第75話 竜巻の正体(Side:Rayshield)
洗い流した砂は、水源地を出て僅か数分で元に戻った。
「まぁ当然と言えば当然なんだが、この砂はどうにもならないしな」
現在ライシールド達は岩場の影にククルが構築した風の結界の中に居る。その結界の向こうでは、凄まじい勢いで砂が舞い上がり、空を覆い尽くしている。
「運が悪かったようですわね。例年の発生時期よりは随分と早い発生です。砂塵竜巻に巻き込まれてしまったようですね」
ロシェが言うには、本来ならば後一月もすれば季節が変わり、禁忌の砂漠の各所で威力の高い竜巻が頻繁に発生するようになるらしい。砂や小さな石のみならず、規模によっては一メルを超える岩などすらも舞い上げ、砂漠中で猛威を振るうこれにまともに巻き込まれると、まず生存は望めない。蟻人たちは嵐の期と呼ばれる二ヶ月ほどの期間は、地上に出ることを極力控えるそうだ。
逆にこの竜巻の発生する期間に大量に姿を現す魔物がいる。植物系の魔物で飛行仙人掌と呼ばれるそれは、この季節に竜巻に乗って砂漠を移動しながら切り刻まれ、その破片一つ一つが芽を出し、新たな仙人掌となる。巻き込まれた生物の死骸も養分となるので、繫殖する上では非常に合理的な移動方法である。
「ククルの風の結界が無ければ危なかったという事だな」
「そうですわね。ククルさんの風竜としてのお力で張られた結界でなければ、この竜巻を凌ぐ事は出来なかったかもしれません」
随分とのんびり会話しているが、今も風の結界の向こうでは人の頭ほどもある岩が空高く舞い上がっていく。時折結界に向かって飛んでくる大きな岩は、発見次第アティが氷の鞭で弾き飛ばしている。
「この竜巻自体は足が早いので、ここで後三十分も待てば通り過ぎてくれると思います。季節外れの竜巻はそうは無いと思いますので、これをやり過ごしたら少し移動速度を速めて距離を稼いだ方が宜しいかもしれませんね」
この砂漠の地下の住人である蟻人が言うのだからそれは間違いないだろう。そうするのが一番なのかもしれない。
「所で、この竜巻がどうして発生しているのかは判っているのか?」
ライシールドが上空の一点を見ながらロシェに訊く。
「いえ、ただの自然災害ですので、どういった条件で発生しているのかは判りません。そもそもこの竜巻に近づけば死が待っているだけですので、調べようもありませんし」
「そうか。じゃああれが何かも判らないんだな?」
ロシェの背後を指差す。ライシールドの指の方へと視線を動かしていき、彼女は息を呑む。
「な、何ですの、あれは……」
砂の竜巻の中心に浮かぶのは、一匹の羽虫。薄い緑の羽をゆっくりと羽ばたかせて、それは優雅とも言えるゆったりとした動きで空中を漂う。
その姿は蜻蛉にも似て、またその触覚は蝶に似ている。ギザギザのついた鋸の様な顎を時折カチカチと鳴らしながら、一羽ばたきする度に動きの速さとは裏腹に強烈な風が巻き起こり、竜巻は風速を上げる。体長は優に十メルを超え、その羽虫のいる範囲の内側だけが無風であるかのように安定した飛行を続けている。
「あれは……巨大な薄羽蜉蝣じゃないかな」
ククルが結界を維持しながらその巨大な飛行生物の正体を推測する。とは言えこれほどの大きさのものを見たことも無ければこの砂漠にこんな生き物がいるということも恐らく誰も知らないだろう。
「羽ばたきで竜巻を起こして、動きの遅い無防備な身体を隠しているんじゃないかな。大陸東部にいる薄羽蜉蝣はもっと指先ぐらいの大きさの小さな羽虫で、成体になってからは二、三週間で死んじゃう短命の虫だね」
