第88話 手負いの獣(Side:Lawless)
再び街道を進み始めた馬車に揺られ、ローレスは一つの懸念を感じていた。
最後に現れた大型の斬牙狼の視線。あれはただ警戒していただけなのだろうか。どうにも嫌な予感がして、彼は馬車内でずっと森側を警戒していた。
「ローレス君、どうしたの?」
ずっと黙ったままのローレスを心配したアイオラが耳元で囁くいた。耳を擽るその声に彼は小声で答える。
「なんだか嫌な予感が止まらないんだ。昔近くの森から大型の熊が村を襲った日のような、嫌な気配が消えない」
そう。過去に感じた強力な襲撃者の気配。恐らくはあの大型の斬牙狼が何処かからこちらの様子を伺っている。
あの時に目をつけられたのだ。逃げ戻る狼の群れのためにローレスを視線で牽制してきたあの瞬間に。
「ライオットさん、嫌な気配を感じます。僕も警戒しますが、ライオットさん達も気を付けてください。馬車から離れないように」
ローレスの真剣な表情にライオットも事態を把握し、リズリット達仲間にもそれを伝える。馬車内ではアイオラがテーナ達に話を伝えていた。ニックは流石に今度は騒ぎ立てることもせず、大人しく座っている。
「ニック様、活躍せよとは申しません。彼らの邪魔にならないよう、ご配慮くださいませ」
容赦ない従者の言葉に項垂れたまま「解っておるわ」と答えるニックを彼女は満足げに見下ろした。
「これでも我が主でございます。御守り頂けますよう、よろしくお願い申し上げます」
そのような態度でも主とは認めているらしく、そんな事を言いながら、従者はローレスに頭を下げる。
「僕は屋根の上に行くよ。何かあったら知らせるから、張り詰めすぎない程度に警戒よろしくね」
走る馬車の扉を開くと、器用に屋根の上に登る。御者にはライオットが説明している。緊張した顔の御者が周りををキョロキョロと不安げに見ながら馬車を進める。
街道脇進行方向の森の中、これ見よがしな殺気を放った魔物の気配をローレスは捉えた。距離が詰まると魔物の遥か後方に十数匹の魔物が控えているのを察知した。
「これはまた……一対一を誘っているのか?」
ローレスを挑発するように殺気をぶつけてくる魔物は、恐らく例の大型斬牙狼だろう。手下をいくら連れてきても邪魔になるだけと判断したか、余計な犠牲を嫌ったか。
「ライオットさん、御者さんにこのまま進むよう伝えてください。皆さんも止まらないで」
「ローレス君? どういう事だ!?」
叫ぶライオットに答えずに、ローレスは馬車を飛び降りた。走り去る馬車を見送り、ローレスは一人森に向かう。やはりこちらに近づいてくるのは一匹だけで、予想通り一騎討ちをご所望のようだ。
「盾よ」
左手に不可視の盾を出現させる。右手で矢を番えると隠蔽と隠密を同時に起動、茂みの中に潜む。
「臭いでばれるか?」
魔物は真っ直ぐにローレスを目指して進んでくる。やはりどちらも効果はなさそうだ。
取り合えず距離のあるうちに木の上に移動する。あんなのと正面切って戦うなど、ローレスには無理だ。
「無臭化」
自然魔術で自らの臭いを消す。地面に降りることなく、いくつかの枝を乗り継いで姿を暗ます。
魔物が姿を表す。大型の斬牙狼だが、従来のものと違い頭に二本の曲がりくねった角が生えていた。
やはり臭いで追って来ていたらしく、ローレスがいないことに気付いて辺りを警戒し出した。
その姿を後方から観察していたローレスは静かに弓を引く。微かに軋む弓の音に気付いたか、角付は振り返るとローレスを見た。
「遅い」
ローレスの手から離れた矢筈が弦の力を受けて矢に伝える。押し出しされた矢はその力で空を疾る。正確に眉間を射ち抜く軌道に乗っていた矢は、しかし中ること叶わず空中で撃墜される。
