第90話 居場所(Side:Rayshield)
狐族には昔から一つの言い伝えがあった。
金は一族の繁栄を成し、銀は災厄を齎す。お伽噺になるほどの遥か昔に、神懸かった異能を持って生まれた金狐と銀狐がいた。
二人は争い、長い戦いの末金狐が銀狐を封じて一族に安寧と繁栄を約束した。事実狐族は栄え力をつけ、獣人種の五氏族に名を連ねた。
お伽噺はそうして善の金狐、悪の銀狐のままめでたしめでたしで終わるが、狐族の歴史は現代まで続いている。金毛の狐族も銀毛の狐族も稀に誕生する。
人は見たいものだけを見る。金毛の生まれた年に豊作になれば金毛の益となり、銀毛の生まれた年に病に倒れるものが出れば銀毛の厄とされる。金毛の年に病に伏すものが居ても金毛の厄とはならず、銀毛の年に豊作になっても銀毛の益とはならない。
いつしか金毛の子は敬われ、銀毛の子は蔑まれる空気が狐族を支配した。
ヴィアーは記録に残る初代と同じ総銀毛で生まれた。両親は彼女を疎み、子を棄てて行方を暗ませた。残されたヴィアーは集落で育てられたが最低限の世話をするだけで、死なないだけの育てられたとは到底言えない状況の中にいた。
幸い病気になることもなく、どうにか無事に成長したヴィアーは過酷な労働とそれに見合わない対価、そして迫害を受けて育った。
そんな彼女の日常に転機が訪れる。族長のダキニが彼女の集落の視察に来たのだ。
ダキニは迷信や悪習を嫌う傾向にあり、当然銀毛差別を容赦なく断罪した。ヴィアーはダキニ預かりとなり砂漠にもっとも近い国境結界の集落へと移り住んだ。それが六年前、彼女が十歳の頃の話だ。
そこからのヴィアーの生活は激変する。ある意味奴隷以下の生活を送ってきた彼女の世界をぶち壊すには十分な、幸せな四年間。今の彼女を形作った大切な宝物。
それすらも彼女は奪われる。今から二年前の事だ。
最初は狐族の縄張りの中心付近で流行り出した風邪に似た症状の何て事はない出来事だった。その様子が変わったのは一月が過ぎた頃。一向に治らぬ風邪が徐々に縄張り全域に広がり出したのだ。
下がらぬ熱に止まらぬ咳、長期間疾患した者は体力を落とし、立ち上がれなくなり、ちょうど二月目、最初の死者が出た。
そこからは早かった。早い時期に病に侵された者から年齢性別の区別なく命を落としていった。病の感染速度は凄まじく、あっという間に狐族のほとんどが感染した。
不思議なことに狐族以外にはまったく感染せず、狐族の縄張り以外で生まれたものには発病者は居なかった。その感染経路、原因全てが謎のままだった。今だ解明されていないことの方が多い。
ヴィアーの不幸はここでも続く。彼女だけは発病しなかったのだ。縄張り内で生まれ、この地から一度も出たことがない彼女は悪夢のような病魔から見逃され続けた。
いつの頃からか、この病を銀毛の厄だと言い出す輩が現れた。族長の匿う銀毛がこの病の原因だと。だからヴィアーは発病しないのだ、と。
ヴィアーを匿ったからこんな事になった。銀毛を殺せ、銀狐を出せとダキニに詰め寄る者が増え、集落の者もヴィアーを庇いきれなくなった。
集落の狐族が亡くなった。例の流行り病だ。それまで病気で苦しみながらもヴィアーを庇っていた集落の者からも彼女を追放しろとの声が上がり始めた。
そしてついにダキニも発症した。この頃になるとこの病気についてもいくつか判明した事がある。発病から早くて2ヶ月、長くても一年以内に死に至る。そして狐族としての力が強い者ほど長く苦しみが続く。
ヴィアーに対する迫害は最高潮に達する。族長にまで感染した奇病が彼女にだけ罹らない。それだけで理由は十分だった。
真相は彼女の特異技能、打ち勝つ者が彼女を病に負けさせなかっただけ。実は彼女も発病自体はしていたのだ。
ダキニは苦しみの中、それでもヴィアーを庇い、彼女が元凶ではないと訴え続けた。最後までヴィアーの保護者であろうと、家族であり続けようとした。
加速度的に数を減らす狐族は二年目の春、ついにダキニとヴィアー、そして縄張りの維持と介護のために作られた人形だけとなった。発症しなかった外生まれの者は皆狐族の縄張りを捨てた。
最後の時を迎えるにあたり、ダキニはヴィアーに言葉を残す。
ここに残ってはいけない。自分はこれから死を迎え、違う存在となってこの地を護り、死者を弔うこととなる。生者であるヴィアーは別の地で新しい生活を送れ。
生まれてから十年の地獄、四年の天国、そして二年の更なる地獄を経て、ヴィアーの心は壊れかけていた。ダキニだけが心の支えだったのだ。
「ダキニさんが居なくなったら、あたしはきっと壊れちゃうんだ。だからダキニさんの所に帰らないと」
語り終えたとき、ヴィアーはそれでもあの地に帰りたいと言った。あれはダキニであってダキニではない。それはどうやら理解しているようだ。だがそこから先に進めないでいる。
