第一章 牧村洋一、自作に入る
その一 再び、物語の中へ
○ 1
ぐるり、ぐるり。ぐるり、ぐるり。
果てしない闇を、真っ逆さまに落ちながら、牧村洋一は、
この感じは味わったことがある――
と、感じた。そう、本の世界に入ったときだ。あのときも、こんな感じだったのだ。
先ほどまでは、真っ白な世界を飛び跳ねていたというのに、エンドマークの鐘の音が終わった瞬間、地面は、テーブルクロス引きをくらったみたいに一瞬で消えて、洋一の体は、闇の中に放り出されしまった。
そのまま下へ下へと。落ちるごとに、彼の体は縦へと伸びて、やがて、らせんを描き始めたかと思うと、まるで嵐の中に飛び込んだ気球みたいに、四方八方に吹き飛びはじめた。
その間も落下の感覚はあったのだが、濃い闇が一瞬のうちに光で満ちた。ドスンという音とともに、固い地面を感じるようになった。
うめきながら、手をついた。
手の下には、赤い絨毯があった。
洋一は、うつぶせに倒れた体を起こした。その周囲では、彼の仲間たち――ミュンヒハウゼン、奥村真幸、そして奥村太助が――同じように身を起こしていたことだった。
○ 2
洋一は、太助と目を合わせて、ほっと笑みをかわしあった。そこは、ロビンの世界に入る前にいた、洋一の父の書斎だ。あのとき、カーテンの向こうは闇だったが、今は朝の光がキラキラとさしこんでいる。
戻ってきた、と思うと、洋一はうれしくてたまらなかった。それは、彼らの勝利にほかならないからだ。
男爵は、ソファの上で、だらしなく手足を投げ出していたが、のっそりと立ち上がると、四人の中央に落ちた『ロビン・フッドの冒険』を拾いあげた。
「愉快な冒険じゃと?」男爵はふんと鼻を鳴らした。「ちょいとばかり、手こずったわい」
ミュンヒハウゼンは、立派なカイゼル髭の端を、得意げにこすった。
「二人ともよくやった」
と言って、太助の父親が、左腰の両刀を指し直して、洋一のことを助け起こしてくれた。
そうして立ち上がり、部屋を見回すと、洋一の胸にも、ようやく誇らしい感情が沸き起こってきたのだった。
冒険は終わったのだ。とりあえず。
○ 3
「なにはともあれ」
と男爵は言った。
「あ、あ、オホン」
とわざとらしく指をつきたて、
「これでウィンディゴには一矢報いたわけだな。ロビンたちは正しい終わりを迎えたわけだし」
「ウィンディゴはどうなったのかな」と洋一。
「奴はもう、ロビンの世界に手はだせん」と男爵。
「でも、あいつはいなくなったわけじゃない。次の手をうたないと」
太助が眉をしかめて言うと、父親がその肩をたたいた。
「では、まずは腹ごしらえを済ませるとしよう」
○ 4
男爵と奥村が出て行くと、書斎には、洋一と太助だけになった。
二人の守護者が、扉を開いて出て行く瞬間、洋館の奥からは、狂った物語の騒ぐ声が聞こえたけれど、それはあの晩の一幕に比べれば、ずっと小さなものだった。
洋一はソファをまわり、男爵がローテーブルに置いていった、『ロビン・フッドの冒険』を手に取った。その古めかしい赤い表紙の書物は、確かに強い力を持っているらしい。数々の冒険を終えた直後だというのに、いまだ熱気を放っている。
「ジョンたちはどうなったかな」
と洋一は訊いた。
「わからないな。けれど、ロビンとアーサー王の世界が混じり合ったぐらいだから、また会う機会があるかもしれない」
太助が真面目な顔で答える。
洋一は吐息をつきながら、またテーブルに本を置いた。頭に整理をつけるには、あまりも多くのことが起こりすぎた。
「今はいつなんだろう?」と洋一。「ぼくら、ずいぶん本の中にいたろ? 外の世界でも、おんなじぐらいに時間がたったのかな?」