「まじか……!」
二本の角の間を雷光が走り、そこから放たれた雷の矢がローレスの一撃を射ち砕く。
ローレスの射撃位置に雷の矢が突き刺さる。発火する枝にはすでに彼はいない。矢を放つと同時にまた枝を渡って移動したのだ。
またもローレスの姿を見失い、角を帯電させたまま唸り声を上げる角付。どう切り崩すべきかと悩むローレス。一人と一匹の静かな戦いが幕を開けた。
「アイオラさん、良いのですか? 貴女の騎士様、飛び降りていっちゃいましたけど」
ネリアが地に降りて森に消えるローレスの後ろ姿を目で追いながらアイオラに訊く。
「大丈夫よ。彼は私を置いて行くことは絶対にないから」
「それでもたった一人で行かせて良かったの?」
テーナの質問に笑って答える。
「今の私は足手まといだから。邪魔をしないことが一番の手助けとなるのよ」
今は失った力が大きすぎてローレスのために出来ることは限られている。どうにかして彼に見合う力を付けなければならない。いつまでも護られてばかりの女で居るつもりはないのだから。
「おい、前方に一匹何か居るぞ!」
先達ての戦いで矢傷を負った斬牙狼が茂みの中から姿を表した。怒りに取り憑かれて群れを離れたようで、ただ一匹で殺気を振り撒き、馬車を引く馬が怯えて足を止める。
「不味いぞ。馬が竦んじまった」
御者が青い顔でライオット達に告げる。
「判った。俺たちでなんとか進路から引き剥がすから、どうにか馬を奮い起こして抜けてくれ」
何か決意したような悲壮な顔つきに、御者は神妙な表情で頷く。
「済まない。君たちの行為を決して無駄にはしないよ」
その言葉に頷くと、無理矢理な笑顔を向ける。
「まだ死ぬと決まったわけでもないしな。ギリギリまでやってみるさ」
剣を抜き、馬車の前に出る。ライオットの後ろにはリズリットが槍を構え、ルクスは両手に小剣を握る。レイリーは盾と剣を構え、ライオットの隣に立った。
「さて、私も手を貸しましょう。こう見えて教会一の戦棍の腕と言われていますのよ」
ネリアが馬車から降り、戦棍と中型の丸盾を下げてライオットの前に出る。
「加護聖印:斬撃」
ネリアの神術がライオット達にも掛けられる。
「正面は私が受け持ちます。皆さんは左右から攻撃を」
馬車の方から詩が響く。テーナが竪琴を手に朗々と詠うそれは、剣戟行進曲。ネリアやライオット達の戦意が高揚し、斬牙狼に対する恐怖が薄らぐ。
「大地よ裂けろ」
アイオラの魔術が発動し、斬牙狼の足下の地面が裂けて右前足を挟み込む。左後ろ足を矢傷で負傷している今、前足を封じられて狼の戦闘力は半減以下となるだろう。
それを好機と見たネリアが横凪ぎに戦棍を振るう。巧く避けきれない狼の胴を強かに打ち、裂けた毛皮から血が噴き出す。反撃の前足を盾で受け、襲い来る牙を一歩下がって避ける。
ライオットが右側から後ろ足を狙って剣を振るう。見た目より柔軟で耐刃性のある毛皮のせいで刃が滑る。思ったよりも傷をつけられずもう一撃をと振り上げたところで、狼が反撃とばかりに右後ろ足をしならせて蹴りを放つ。辛うじて避けたライオットだが、革鎧の胴体部分に浅くない裂き傷を負った。
矢傷のある方の後ろ足を狙うのはレイリーとルクス。丈夫な毛皮部分を攻撃するよりも、傷を負って弱点となった部分の方が武器が通りやすいのでそこを重点的に攻めている。
攻め倦ねているライオットの背後から、リズリットの鋭い一撃が飛び出してくる。若干表皮で滑ったがライオットの攻撃で多少傷ついた皮膚に巧く引っ掛かり、体重を乗せた一撃は深く肉の奥へと通った。狼は痛みに叫び、強い力で振り回されたリズリットは弾き飛ばされて地面を転がっていく。槍はそのままの後ろ足に刺さったまま。ライオットはその槍を巧く掴むと強引に捻り抜いて肉を抉った。
