プロローグ・01 一人目
燃える。悪意と暴力と死に満ちた見慣れた村が崩れ落ちていく。
燃える。不幸と不運と絶望しかなかった見慣れた景色が紅蓮に塗り潰されていく。
燃える。唯一人の姉、唯一つの拠り所、唯一つの守りたい者が、目の前で右半身を瓦礫に押しつぶされて燃え散ろうとしている。
炎は一切の容赦なく、動かない姉の命の灯を上書きするように、人の形を留めた半分を舐めていく。
助けたいのに、身体が動かない。自身の左半身は瓦礫に押しつぶされている。無事な右手を精一杯伸ばしても到底届かない。伸ばした手が掴むのは土塊だけだ。
何も出来ない。消えてしまう。何もかもが、目の前で零れ落ちてしまう。
守りたいのに何も出来ない自らの力の無さを呪う。縋りたいのに近づくことさえできない無力なその身体を疎む。救いたいのに何一つ掴み取れなかった潰れた半身に憤る。
焼けた大地に爪を立て、半身の痛みなど知らぬとばかりに力を込めるが、爪が剥がれ、皮膚が焼け爛れるだけで僅かばかりも動くことが出来ない。
灼けた空気の熱量が眼球を灼き、視界が濁る。少年は次第に昏くなる景色に心折れ、絶望に囚われる。
「誰か……助けて……」
目の前で消えていく姉を助けてくれ。それだけが願い。自分はどうなってもいい。
自らの死は怖くない。この村で生き、戦うものは常に死に纏わり付かれてきた。怖いのは自分より先に姉が逝くこと。
今までは姉が居たからこそこの村で生きていけた。戦う意味があった。そうでなければとうの昔に独りに耐え切れず、殺されていたであろう。
だからこそ、ずっと守りたかったし今だって助けたい。しかしそのために鍛えた身体は役に立たない。意識が薄れていく。魂が砕けていく。もう時間がない。でも何も出来ない。
見ているだけしか出来ない。既にあれは姉ではなく、唯の肉の塊なのかもしれない。涙は枯れ果て、濁った眼球はついに姉を見ることすら禁止した。
祈る。短い生の中で初めて何かに祈った。誰でもいい、何でもいい、自分はどうでもいい。
唯、姉を助けて欲しい。
「……お願……い」
そして祈りは届いた。不意に、頭の中に直接声が響く。
──問います。魂を捧げますか?
優しい声。少年は記憶の彼方に微かに残る母親の声を思い出していた。
──あなたの願いを得るには、あなたの魂が必要です。その覚悟はございますか?
魂に響く声は、優しく救いの選択肢を投げかけてくる。
渇望した願いに、躊躇いは微塵もなかった。魂如きでそれが得られるのなら安いものだ。何でもくれてやる!
──得るために失う覚悟を確認しました。
瓦礫に押しつぶされ、半ば炭化した姉の身体が輝きを放った。光が消えた後には、こげ茶色の髪の少女が無傷で横たわっていた。彼女の周りの瓦礫は吹き飛び、炎は遥か彼方に追いやられた。
そして、雨が降り始める。灼熱の大地は立ち上る水蒸気と共に熱を放出し、急速に冷えていく。
──契約はなされました。
少年の上に、黒い穴が現れた。空中に突如現れた穴は、少年の身体からゆっくりと何かを吸い出し始めた。白く輝く細かい粒子が螺旋を描きながら穴の中へと昇っていく。同時に、少年の身体から命の温もりが失われていく。
少年の右腕から立ち上る粒子だけは、穴へは向かわずに少女の身体に吸い込まれていった。粒子を燃料に少女の消えかかった命に火が灯り、燃べられた魂の欠片がその火を大きくしていく。
粒子と共に少年の意識も肉体を離れ、黒い穴へと向かって上昇していく。見下ろすと無傷の姉の胸元が上下しているのが見えた。
息をしている。動いている。生きている。
──願いの対価を。
姉が無事であった、それだけで嬉しかった。この先どうなるかはわからないし、行く末を見守れないのは不安だったが、もう彼には時間が無かった。意識が薄れていく。
──では、行きましょう。
どうか、元気で。出来たら幸せに。
そう願い、少年の意識はぶっつりと途切れ、少年だった物体は炎に巻かれて消滅した。
少女の瞼がゆっくりと開かれ、消えて行く少年に気づいた。意識を取り戻したばかりの彼女の目の前で、弟の身体が燃え尽きていく。身体がうまく動かない。たった一人の肉親がいなくなるのをただ黙って見ているしか出来ない。
「……う、あ、あ……」
声にならない呻き声と、涙しか出なかった。動かない身体が恨めしい。何も出来ない無力感に押しつぶされそうになったその時、不意に声が聞こえる。
≪力がほしいか?≫
いつの間にか、目の前に一匹の赤毛の猫が座っていた。少女の瞳の奥を射抜くように、じっと見つめている。
≪捉え、追い、切り裂く力≫
禍々しい気配を纏った声が響いた。縋ってはいけないと心の奥で警鐘が鳴っている。
≪復讐する力≫
その力があれば、報いを受けさせることが出来るのだろうか。この村を襲い、二人ぼっちの片割れを永遠に連れ去った相手に、裁きを叩きつけることが出来るのだろうか。
赤毛の猫が、前足を差し出した。
≪汝、力を欲するならば、我が手を掴め≫
躊躇う事など出来なかった。ようやく動くようになった右手で、赤毛の猫の前足を掴んだ。
≪我が目、我が足、我が剣を授けよう≫
赤毛の猫の目が鋭く細められた。まるで嗤うように、弄るように。
少女はそれを見ても動じない。どんな犠牲を払っても、どんな痛みを受けてでも、力を得るためならどうということはない。もう、失うものなどないのだから。
いつの間にか赤毛の猫は消えていた。
右目が痛い。右足が痛い。右手が痛い。その痛みを押さえ込み、少女は立ち上がった。
「必ず見つける。そして……」
少女は歩き出した。壊滅した村を抜けて、深き森の中へと。
少年の願いで救われた魂が、少女の怨嗟を煽る者の歪みを受けて穢れてゆく。
そして、燃え朽ちる村だけがそこに残った。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。