第18話 野営地の二日目
朝食を終えたライシールドとレインは早速昨日掘削した場所へと戻ってきた。
昨夜は雪も降っていなかったようで、昨日最後に見たものと同じ状態だったことは幸いだった。雪が積もっていたり崩れたりしていたらもう一度下準備のやり直しだった。
「そう考えると、今日終えるときには何らかの対策をしておいたほうが良いのか?」
おそらく予備の天幕を法生は持っているはずなので、昼一旦野営地に戻ったときにでも借りることにすれば良い、とレインが提案し、対案もないライシールドは特に反論もなく決定した。
昨夜結構遅くまで言い合いしていたこともあり、ライシールド的にはレインをあっと言わせる案を思いつきたかったところだが、まぁ、無理である。
さて、とりあえずは岩盤の掘削な訳だが、まずは火蜥蜴の腕で岩盤を熱する。そこに氷柱の腕で一気に冷却する。急速に冷やされた岩盤は脆くなり、杭が入り込みやすくなる。冷却時に解けた氷が粉塵を抑える水代わりにもなるので一石二鳥である。
燃鱗の腕、薄氷の腕、金槌と杭を持って強者の腕の順番を繰り返し、少しずつ削り崩していく。時々翅脈の腕の風の飛針を限界まで太くして、束ねて打ち上げることで穴の底の空気を入れ替えたりもしている。
この際一箇所だけでなく周りも広範囲で徐々に擂鉢を意識して掘り進めるのは、移動の利便性と崩落の危険性が少ないと思われるのが理由だ。まぁ素人考えではあるが。
最終的には精霊湯側からの圧で吹き上げさせる予定なので、広く掘り進めてどこか岩盤の薄い場所に辿り着けば、後は勝手に沸いてくれることだろう。
だが彼は知らない。この岩盤がどれだけの厚みを持っているのかを。
今日も朝から暇な法生は、焚き火を前にぼーっと座り込んでいた。
横には雪豹の仔が行儀よく座っている。目の前で炙られている魚の干物を凝視して。
「しかし、君は住処に帰らなくていいのかい?」
尻尾でペチンと法生の腕を叩く。それより魚をくれとでも言うように、ペチペチと催促してくる。
「はいはい、そろそろいいかな」
干物の串をはずして、木製の皿の上に乗せる。この皿も夜営道具の中に入っていたものだ。
目を輝かせてその様子を見つめる雪豹の仔は、法生の許可を待つ。どうやらこの雪豹の仔は相当頭がよろしいらしく、法生の言葉を理解している節がある。
「どうぞ、おあがり」
待ってましたとばかりに干物に飛び付く。少し熱かったのか前足で干物をテシテシ叩いて少し冷めたところで改めて口をつけている。
「本当に君は頭がいいんだなぁ」
感心したように呟く法生を無視して、雪豹の仔は尻尾をフリフリさせて干物をやっつけるのに夢中だ。
と、まだ半分以上ある干物を皿の上に残し、雪豹の仔は顔を上げて耳をピンと伸ばして天幕の向こうを見た。先程までの緩い空気は霧散し、低く唸りながらジリジリと法生の前に移動した。
「これは……天幕の向こうに何か居るのかい?」
問いに反応を示さず、雪豹の仔は姿勢を低くして法生を背後に庇う。
ひょっこりと天幕の影からその姿を晒したのは一匹の白い猿。体長は一メル程、全身を雪と同じ色の体毛に覆われていて、唯一肌を晒しているのは年老いた人に酷似した顔だけである。足は体に対してやや短く、逆に腕は異常に長かった。
「猿?」
雪豹の仔を見て、焚き火を見て、法生を見て、食べかけの干物を見て、口元を歪める。
それは驚くほど人の表情に酷似していた。まるで獲物を見つけた狩人のように、弱者を見つけた強者のように、甚振る相手を見つけた子供のように、それは嗤った。
手を上げた。雪豹の仔の唸り声が一段階強くなる。その様子を見て、法生は何事かが起こると理解して焚き火の近くに置いた背負い鞄に立て掛けていた長槍を手に取り、猿に向けて構えた。
猿の背中から白い体毛塗れの腕が伸びてくる。最初の一匹と同じ様な顔が現れる。白毛の猿が姿を現す。一匹が三匹、三匹が五匹。分裂するように天幕の向こうに待機していたのであろう猿共が出現し、嘲笑うような表情で雪豹の仔と法生を見ている。
「これは、やばいかな」
