼して彼の向かいにあるソファーへ腰掛けた。このソファー、私の部屋にある物と同じような気がする。今まで誰かの部屋に入った事がなかったから知らなかったけれど、私にも王族と同じものを用意していたのか。こういう所が流石レヴィ王国だ。シェッドなら多分しない。
「改めまして、エドワードの弟チャールズです。長らくご挨拶もせず申し訳ありません」
「ナタリーです。私の方こそ御挨拶に伺わず申し訳ございません」
チャールズは柔らかく微笑んだ。殿下と違い自然の笑みだ。しかしどこか儚げなのは、やはり病弱というのが影響しているのだろうか?
「あの兄と付き合うのは大変ではありませんか?」
まさかの言葉に私は驚きの表情を隠せなかった。何故三年も挨拶をしていなかった義弟から、このような質問を受けるのだろう。兄弟仲は良くないとは聞いているけれど、一体何の為に私は呼ばれたのだろう?
「私は大変だと思った事はありません」
「レヴィで一生暮らせそうですか?」
質問の意図がわからない。殿下の質問もいつも答えに困るけど、レヴィ王家は私を試しているのだろうか?
「私は一生暮らしていきたいと思っています。出ていけと言われれば出ていきますけれど」
「その場合はシェッドに戻られるのですか?」
「シェッド皇宮に私の戻る場所はありません。ルジョン教の大聖堂のどこかにお世話になれればいいと思っています」
チャールズは満足そうに微笑んだ。何だろう? 何を聞きたかったのかこちらは全然わからないのだけど、説明を求めても答えてくれない雰囲気なので尋ねる気にはならない。
「ルジョン教の教えでは一度婚姻関係を結べば一生添い遂げると伺っておりますけれど」
「そうですね。ですが殿下はルジョン教信者ではありませんから、殿下に離婚を申し渡された場合は私に拒否権はありません。私は再婚をしない、それだけです」
その教えがあるからこそ母は幽閉されているのだ。父は母を愛していなくとも離婚は許されない。本来なら妾がいる事も許されないのだが、その辺は妙に聖書の解釈を誤魔化して正当化している。誰にでも愛情を持つのと妾を持つのは絶対に違うと思うのだが。
「シェッド帝国の皆様がナタリー様のようにルジョン教の教えに忠実ならば国の姿も違ったかもしれませんね」
「チャールズ殿下はルジョン教に詳しいのですか?」
「信者ではありませんが聖書は読みました。清貧の教えがあるのに、ナタリー様は舞踏会の時は過剰な宝飾品を身に着けられると聞いて不思議に思っています」
部屋に籠りっきりかと思えば私の事を調べていたのか。舞踏会の時は殿下の横で失敗しないよう必死だから、この中性的な側近が参加していたかはわからない。しかし私の事を調べてどうする気なのだろう?
「あれは父が送り付けてきた物で侍女に強制されているのです。過度な宝飾品はレヴィの流行と違うとは言っているのですけれど、わかってもらえなくて」
私は素直に言った。チャールズの目的がわからないけど、私はそもそも嘘を吐く事が得意ではないし、女神マリーも嘘はよくないと言っている。知らないふりと嘘は違うと思っているけれど。
「そうですか。シェッドにも事情があるのですね」
チャールズは納得したように頷いている。別に事情という程大袈裟なものではない。公国出身の王妃より煌びやかにしろという見栄に過ぎない。見栄を張らせたいのならまず私の貧相な身体から変えるべきだと思うのだが、そこには頭が回らないらしい。レヴィで美味しい食事を三年続けたにもかかわらず私は大して太らなかった。異母姉の二人があの体型なので量を増やせば太るのかもしれないが、レヴィの貴族令嬢は皆細身なので太り過ぎる事を恐れて、出された食事以上は食べられなかった。
「王妃殿下の代わりに公務を代行されるのは苦ではありませんか?」
「いいえ。王太子妃としての義務だと思っております」
公務代行は各国の外交官の挨拶を受けるのが少々気を遣うだけで、観劇をしたり、演奏を聴いたりと別段大した事はしていない。殿下が王太子妃に相応しいようにと定期的に服を仕立ててくれるので最低限その分働くのは当然であるし、部屋に籠っているよりは楽しいので辛いと思った事はない。
「しかし王太子妃の義務の一つを果たしておられませんよね?」
私は表情を上手く作れなかった気がする。言いたい事はわかる。いくら表面上仲が良さそうに振る舞っていても、男女の関係がないのは見る人が見ればわかるのだろう。
「それは私一人の力でどうにか出来る事ではありません」
結婚して三年。覚悟はしていた。子供が出来ないのは自分のせいと言われても仕方がない。純潔を失っていないのに子供をなす事は不可能だが、それを訴える先もない。殿下が子供は要らないと言うのだから、私が望んでも仕方がないなど言えるはずがない。
「もし授かれば男女問わず愛情を持って育てますか?」
私はチャールズの言いたい意味が全くわからなかった。子供を授かる可能性がない状況を把握しておきながら、何故そのような質問をするのだろう。だけど本心を言えば欲しい。殿下が私を愛していなくとも、私は子供を愛せると思う。
「えぇ。この世に生を受けたものは全て愛される存在ですから」
私は明言を避けた。チャールズの求めている答えがわからなかったから、ルジョン教の教えを引用した。ルジョン教の聖書を読んでいるなら意味も通じるだろうし。
「女神マリーの御加護の下に、という事ですか」
「そうですね」
私は微笑んだ。チャールズも微笑む。答えに納得してくれたのだろうか?
「突然呼び出し、このような不躾な質問の数々をどうぞお許し下さい。ナタリー様、兄の事をこれからも宜しくお願いします」
チャールズは頭を下げた。私は何と答えていいのかわからず、とりあえず私も頭を下げる。チャールズの側近が退室を促すので失礼しますと言って部屋を出た。
チャールズは悪い人には見えなかった。何故殿下と仲が悪いのだろう? 母親の一件のせいかもしれないけれど、もういい大人なのだから話し合えばわかり合えそうなのに。
しかし私が口出ししていい事ではない。殿下の御不興を買って追い出されるのは困る。大聖堂で司祭の手伝いも悪くはないけれど、許されるのなら殿下の側にいたい。殿下が私を愛していなくとも、嘘だとわかっていても優しくして貰えるあの一時の幸せが手放せない。たとえ仮面夫婦を演じているのだとしても、虐げられてきた私に束の間の幸せをくれる殿下に心を奪われるのは抗えない。