ククルが風竜の知識にある情報を開示する。小さな薄羽蜉蝣が成体になるのは収穫の期の頃。嵐の期が丁度時期的にも被る。この虫が見られるようになると冬越しの準備を始めるのが東部では常識となっている。蟻人たちもこの季節は地上には出られないので、砂漠の外まで延ばした巣穴を通って遠征するために事前に食料等を備蓄したりして冬の準備を始める。
「しかし、この巨大な虫はどこから沸いてくるのかのぅ」
まだ遭遇していないが、この砂漠には岩山ほどもある巨大な土砂蚯蚓が生息している地域もあるらしい。ロシェは「土砂蚯蚓が成長してこれになる……訳はありませんわよね」と自分で口にした仮説の馬鹿らしさに肩を竦める。
「えっとね。東部の薄羽蜉蝣の場合は、幼虫は……あ!」
ククルが脳内で風竜の知識を紐解き、その疑問の答えを探り当てた瞬間、驚いたような声を上げて慌てて口を手で押さえる。目はロシェを凝視して「これは聞かない方がいい気がするんだけど……」と小さな声で呟く。
「あの窈窕たる威容、何故か目が離せませんわ。心の底から湧き上がる畏敬の念は一帯何なのでしょう……」
あの巨大な羽虫の婉然たる姿を見て、感動に打ち震えているように見える。小刻みに肩は揺れ、視線は薄羽蜉蝣からまったく外れることが無い。
それが見惚れている訳でも感動している訳でもないと気付いているククルは、このままあの羽虫が通り過ぎるまで誤魔化すべきか、正直に教えてその抱く感情の答えを告げるべきか悩んでいた。
「ククル、あいつの幼虫は一体何なんだ?」
そのククルの苦悩を察したのか、ライシールドが彼女の側によって囁く。正確には様子のおかしいククルに気付いたのはレインだが、そこは言わぬが花だろう。
「えっとですね。ロシェさんには刺激が強すぎるかもしれない」
正確には蟻人に取っては、だが。
「薄羽蜉蝣の幼虫は、砂場に擂り鉢状の穴を作って罠を張り、落ちてくる獲物を捕食する生き物なんだよ」
ライシールドはその説明を聞きながら何かが引っかかった。そんな生き物、と言うか魔物に心当たりがあるような無いような。
「……ああ、もしかして」
ついこの間戦った相手が、丁度そんな感じだったような気が……と腰に佩いた剣の柄を触る。
それはライシールドがアティやククルと逸れた原因にしてロシェが旅に着いて来ることになった切欠。そして今触れている剣の素材でもある魔物。
「禁忌砂漠蟻地獄」
それほど大きな声を出したつもりは無い。結界の外では未だに竜巻の激しい風切音が騒がしく、少し離れた位置に居るロシェには絶対に聞こえないはずだ。
「普通の薄羽蜉蝣は一年掛けて成長し、秋に成虫となって卵を産んで死を迎えるんだけど。流石にこの巨体が一年足らずに成長するなんてことは無いだろうから、数年を経て成虫になったんじゃないかな」
つまりこれからこの薄羽蜉蝣は卵を産み落とし、蟻人達の天敵である生き物を増やす予定なのである。生物として生きる以上当然の行為ではあるのだが、ロシェが種の敵を前に見過ごして納得できるかが判らない。
今はこの薄羽蜉蝣はライシールド達に興味を示して居らず、刺激しなければこのまま通り過ぎていくだろう。だが下手にロシェが暴走した場合、攻撃を受けた羽虫が反撃をしてこないとは限らない。
「なるほど。確かにロシェには言わない方が良さそうだ」
ふと視線を感じる。振り返るとロシェと目が合った。合ってしまった。聞かれてしまったのだろうか。
「……落ち着け。大丈夫だ」
蟻人の種族特性、天敵種と相対するとき蟻人は身動きが取れなくなり、恐怖に竦む。それは心の底から来る畏れであり、正体に気づいていなかったロシェをして恐怖に竦みあがり、震えるほどの絶対的な畏怖。