槍を構えながら、法生は冷や汗を流していた。向こうは鋭い爪を持つ腕と野生の力強さを持つ上に、五匹と数の上でも有利。こちらはまだ子供の雪豹と槍を扱ったこともない半人前以下の一人と一匹。明らかに詰んでいる。
どうやら焚き火が怖いらしく今はまだ遠巻きに警戒している様だが、じりじりと近づいてくるところを見るに焚き火を克服するのは時間の問題だろう。
火を恐れているのなら、と法生は猿と自分達の間に焚き火を挟もうと背負い鞄を掴んで後ずさる。雪豹の仔もその考えを理解したのか、猿共を睨みながら法生に続く。
背負い鞄の肩紐に腕を通しながら、揺らめく炎越しに猿共の様子を伺う。やはり猿共は少しずつではあるが焚き火に近づいてきているようだ。
先程まで法生たちが居た辺りまで接近してきた猿共は、雪豹の仔の残した干物に目をつけた。最初に姿を現した一匹が摘み上げ、匂いを嗅いで口に放り込む。未知の味に目を見開き、ゲッゲッと喉を鳴らすような声を出した。その声に背後の猿共が途端に騒がしくなる。どうやら干物がご馳走だと理解したらしい。木の皿をひっくり返したり、辺りの匂いを嗅いだりして他に干物が転がってないのか探しているようだ。
ひとしきり騒いだ後、猿共は焚き火の向こうの法生に眼を向ける。正確には法生の背負った鞄に、だが。その中に“美味しい物”があるのではないかと思い至ったようだ。
近付き過ぎなければ害はないと学習したようで、焚き火を回り込むように近づいてくる。追われる身である法生たちは、追いつかれる訳には行かないので焚き火を盾に逃げる。
暫くぐるぐると攻防を続けていくうちに、猿共は痺れを切らして足元の石を投げ出した。火を潜り抜けて飛んでくる石を雪豹の仔は事も無げに避け、それほど俊敏でもない法生は背中の鞄を片手で持ち直すと、盾代わりに石から身を守った。
最初の一匹の猿が後ろの猿共に指示を出す。二匹は一緒に、二匹は反対側から挟み撃ちをするように回り込んでくる。
「うわ、気付かれた」
ぐるぐる回っているうちに援軍が来ることを期待していたのだが、そこまで馬鹿ではなかったらしい。向かって左側は頭領を含む三匹、右側は二匹。数の少ない右側を長槍で牽制する。と言ってもただ闇雲に長槍を突き出すだけだが。
素人丸出しとは言え、必死で突きを放ち続ける法生に怯み、二匹は足を止める。法生の背後では雪豹の仔が唸り、睨み、猿三匹相手に怯むことなく牽制している。
それは偶然だった。法生の放つ出鱈目な突きを避けようとした一匹がもう一匹の体にぶつかり、反動で双方よろけた。そこに法生の突き出す長槍の穂先が伸び、肩に突き刺さった。
痛みに甲高い声を上げて、長槍を肩に突き刺したまま飛び退こうとした猿は、手を離すまいと踏ん張る法生の抵抗に均衡を崩し、踏鞴を踏んだ。
長槍に余計な力が加わったことで支えきれなくなった法生は、思わず手を離してしまった。肩に刺さった長槍が一種の支えのような状態になっていた猿は、さらに均衡を崩した。その先に待ち構えているのは燃え盛る焚き火。そこに猿は倒れこむ。
背中からひっくり返った姿勢で火の中に倒れた猿は、全身の毛が一気に燃え上がり、熱さで飛び上がって転げまわった。長槍がその衝撃で抜けて地面に転がる。
全身の毛が燃え、晒された地肌は赤くただれて見るも無残な姿になって倒れ伏し、数秒の痙攣の後動かなくなる。燃え盛る炎と空気を吸い込んで肺が焼け、喉が潰れ、呼吸が出来ずに死に至ったのだ。
追い詰めていたはずの相手に仲間が一匹殺された。その怒りで頭領の猿は激しく怒りの声を上げる。残った三匹も呼応するかのように一斉に叫びだす。
法生は予想外の戦果を喜んでいる場合ではないことを理解していた。一匹を倒した代償に焚き火が消え、盾であり障害物である火が無くなったのだ。散らばった薪の何本かにはまだ火が点いているが、それは猿共の脅威には成り得ない。
一匹が法生に飛び掛る。長槍を手放した法生には身を守る術はなく、両手を前に交差させて顔を庇った。目を瞑る法生を痛みがおそ……わない。猿が悲鳴を上げて遠ざかった気配を感じ、うっすらと目を開けた。