「リズ! 大丈夫か!」
狼を包囲したまま、ライオットが倒れ伏すリズリットに声を掛ける。いつの間にか馬車から降りていたアイオラが駆け寄り、足を押さえて呻くリズリットを助け起こす。
「大丈夫よ、ちょっと足を捻っただけ」
リズリットはそう言うと片足でアイオラに支えられながら立ち上がった。戦闘は無理そうなので、そのまま馬車に移動して御者の隣に座らせられる。
「いざとなったら馬車で駆け逃げるから、ここで様子を見ていて。合図があったら御者さんに伝えてね」
役目を作ってそこにいる意味があると言うことで、戦闘から離脱した負い目を軽減させる。槍を突き刺して斬牙狼の機動力を潰した功績は非常に大きいのだが、後を任せて下がるというのは負い目を感じやすい。その配慮に気付いたリズリットも「ありがとう」と離れ際にアイオラに囁いた。
リズリットに笑顔を返すと、再び斬牙狼に視線を戻す。手負いとは言え格上の魔物はしぶとく、いつの間にか右前足も引き抜かれて自由になっていた。
ネリアは両前足と牙の攻撃に防戦一方で、自慢の戦棍を振るう暇がない。ライオット達も攻撃を当ててはいるが毛皮の防御力をなかなか抜けず、思うように傷を与えられない。
両後ろ足を負傷しているので素早い動きが出来ず、更にその場で四人を相手にしているにも関わらず斬牙狼との戦闘は膠着状態に陥っていた。
「火よ穿て」
その戦闘に変化を与える一撃が放たれた。アイオラの生み出した炎の飛針が、ネリアを攻撃して動きを止めた斬牙狼の右目に突き刺さる。右目を潰されて痛みと熱で身を竦ませる斬牙狼の左顔面に、ネリアの戦棍の打撃が叩き付けられる。両目を失って混乱する斬牙狼にライオット達も傷口目掛けて攻撃を加える。
「離れて! 大きいのを行きます!」
アイオラが術式の発動準備を終え、退避を促す。全員が距離を取るのを確認して、彼女は最大威力で術式を発動する。
「逆巻け旋風!」
斬牙狼を中心に無形の刃が旋風となってその身を切り刻む。毛皮が風の刃を弾いても、裂けた傷口を更に広げ、傷口から血を吸い出す。逃れようとする斬牙狼だったが傷ついた両足は思うように動かず、ついには自らを支える体力も失って倒れ伏した。
術式の鎌鼬が収まったその場には、舌を出して荒い息を吐く瀕死の斬牙狼が横倒しで転がっていた。
「楽にしてあげましょう」
ネリアが近付いて、斬牙狼の頭部を戦棍で叩き潰す。血と脳漿が飛び散り、斬牙狼は事切れた。
「後の処理は任せてよろしいですか?」
ライオットに死体の処理を任せ、御者台に座るリズリットの痛めた右足に手を添える。
「痛痒緩和、捻挫治癒」
捻った足首から鈍痛が消え、動かしても痛みを感じなくなった。御者台から降りようとするリズリットを押し止め「今日一日はあまり歩かないで下さい」と注意する。痛みと捻りは解消されているが、安定するまで無理は禁物だ。
「そうなんですか。私、術式治療を受けるのは初めてで」
礼を言いながら御者台に座り直すリズリットの下に、ライオットが駆け寄ってきた。手には彼女の槍を持ち「大丈夫か!?」と表情固く訊いた。
「もう、オットーは心配性ね。私は大丈夫よ。ネリアさんの術式でね、ほら見て」
捻挫した足をぷらぷらさせながら、ライオットを安心させるように笑い掛ける。ネリアはその空気を察して「ごちそうさま」と肩を竦めるとその場を離れた。
こちらはなんとかなった。アイオラは和やかな雰囲気に落ち着いた皆を見ながら思う。ローレスはどうなっただろうか、と。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
15/11/22
方を竦めると→肩を竦めると