第68話 原初の畏れ(Side:Rayshield)
水路をひたすら遡上すること七日。辿り着いたのは向こう岸が見えないほど広大な地底湖だった。天井から滝のように水が降っている。砂漠の地下にこれほどの水量を抱える湖があることも驚きだが、それが頭上の砂漠であろう場所から齎されていると言うことが更に驚きであった。
「この水はどこから来ているんだ?」
船を降り、手に持った光を放つ魔道具を天井に向けて見上げながら訊くと、ロシェは「この上にあるオアシスからですわ」と天井を指差す。
「ここがライ様の言われる水聖の杯と謂れる場所かは判りませんが、水を司る蛇神様が居られる水源地があるのはこの上で間違いありません」
水を司る蛇神が居るということは、可能性は非常に高いのではないだろうか。レインも「多分その蛇神様が檻の結界の維持者だね」と同意している。
「それで、この上にはどうやって行けば良いんだ?」
まさか流れ落ちる水を遡って、水路を抜けて行けとは言うまい。
「地上へと抜ける道はありますわ。最近蛇神様の様子がおかしいので封鎖していますが、わたくしが解除できますのでご安心を」
言いながらロシェが壁際に寄り、二人並んで歩けるかどうかといった程度の幅の通路の前に立つ。高さも二メル程で通る分には十分な高さはある。
「それでは少々お待ちください。封を解いてまいります」
ロシェは「直ぐに戻ります」と通路の奥に消えた。しかし暫く待っても彼女は一向に戻ってこない。
「ねーライ。これってちょっと遅いんじゃない?」
彼女が通路に消えて三十分。大した時間ではないが、直ぐに戻ると言うには些か遅い気がする。別段入ってきてはいけないとは言われていないので、様子を見に行くことにして通路に足を踏み入れた。
暗い通路を魔道具で照らしながら進む。二十メルも進むと徐々に道幅が広がりだし、更に二十メル進んだ辺りで幅五十メル、奥行き三十メル、高さ四十メル程の広さの空洞に出た。そこの中央に一段高くなった舞台があり、その上でロシェが跪いて祈りを捧げていた。鎧骨格を収納し、全裸で。
ライシールドの足音に気付いて顔を上げたロシェと目が合う。距離がある上に暗いので細部は見えないが、形の良い膨らみやスラリとした影がライシールドの目に映る。
「あー……これはあれだ。もう少し待っていれば良かったってやつか」
蛇に睨まれた蛙の様に硬直するロシェ。レインは素早くマントの内側に潜り込む。ライシールドはくるりと後ろを向くと「すまん」と短く謝罪した。
「な、な、なんで……」
「なんで入ってきたか、か? 直ぐに出てくるという割には時間がかかっていたように思えたんでな。心配で様子を見に来た」
ライシールドは言い訳はしない。ただ正直に、事実のみを告げる。そう言われてしまうとロシェとしても怒りにくい。入ってきてはいけないとも言わなかったし、儀式にかかる時間を告げなかったのも悪い。
何より、心配してくれたという事がちょっと嬉しかったりもする訳だ。
「……わたくしの方こそ、かかる時間をお伝えしておりませんでした。ライ様がお気になさることではありません。ですが、その……見ました?」
ライシールドは嘘は言わない。ただ正直に、事実のみを告げる。
「この暗さで細部は見えていない。ただその、輪郭とかはまぁ……すまん」
「……いえ、ライ様がお気になさることでは……はうぅ」
悪いのが自分なのは解っている。しかしそれとこれは別なのだ。急速に熱を持ち出す頬に手を当てて、ロシェは目尻に涙を滲ませる。丁度儀式も終わったところだ。鎧骨格をさっさと展開させよう。そうロシェが思った瞬間。
「翅脈の腕!」
ライシールドが叫び、次の瞬間ロシェは彼の腕の中に居た。舞台を飛び越え入り口の反対側の壁際まで飛び退き、ライシールドはロシェに「大丈夫か?」と声を掛ける。
「だ、大丈夫って言いますかこの状況を大丈夫といって宜しいのか判断に苦しむと言いますかえっと? え? 何ですのどういう状況ですのこれ!?」
ライシールドの腕に全裸で抱え込まれ、嬉しいやら恥ずかしいやらで一杯一杯のロシェの混乱振りに「落ち着け、敵だ」と冷静に返すライシールド。既に戦闘態勢に入っている彼は女性の全裸を気にしている場合ではない。
「降ろすぞ。戦闘準備だ」
