その二 木の葉の女王の小テスト
○ 1
「うわあああああああああ!」
自分の悲鳴がいつ果てるともなく続くのだと思った。その声は自らが発していると言うのに、遠ざかり木霊になり、かと思うと耳元を行き過ぎる戦闘機の爆音のようにも聞こえた。その音が行き過ぎる時は、ジェット気流が彼の皮膚をめちゃくちゃに引き伸ばしたし、その体を回転させて、出来損ないの独楽のようにした。洋一が、もう耐えられない! もう殺してくれ! と喚いた時には、その幼い意識は山頂の空気のように希薄になっていた。
というわけで、洋一がどこともしれない固い地面に身を横たえたときも、意識喪失寸前で、自分にどんな危険が差し迫っているか、全くわかっていなかったのだ。
○ 2
う、ううん……
重いまぶたを腕で擦った。
熱い木漏れ日を肌に感じる。
首を左右にひねり腕を上げた。何か妙だ。
そこは森の中で風がそよそよと吹いていた。異変について、しっかりと考えている暇はなかった。洋一が太助のことを思い起こして、慌てて起き上がった時には、丸い岩の上から転げ落ちていたからだ。
岩ではなかった。
洋一は干し草に埋もれながら、そしてその草をかきわけながら身を起こした。そこで自分が何の上で寝ていたかを知った。恐竜だ。背骨にそってどでかいトゲが生えているやつ。額までどでかい鱗で覆われているやつ。そいつは全長が3メートル、体重は2トン、比喩を使うなら車よりも戦車でなくちゃいけない。そいつはメスで、今ちょうど卵を守りあっためていたところだ。かれがそんなことを知っているのは、自らが生み出した生物だからだった。確か……確か名前は……
「ねえ、アンブロキス」と洋一はなだめるような猫なで声で言った。相手は起きているのに小声だ。アンブロキスの(体と比較すればの話だが)つぶらな瞳は烈しい怒りと威嚇を湛えて彼を睨みつけいている。視線をずらすとアンブロキスのお腹の下には、洋一よりもでっかい卵が五つ。そいつを長い尻尾を、とぐろを巻いた蛇のように丸めて抱えている。
洋一の目の動きに気づくと、ブフウと威嚇の鼻息を吹いた。洋一は熱い突風に押し戻されて、尻餅をついた。
「ね、ねえ落ち着いて!」今度は大きな声で言った。「僕は卵をとりにきたんじゃない。すぐに消えるから、だから……」
アンブロキスは今や短い足をついて立ち上り、子供たちを守るように回りこんできた。
ぼくはこんなふうに書かなかった。ナーシェルはこいつの横を慎重に通り抜けたんだ。
洋一の脳は言い訳の悲鳴を上げたが、体は、生存本能に従って逃げにかかっていた。そいつがその気になれば、時速何㎞で走れるか知っていたからだ。
「ぼくがお前を生んだんだ!」這いつくばって草をかきわけ、少しでも遠ざかろうともがきながらアンブロキスに喚いた。「ぼくがお前を作ったんだぞ! なのにぼくを……」
殺すつもりだ。
振り向いた洋一が見たのは、虚空に舞い上がったアンブロキスの足の裏だった。三本の爪と、象のように分厚い皮膚。そいつで、洋一をジェラルミンよりも薄くペシャンコにするつもりなのだ。
洋一は夢中で転がった。腕の皮膚をかすめて、足が降ってきたときには、本当にヒヤッとした。
ズシン!