「お前は寂しかったんだな。お前を護ってくれる者がダキニしか居なかったから。家族と呼べる者がダキニだけだったから。お前の居場所があそこしかなかったから」
俯くヴィアーの小さな背中に手を添えて、ライシールドはヴィアーの背中を優しく撫でる。初めて目の前で人の死を見た夜、怖くて眠れなかったあの時に、涙が止まるまで背中を擦ってくれた姉の手を思い出しながら、出来るだけ優しく背中を撫でる。
「俺は口がうまくない。こういうときに気の利いた言葉が言えればいいんだが、俺には無理だ」
飾った言葉など出てこない。彼に出来ることはたったひとつ。真っ正面からぶつかることだけだ。
「俺が居場所になってやる。俺とレイン、アティとロシェとククルと皆で旅をしよう」
ダキニしか居ないからあの場所に縋りつくのだとライシールドは考えた。それならば、居場所を作ってやれば良いのだ。ライシールドの隣で、旅の仲間と一緒に、旅をすれば良い。ライシールドの目的は長く険しい。その旅の目的を果たすまで付き合えとは言わない。ヴィアーが新しい居場所を作るまで、新しい家族が出来るまででいい。
手に入れることが出来たなら、その時はダキニに会いに行けば良い。今度は笑顔で、もう自分は大丈夫だと胸を張って。
「だから俺と来い。お前が次を見つけるまで位、付き合ってやる」
代わりに俺の旅も手伝ってもらうがな、と笑う。
「……勝手なことばっかりだな。ライは」
ライは知らないのだ。ヴィアーがどんな地獄を見たか。どれ程ダキニに依存していたか。どれだけあの場所が大切だったか。どれだけあの日を取り戻したかったか。
境の集落の長はヴィアーを汚らわしいものを見るような目でしか見なかった。誰一人ヴィアーに声など掛けなかった。子供たちは姿すら見せたことはない。それが過去の現実。昨日の暖かい世界はヴィアーが夢見た唯の幻。自らが不要な者だと認めたくない気持ちが生んだ夢物語。
ダキニとの思い出が唯一つの現実。指の間から零れ落ちた幸せは、もうどこに落としたのかも判らない。掌に残されたのはダキニの死という現実と、自分が一人になったという事実。
そこまで考えた所でヴィアーは気付く。何時の間に自分は全てを過去だと思うようになったのか。何時までも今だと思っていたダキニも大切な場所も全て時の向こうに消えたと思ってしまった。ずっと認められなかった思いが、すとんと胸の中に落ち着いてしまった。
「ライシールド、貴方はなんて残酷な男なんだ。あたしの大切な思い出を過去に追いやってしまった。もうあそこに帰ってもあたしはあの夢の様な時間には帰れない」
溢れる涙を拭いもせず、零れ落ちる雫をそのままにヴィアーはライシールドを見た。その声には棘は無く、ただ淡々と自分に言い聞かせるように言葉を紡いで行く。
「そうさ、あたしはとっくに気付いていたんだ。ダキニさんはもう居ない。あれはダキニさんだった何かだ。あそこにはあたしの求めるものはもう何一つ無い」
ヴィアーは泣きながら笑った。認めてしまうことで悲しみは深くなったが、絶望はやってこなかったから。彼は言ったのだ。“居場所になってやる”と。
「だから、お前には責任を取ってもらうぞ。嫌だと言っても離れてやらないからな。あたしはそう決めた」
これが正解なのかは解らない。だが今のヴィアーにはこれしか出来ない。これしか思いつけない。一人で居場所を探すなんて恐ろしいことは出来はしない。不正解だって構うものか。
だから全部ライシールドに押し付けて、彼の隣を居場所にしてしまうのだ。もう絶対に離れて等やるものか。
「ああ、お前が嫌だと言うまで、俺の隣はお前のものだ」
ライシールドは何時だって思ったままを伝える。言葉に裏も含みも入れる程の器用さなど持ち合わせていない。だからこれは本気の言葉。純粋に思った言葉。
「じゃあ死ぬまであたしのものだな。後悔するなよ」
随分と勝手なことを言われた気がする。大分酷いことをされた気がする。とても身勝手な結果を押し付けられた気がする。
もっと悲しくなると思っていた。もっと不安になると思っていた。もっと絶望すると思っていた。ダキニの死を受け入れるということはそういうことだと思っていたのだ。
だがどうだ。今ヴィアーは深い悲しみを抱えながらも笑えている。涙を流しながらも安心している。絶望なんて微塵も沸いてこない。
「ライ、ありがとう。あたしに現実を教えてくれて。今まであたしは恩を仇で返していたんだな」
何時かまたここに帰ってこよう。今度はダキニに依存する為ではなく、過去に逃げる為ではなく、今を受け入れ、今を生き、両手一杯の幸せを抱えて帰ってこよう。
ダキニに、自分は幸せになったから安心して良いよ、と伝える為に。
「ライ、あたしを連れて行って。貴方の側に居させて」
ヴィアーはそう言って、笑った。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。