敵、の一言で急速に冷える頭で首肯し、鎧骨格を装着する。ライシールドの見つめる舞台を見るが、そこには何も居ない。
「何も居ないはずですのに、なんですの? この身体の奥から沸き上がる震えは……」
ロシェの身体が震えだす。正体不明の恐怖に身体が竦んで、身動きが取れない。
「ライ、あれはきっと蟻人の天敵だよ」
ライシールドの胸元から顔を出したレインが、ロシェの様子にそう結論を出す。ライシールドもその姿が見えている訳ではない。ただ気配察知の修行の成果で隠蔽と隠密をなんとか見破れたに過ぎない。
牽制で姿無き敵に向けて不可視の風の針を飛ばす。ギリギリで気付いたようで派手な音をさせて飛び退き、その際に技能の効果が切れたのか一瞬姿が見える。
それは半透明な姿をした一匹の巨大な蜘蛛だった。体長は一メル程でうっすらと脇に白い縦筋が走っているのが見えた。姿を見失う寸前、物凄い速度で空洞の隅に走り去っていった。
「あれは……隠形走蜘蛛です。姿を隠して近づき、気付かれる前に獲物に麻痺毒を流し込んで生きたまま捕食する。そんな恐ろしい大蜘蛛です」
恐怖に身を震わせながらも、気丈にライシールドに情報を伝えるロシェ。ライシールドは彼女に下がっているように伝えると、蟻地獄の牙の剣を抜いた。
「今はそこの天井か? 高いところなら安全とでも思ったか!?」
空洞の天井隅に身を潜め、走蜘蛛は息を潜めている。やり過ごしたいのか、攻撃の機会を伺っているのか。
「ロシェ、動けるか? 動けるなら通路まで下がって隠れていろ。動けないなら運んでやる」
「正直に申しますと、この畏れに竦む身体が言うことを聞いてくれません。ですがわたくしにも戦士の意地がございます。敵を前にいつまでも竦んでいる等我慢なりません。わたくしの矜持に賭けて、克服して見せますわ」
気丈に笑うと、震える腕で逆三角の盾を構える。
「解った。だが無理はするなよ」
ライシールドはその種として抱える原始の恐怖に抗うロシェの姿勢に、戦士の美を感じていた。
彼は村を襲った死の象徴に抗って姉を救い、復讐に囚われた姉を救うために大陸を覆う檻の結界に抗うために今旅を続けている。
そんな自分に重ねて、本来ならばどうにもならない恐怖に打ち勝とうとするロシェを見ていた。
彼は囲われているだけのか弱い女性には興味がない。共に肩を並べる強さにこそ価値を見いだす男なのだ。
「最近気づいたけど、ライは好みも脳筋だよね」
呆れるような声のレインを無視して、同期申請を出す。同期したレインに神器【千手掌】の制御を任せ、姿無き敵に意識を集中する。
牽制で風の針を飛ばす。やはり着弾直前に避けられて、走蜘蛛は今度は壁の中程に移動する。高さ的にはまだ剣の届く範囲ではない。試しに近くに寄ると素早く天井まで上がってしまう。
「埒が明かん」
遠距離からの攻撃は避けられ、近づくと逃げられる。どんな強力な攻撃も当たらなければ意味がない。
──あの足が厄介だね。どうにかして足留めしないと。
「黄土の腕」
一先ず蛇腹の腕を霧散させ、蚯蚓の腕を装填。砂の壁を走蜘蛛の左右に出現させて逃げ道を塞ぐ。天井から蜘蛛に向かってジリジリと砂の壁を伸ばしていくと、その動きに合わせて少しずつ走蜘蛛が下に降りてくる。
──降りきった所で砂の壁で囲んじゃえば逃げられないんじゃないかな。
右も左も砂壁に遮られ、上から延びてくる砂壁に追いたてられた走蜘蛛が地面に足をつけた瞬間、正面を塞ぐように砂壁を伸ばす。
「入ったか?」
封じ込めに成功したように見えたが、次の瞬間砂壁を突き破って走蜘蛛が脱出する。ライシールドを厄介と感じたか、壁面を高速で移動すると動きのないロシェに狙いを定めて突進する。
「ロシェ! 右からいくぞ!」
走蜘蛛の進路に次々砂壁を出現させて突進を邪魔する。最初は律儀に避けていた走蜘蛛だったが、ただの砂壁と気づいたか突き破って一直線にロシェを目指す。
「翅脈の腕!」
蛇腹の腕を装填。最高速でロシェと走蜘蛛の間に飛び込み、辛うじてロシェに向かって襲い来る牙を弾いた。跳ね上がった走蜘蛛は空中で半回転すると尻の糸疣から粘着質の糸を射出する。
避ければロシェに当たる。咄嗟に蛇腹の腕を突き出し、風の針で糸を吹き飛ばそうと連続で射出する。しかし狙いが甘く、走蜘蛛の足の一本に突き刺さっただけで糸には当たらない。