腕の間の隙間から覗く光景に思わず息を呑む。法生に飛び掛った一匹は腕から血を流して後方に下がっている。そして今、一匹の猿を相手に雪豹の仔が果敢に戦いを挑んでいた。
小さい体と素早い動きで相手を翻弄し、捕まえようと伸ばす腕を前足の爪で切り裂き、痛みで仰け反る猿の足に飛び掛り、肉を噛み千切って法生の前に素早く戻った。
これで腕に怪我を負ったのが一匹、腕と足を負傷したのが一匹。残り二匹も想像だにしなかった被害に手を出しあぐねていた。
法生は慎重に地面に転がる長槍を拾い、雪豹の仔の背後で再び構える。こんな小さな仔に守られるのは情けないかもしれないが、ぶっちゃけ法生よりは確実に強い。自慢ではないが下手に前に出でも足手まといになる自信がたっぷりとある。本当に自慢ではなかった。
頭領が腕に傷のある猿に指示を出す。傷のある方の腕を体で隠し、ゆっくりと雪豹の仔に手を伸ばす。威嚇し、牙を剥く雪豹の仔の背後で、法生は別のものを見ていた。
(あの頭領猿、他の奴等にも何か指示出してるな)
無傷な猿が腕に傷のある猿の背後に回る。足を怪我した奴は背後でキーキー騒がしく音を立て、注意を引こうとしているように見える。
(あれ!? 頭領猿はどこだ!?)
他の猿に注意を向けている間に、頭領猿を見失ってしまう。キョロキョロと辺りを見回すが何処にも居ない。法生の狼狽を知ってか知らずか、腕に傷のある猿が一歩雪豹の仔の側に飛び込むと襲い来る爪を交わして横に飛び退く。飛びついた所を避けられて無防備になった雪豹の仔に、無傷の猿の腕が振り下ろされ、地面に叩きつけられる。
甲高い鳴き声を上げて雪豹の仔は地面に転がった。意識は失っていないようだが、前足を怪我したらしく上手く立ち上がれない。
法生はその光景に声にならない悲鳴を上げて駆け寄ろうと一歩を踏み出した。その視界に白いものが舞い落ちる。落ちてきたのは雪の塊。だが雪が降っている訳でもなく、頭上に雪が積もるような障害物なんて存在しないはずだ。だが法生は雪の固まりが降ってくる理由を思いつく。
間に合えとばかりに頭から飛び込み、四つん這いになって雪豹の仔に覆い被さる。背中の鞄越しに受ける衝撃、そして押しつぶさんと掛かる重圧。雪豹の仔を潰すまいと法生は四肢に力を込めて必死で耐える。
法生の上で飛び跳ねているのは先程見失った頭領猿。他の三匹におとり役を任せ、その脚力の限界まで跳ね上がった。猿共の連携で雪豹の動きを止めたところで、頭領猿が頭上から止めを刺すと言う作戦だった。途中までは上手く行き過ぎるくらい上手くいっていた。
法生の邪魔さえ入らなければ、邪魔ばかりする忌々しい雪豹の仔を始末できたのだ。上手くいかないことの連続に頭領猿は癇癪を起こして、潰れろといわんばかりに鞄の上で飛び跳ねる。
(やばい、もう腕も足も限界……!)
せめて雪豹の仔だけでも守ろうと体をさらに丸めてその内に抱き込める。少し苦しいかも知れないけれど我慢して欲しい、と思いながら法生は覚悟を決めた。何があっても絶対この仔を守ってみせると。
「翅脈の腕!」
遠くで叫ぶ声が聞こえる。ぎゃんっと悲鳴が上がり、直後に衝撃がなくなった。
「おい、大丈夫か?」
直ぐ側でライシールドの声が聞こえる。ゆっくりと顔を上げると、彼が背中を向けて立っていた。
「ら、ライシールド君!」
「良い年して泣くなよ、この位で」
恐怖で泣きそうになっていた所に颯爽と現れた救世主は大層口が悪かった。でも怒りは湧かない。雪豹の仔を助けられたことに安堵して思わず涙が零れた。もうただ感謝であった。
「まぁ後は任せろ。その仔を治療してやれよ」
ライシールドの出現に警戒している猿共の方へ彼は一歩進んだ。猿共の威嚇の声など涼風の如く、奴等に蛇腹模様の腕を向けた。
「こっちは腹空かせて帰ってきたんだ。覚悟しとけよ」
ライシールドの獰猛な笑みに、猿共は大いに震え上がるのだった。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。