二人は、二つの世界での時間の流れについて話し合ったが、決着はつかなかった。
太助がいった。「もし、こっちの世界で時間が流れていたんなら、あの養護院の連中はとっくに君を探しに来ていることになる」
「それか、あの院長は、あのことを誰にも言わなかったのかも」
「それとも、君は行方不明にされているかもしれないぞ。ここに戻ったことは、誰にも知らせていないんだし――」
太助の声を聞いてはいたが、洋一の頭には彼の話がちっとも入っていなかった。気になっていたのは、ずっと別のことだった。
父の書斎に、違和感がある。
その書斎は、書斎というにはもったいのないほど大きかった。二十畳ほどもある部屋の壁面は、あますことなく棚と本に覆われていた。南面こそバルコニーに面していたので巨大な掃出し窓となっていたが、私立図書館の書斎として、全く名に恥じないものだった。
違和感、といっても、そこは彼の部屋ではない。が、小説の執筆では、ずっと利用していた。ここ数年は入り浸っていたと言っていいだろう。一冊の物語をノートに書き上げ、それは稚拙で穴の多いものではあったけど、恭一(彼の父親)とともに喜び合ったものだった。このところ、二人は新作に関するアイディアを出し合っていたところだった。恭一がその物語を読む機会は、永久に失われたわけだが。
洋一は、ふいに心にきざしたうら寂しさに幼い胸を痛めながら、巨大な(といっていいだろう。彼の体格を考慮しても)書斎机をまわりこんでいった。
あのとき、
ロビン・フッドの物語に乗り込んだまさにあの夜、この部屋には結界が張られていたので、ウィンディゴは窓の外で吠え立てたが、入ってくることはできなかった。以来、部屋は無人であったはずである。
洋一は違和感の謎をとくべく、マホガニーの分厚いにテーブルに手を添えながら、机の周囲をまわって、座椅子の方へと回り込んでいった。
机の下には装飾をほどこしたいくつもの引き出し。
机の上にも本やノート、筆記用具が置かれていたが、それらはきちんと整理整頓されている。あるべき位置に。それらはただ置かれているわけではない。クラウチングスタイルで号令を待っている、百メートル決勝のランナーみたいだ。戦闘配置についた軍隊みたいに。所定の位置についている感覚。
それらは所有者の生前の性格を正しく表していたが、たった一つ。ずれている物があった。年代物の椅子。
一人かけのチェスターフィールドソファだけが、所定の位置からずれている。
恭一は書斎を離れるときは、必ず仕舞った。だから本革の巻かれた肘かけは、机の下にもぐりこんでいるべきだった。
洋一が、その不自然に傾いた椅子の背もたれに手をかけたとき思っていたのは、ぼくが完結させた小説を、父さんはどこにしまい込んだんだろう、ということだった。
太助は洋一の異変に気がつき、黙って彼の様子を見つめていた。だが、洋一がその椅子の背もたれを引いて、はっと息をのんだときには、彼の元へと急ぎ駆け走っていた。
「どうした、洋一?」
洋一は彼の方を見ようともせず、椅子の座面を指さした。そこには大学ノートが無造作に置かれている。そのノートの表紙には黒のマジックの太い方で、こう書かれていた。
『ナーシェルと不思議な仲間たち』
○ 5
洋一はその物語を分厚い大学ノートに書いた。恭一は古いワープロを与えようと考えていたのだが、息子はアイディア帳として与えたノートにいきなり物語を書き始めてしまったため、ワードプロセッサを与えることはあきらめた。
考えてみると、洋一はキーを打ったことすらないし、物語を書くには勢いがいる。やがてはパソコンを使い出すだろうが、最初はこれでよかろう、と恭一は納得したのである。
洋一は、その本が、最初からそこに置かれていたんだろうか、と考えた。