思わぬ反撃に足を引きずって下がる走蜘蛛。しかしライシールドが糸に絡め取られて身動きがとれなくなっていることに気づいたか、後退を止めて糸疣から追加の糸を射出して更にライシールドを固めていく。
「ああ、私を庇ったせいで……」
ライシールドの背後で今だ竦んだままのロシェが絶望の声をあげる。完全に糸に囚われたライシールドは、この後無防備に走蜘蛛の餌食となるだろう。そして今だ畏れから逃れられない自分自身も。
ロシェはそんな現実を受け入れるわけにはいかないと、諦めかけた自分に発破をかける。種の恐怖ごときでライシールドを危険にさらした自らの弱さに憤る。物理的な拘束がないと言うのに動かない己の肉体を疎ましく思い、そんな自分自身を制御できない己の未熟を憤怒の炎で焼き殺せとばかりに歯を食い縛る。奥歯が嫌な音をたてて砕け、その痛みで足が動く。一歩が出れば後は楽だった。
「ライ様はやらせません!」
動けぬ獲物に油断して近づいてきた走蜘蛛の足を二本切り飛ばす。無理矢理動かした身体は普段のような精彩を欠いている。不意を打てたからこそ一撃を当てられたが、真っ正面から対峙すると再び原初の恐怖に囚われ、走蜘蛛の八つの単眼と視線が合うと金縛りにかかったように身動きできなくなる。
「何でですの!? こんな蜘蛛ごときで、わたくしの全てが役に立たないなんて!」
悔しさに涙が出る。後一撃で倒せるはずなのに、その一撃を繰り出す腕が、足が動かない。足を切り飛ばされて警戒した走蜘蛛はロシェに粘着糸を飛ばして身動きできないように絡め取る。
身体は屈しても心は抗うとばかりに蜘蛛を睨みつける。精神的物理的に拘束された今、ロシェに出来る事は最後の一瞬まで走蜘蛛を睨みつけることだけだ。
今度こそ障害が無くなったと走蜘蛛が近づき、ロシェの身体に足を掛ける。麻痺毒の滴る牙を突き立てようとしたそのとき、ロシェの背後で熱気が爆発した。
「頑張ったな、ロシェ。俺はお前を尊敬するよ」
ロシェの脇を熱い何かが通り抜けて、走蜘蛛の腹を突き破った。走蜘蛛はその痛みと熱に残った足をジタバタさせる。暴れても逃れられないその灼熱に身の内を焼かれ、走蜘蛛はその動きを止めた。
──神器に隠形糸の腕が登録されました。
その身を燃え朽ちさせた走蜘蛛を投げ捨て、ライシールドが火蜥蜴の腕で粘着糸を焼き払う。
「ロシェ、ちょっと熱いぞ」
出来るだけ火傷しない様に気をつけながら、ロシェを拘束する糸を焼いていく。ある程度自由が利くようになった途端、ロシェはライシールドに抱きついた。
「ライ様! ご無事で何よりです!」
「ロシェが護ってくれたからな。あの一瞬が無ければどうなっていたか」
糸に絡め取られて動きを封じられたライシールドは、蛇腹の腕から風の針を全力で射出、何とか左腕の自由を取り戻して火蜥蜴の腕を装填して糸を焼き払い、ロシェを狙って動きを止めた走蜘蛛の無防備な腹に火蜥蜴の腕を打ち込んで内から焼き殺した。ロシェの稼いだ一瞬が無ければ再装填が間に合わなかったかもしれない。
「わたくしはただ夢中で……はぅ」
砕けた奥歯が歯茎を刺し、痛みで頬を押さえる。
「どうした? 怪我でもしたか」
「いえ、ちょっと歯を噛み砕いてしまったようで……」
ライシールドは銀の腕輪から水袋を取り出して手を洗うと、治癒薬を持ってロシェの口に指を突っ込んだ。
「もが!?」
「噛むなよ。見てやるから口を開けておけ」
好意を持っている相手に口の中に指を突っ込まれると言う特殊な状況にドギマギしながら、頬を赤くしてされるがままに口を開ける。
「ああ、奥歯が二本も砕けてるな。ちょっと染みるかもしれないから我慢しろよ」
顎を持って上を向かせると、治癒薬を砕けた奥歯に直接ぶっかける。傷口に染み込む薬効に短く鼻にかかるような声を上げる。痛痒いような感覚に耐えているうちに、痛みも痒みも消えた。
「使っておいてなんだが、この治癒薬と言う奴は本当に何でもありだな」
言いながらロシェの口から指を抜く。水袋の水を軽く流し、まだ半分程入ったそれをロシェに渡す。
「一応口を濯いでおけ」
「はい、ありがとうございます」
なんだかよく解らない気持ちを抱えて、ロシェはその水袋を受け取るのだった。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。