「あ、あれ、あれが蟻地獄の、お、親ですの!?」
上ずった声でどうにか言葉を発する。涙目で身体を震わせ、ロシェは今にも崩折れそうな足を必死で堪えている。
暴走は無さそうだが逆の方向にやばそうな気配を感じ、ライシールドは素早くロシェに近づくと腰に手を回して支える。彼の手の感触にロシェは少しだけ気持ちを持ち直したが、それでも支えきれない身体から力を抜き、ライシールドに支えられるままその身を預ける。
「も、申し訳ありま、ません。じ、自分ではど、どうにもな、ならない恐怖がこ、ここまでひど、ひどいとは……」
隠形走蜘蛛と対峙したときにはここまでの畏れは無かった。この砂漠では最大の天敵である禁忌砂漠蟻地獄の更に上位に位置する成体種に対しての畏怖は身体の自由を奪う程度ではなかった。魂を縛る恐怖、油断すると意識を持っていかれかねない程の畏れがロシェを襲う。
「気にするな。どう立ち向かおうとも乗り越えられないものがあるということは俺が一番よく解っている」
村を襲ったあの恐ろしい何かを見たとき、彼は本能的に死を理解した。抗うことを思いつけない程の恐怖と言うものを目の当たりにしている。だから今のロシェの気持ちは解る。
「今は駄目でも、次が無理でも、何時か乗り越えれば良いんだ。俺も力を貸す。心を折らなければお前なら何度でも立ち向かえる」
「ライ様……」
ライシールドは強さを求め、諦めない者に好感を持つ。諦めて弱い立場を受け入れるものを嫌う。ロシェは彼の言葉が胸の奥に熱い何かを灯してくれたのを感じていた。
それは抗う為の力の源、立ち向かう為の一振りの剣。今はまだ小さいそれは、天敵に立ち向かう為の勇気と言う名の小さな灯火。やがて蟻人勇者へと至る為の第一歩でもあった。
「ありがとうございます。わたくしはライ様のご期待に応えられるよう、これからも立ち向かって見せますわ!」
身体の震えも奥底から湧き上がる恐怖もまだ消えてはいない。それでもその声には力が戻っていた。
いつの間にか薄羽蜉蝣は進路を変えて、彼らから遠ざかっていく。その後姿も砂塵に紛れ、何時しか見えなくなった。
「ところでライ様、いつまでロシェのお尻触ってるの?」
竜巻が去り、先程までが嘘のように雲ひとつ無い空と灼熱の小聖鏡が容赦なく地面を照らす中、岩陰で佇むライシールドとロシェの側に寄ったククルがにやにやと笑いながら指摘する。
砂と風の地獄からあっという間に灼熱の地獄へと様変わりした砂漠の姿を呆然と見ていたライシールドはその言葉にようやく自分がロシェを支える意味がもう無いことに気付く。
「っと、悪い」
正確には腰の後ろを支えていただけなので、ククルの言うようにお尻を触っていた訳ではない。言い訳するようなことでもないので短くロシェに謝罪すると手を離した。
「いえ、支えていただいてありがとうございました」
ライシールドに向けてにっこりと笑うと、空を見上げて「もう少しライ様の手を感じていたかったのですが、残念です」と小さく呟く。その呟きは誰にも届くことは無い。
見上げる空はどこまでも青く、遥か彼方ではどんどん小さくなっていく竜巻の姿が見える。
「予定通り出発しよう。ロシェ、少し速度を上げるが大丈夫か?」
「勿論です。ライ様の足手まといにはなりませんわ」
目指すは西。多くの獣人が住まう獣の王国へと目的地を定め、ライシールド達は砂漠を進んでいった。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
16/02/01
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