アンブロキスの怪力は(一瞬だが)小規模な地震を引き起こした。洋一の体は宙に浮いた。
フワリと着地したときには夢中で立ち上り、一目散に駆け出していた。
アンブロキスは短い首を伸ばし、噛みつこうとしたが、腰布を掠めたのみ、間一髪で
逃げ去った。
立ち上った時、洋一は目線の高さに驚いた。細いが、長い手足。その四つはとても俊敏で、訓練されたスプリンターよりも断然優秀。二歩目でトップスピードに乗りきると、しなやかにうごめく体幹を、猛然たる勢いで、前へ前へと運び始めた。
アンブロキスはドスドスとじめんで太鼓をつきながら追ってくる。アンブロキスは走るのはそりゃあ不得意じゃない。でも、体が重すぎて最高速度を発揮するにはうんと時間がかかるのだ。
洋一はこれだけ速く走れれば、絶対に逃げきれると思った。アンブロキスは卵から離れたがらないから、彼が遠ざかりさえすれば追跡を諦めるだろう。でも、洋一は全く別の理由で、安堵とは程遠いりゆうの涙を両の眼に滲ませていた。洋一は走れば走るほどそのことを思い知ってこう喚いていた。
「ぼ、ぼくの体じゃない! 」
○ 3
予想通りだった。洋一が充分離れた所で、アンブロキスは速度をゆるめ、姿が見えなくなるのを確認した後、巣へと戻っていったからだ。
洋一はアンブロキスが見えなくなったあとも、しばらく走った。この森ではどこで何に狙われるかわかったものではない、ということを知っていたからだし、何よりこの体が疲れなかったせいもある。
巨大な木の根が、いくつも入り組んで、迷路になったような場所を見つけると、ようやく止まった。
こんなに長い距離を走り通したのは生まれてはじめてのことだった。なのにわずかに息切れするばかり。
洋一は自分の体を見下ろした。肌は一夏中焼いたのかと思うほどの褐色だ。服は着ておらず草で出来た腰簑だけをつけている。腕には木の皮で編まれたミサンガ。
洋一はみっしりと蔓延る苔を乗り越え、その苔からはえた雑草(なんとその雑草すら彼の背丈ほどもあった)をかきわけ、水溜りをのぞきこんだ。
「ナーシェルだ」
洋一はうめいた。真っ黒で長く伸びた髪、金色に近しい澄んだ瞳、その瞳は長い睫毛とともに揺れている。
「なんてことだ。ぼくは……」
洋一は言葉に詰まって息を飲んだ。水溜まりの中に人影がいくつも映りこんだからだった。
○ 4
洋一は逃げる間もなく肩をつかまれた。
「こんなところにいたのか、探したぞ」
と男が言った。彼らはみな雲をつくような大男ばかりで、一目でナーシェルの同種族とわかる。装束も同じ、肌の色も、額に巻いた草の冠も。違うのは、大人達が全員武装をし、頭から手足の先にいたるまで、色とりどりの化粧を施していることだった。
洋一の腕をつかんだのは モヒカン頭の大男だ。そして、二十人ばかりの一団の背後には鎧をきた五人の騎士達が控えている。彼らの木の葉の女王の寄越した使者たちだ。洋一はその事を知っている。これがどの場面か理解した。
洋一は、まだ物語の冒頭なんだと考えた。ナーシェルは、これから古代遺跡の洞窟に行き、部族に代々伝わる儀式を、やり遂げなければならない。
「待って、待ってよ。ぼくさがさなきゃ行けないものがあるんだ」
洋一にはモヒカン男の名前がわからなかった。小説では、彼はナーシェルを見守る部族の大人の一人で、名前をつけていなかったからだ。
でもさがさなきゃならない。
伝説の書と、おそらく共にこの世界に入りこんだはずの太助とを。
「何を探すというんだ?」と大人達が顔を見合わせる。「儀式の洞窟ならすぐそこだ」
大人たちは戸惑うように振り向く。その先には苔に覆われながらも太陽の光を受けて輝く遺跡があった。遺跡は川の中にあるが、そこにはマングローブのような木が生い茂り、水の流れから守っていた。
石の遺跡はそのまま洞窟への入口となっていた。
「わかってるよ、ぼくは成人の儀式をやり遂げて女王に会わなきゃ行けない、それにぼくは仲間を見つけないと」
小説の通りなら、ミッチとネッチを。
騎士達が話を遮るように近づいてきた。洋一も大人達も彼らをみた。
「女王陛下は急いでおられる」と騎士の一人が厳かにいった。
「危機に瀕したこの国もな」
騎士達が遺跡の方にさってゆく。その姿を見送ってから、
「ナーシェル」と大人たちのリーダーが彼の方にしゃがみこんだ。「お前の年では儀式はまだ早いというのは、我々とて同意見だ。だが、女王が辺境の我らに救いを求められるとはよほどのことだ。一族の名誉のためにも成し遂げなければ駄目だ」
「それはわかってるよ」洋一は騎士達に聞こえないよう小声で言った。「でも、僕の要件も大事なことなんだ。僕は女王に会ったあとも、ずっと旅を続けなきゃならないんだよ」
大人達は当惑して顔を見合わせる。
「だが、成人の儀式を終えなければお前はこの森を出られない。部族の掟だ」
「それはわかってるよ。でも……」
「先のことは、森を抜けた後に考えればいい。今はなすべきことをなせ」
彼らは立ち上がると、洋一の肩を抱くようにして、遺跡へと進んでいった。