恭一の性格を考えると、それはありえない。もし読み返していたんだとしても、こんなふうに置くことは、ない、と思った。
太助がすぐに察して、君が書いた本か、と訊いた。
洋一はうなずきながら、
「でも、父さんが置いたんじゃないと思う。このノートはぼくのだけど」
「この部屋には結界が張られている。なのに、入ってきた者が?」
二人は顔を見合わせる。それから、どちらともなく扉の方をみた。男爵たちの物音はしない。
戻ってくる気配もない。
洋一は椅子の背を引いて、座面に乗ったノートがよく見えるようにした。
そうしてみると、そのノートは、なんだか禍々しい物に見えた。まるで、伝説の書と、同列の存在みたいに。
二人はバルコニーに目を向けたけど、そこから覗いてたウィンディゴの姿はない。
鍵も閉まっていた。
洋一は、ノートを前にして、手を伸ばすのを躊躇した。ふと、伝説の書のことが気になって、懐に手を伸ばす。赤本の固く分厚く、頼もしい感触はまだあった。太助がそんな洋一の様子を見て、咎めるように肩に手を置いた。
「ウィンディゴの罠ではないのか? 男爵たちが戻ってくるまで、手を出すのはよした方がいい」
洋一が振り向いて頷こうとしたそのときだった。
ノートが一人でにバラバラと開き、中から風と光が猛然と吹き上がった。
二人の少年がたじろいだのを尻目に、ノートからは洋一の書いた文字が螺旋を描いて立ち上る。
「や、やめろ!」
と洋一は腹痛を起こしたみたいに、おなかを抱え込んだ。伝説の書がノートの動きに呼応して、シャツの下で七転八倒をはじめたからだ。
無数の文字が天井めがけて舞い上がる。すると、その文字の雲からは、彼の産み出した無数の声が降ってきた。洋一にとっては聞きなじみのある声――ナーシェルや、ミッチやネッチ、ふうせん男爵たちの声だった。
ノートは今や部屋に嵐を巻き起こしていた。書斎では、あちこちで、洋一が思い描き、ノートに込め続けたシーンの数々が空に浮かび、浮かんでは千々に切れて乱れ飛ぶ。
太助が、腹を抱える洋一の背に被さった。壁中を埋め尽くす書物の数々が、ノートに呼応して部屋を飛び交いはじめたからだ。
部屋は本物の嵐となり、豪雨が舞い、稲光がゴオゴオと雲を裂き、落ちてきた。床はたちまち水浸しになって、子供たちの膝元まで上がってくる。
「ウィンディゴだな!」
太助が洋一の肩を押しのけ前に出ようとした。今にも刀を抜きはなって切りつけんばかりの勢いだ。
洋一が太助の姿を見ようと顔を上げたそのときだった。
天井付近を大空を駆け巡るジェット機のごとく飛び回っていた文字の大群が、巨大な手を形どって舞い落ちてきた。その巨大な腕は二人の子供たちの胴体をまとめてつかむと、再び急上昇して、本の渦巻く天井へと舞い上がった。
もはや、
もはやそこには天井はなかった。
洋一と太助は嵐の中を、天高くのぼっていった。耳の中には、キーンという音が聞こえた。
やがて、その文字でできた巨人の腕は、勢いをなくして加速を止めた。かと思うと、地上目掛けて頭から急降下をしていった。
洋一と太助が、腕に連れられて大学ノートに飛び込んだ時には、嵐は収まり雲は消え、床を満たす洪水は撤収し、部屋中を特攻隊よろしく飛び交っていた本たちは、突如紐を切られた操り人形のごとく、絨毯目掛けていっせいに落ちていった。
騒ぎを聞き付けた男爵と奥村が駆けつけたときには、二人の子供たちの姿は、どこにもなかったのである。
○ 6
二人の守護者が子供たちの姿を求めて部屋を駆けずるその間、チェスターフィールドソファの上に乗った大学ノートは、ひっそりとページを閉じて、傲慢な美食家よろしく派手なゲップを漏らした。後は、なんの声もたてなかったのである。