第11話 報酬
目の前で、年を経た老森人が上半身を起こしている。それをアスガルが支え、ゆっくりと法生の渡した火護薬を飲み下した。
「おぉ、これは……!」
老森人の半ば死を受け入れた瞳に生気が宿る。全身を蝕んでいた冷気と痺れはゆっくりと融けて行き、胸の奥に暖かな火が灯る。久しく動かなかった腕を上げ、指を動かした。病に冒されていたのが嘘のように、滑らかに動く。
「長老、落ちた体力が戻ったわけではありません。まだ暫くは安静にしておかなくては」
そのまま起き上がりそうな勢いを制し、アスガルは長老を寝台に寝かせた。
病による消耗には治癒薬は効き目がない。なぜなら治癒薬は肉体的な疲労の回復と治癒力促進、増血効果だが、病で削られるものは少し意味合いが違うからだ。
運動や怪我等での疲労をバケツの水の増減とすると、病による疲弊はバケツの容量自体を減らすということ。このバケツの容量がある一線を越えると危篤状態となり、バケツが割れたときが死と同義となる。
あくまで心象であり、実際に一定の危篤線があるわけではない。
「すまんな。あまりの効き目に年甲斐も無くはしゃいでしまった」
大人しく横になると、首を動かしてベッド脇の椅子に座る法生に視線を向ける。
「ローレス殿と申したな。疑ってしまい申し訳なかった。貴方は我等の救い手だ。人族の薬師に感謝を」
このような姿勢で申し訳ない、と言いつつ頭を下げた。寝台の向こう側でアスガルも胸に右手を当てて頭を下げている。
「いえ、僕は僕なりの理由があってこの地に薬を持ってきただけです。問題がないのでしたら、皆さんにも服用していただきましょう」
事情が事情だ。突然現れて薬を提供する等言われれば疑って当然。
アスガルと共に病で倒れ、動けない長老の下へ訪問した法生は、門の前で話したことをもう一度説明した。それを訊いた長老は、やはりアスガル同様手放しでは信用できないと言い、まずは自分がその薬の効果を確かめると言い出した。
アスガルが止めるのも聞かず、最年長の義務であると頑として譲らず、彼は仕方なく折れた。
結果、法生は長老の信頼を得た。後は集落の全員にこの薬を飲ませ、この病を根絶すればこの時代でするべきことは終わる。
「願ってもないことだ。ローレス殿には感謝してもし足りない」
「お気になさらず。それよりまずは進行度が重い方から行きましょう」
長老の下を辞するとアスガルの案内で何軒かの小屋を訪ねた。諦めたような目をした森人が横になっており、法生たちが入ってきても天井の一点を見つめたまま微動だにしなかった。
その一人ひとりの側へ行くと、アスガルは丁寧に説明した。僅かに動く口を開け、そこに法生は火護薬をゆっくりと流し込んだ。一瓶飲み下すと、効果は劇的に出た。皆一様に上半身を跳ね上げ、腕を回し手を開閉し、喜び、涙を流した。
ある程度以上の重篤な患者の治療が終わったところで、まだ辛うじて動ける程度の者から多少の痺れと悪寒を感じるものまで、症状の多少に関わらず片っ端から薬を配って回った。
途中何度か消耗で倒れそうになったが、精神的疲労の回復と精神汚染の回復促進、催眠覚醒効果のある回精薬を複製して自分で飲んだ。飲みながらこれは一種の無限機関なのではないかと気付いたが、今はそんなことを考えている場合ではないと頭の隅に追いやっていた。
最後に症状が出ていない一部の者たちにも予防として服用してもらった。看病に疲れた者たちには治癒薬を渡し、精神的に参っている者には回精薬を合わせて渡した。
「病の治療だけでなく、予防に看病疲れの回復まで……。俺たち一族はお前に返しきれない恩を受けてしまった。我らは何を差し出せばいい? 何かできることはないか?」
丸一日掛けて集落の全員に薬を配り終えた法生に、アスガルは尋ねた。もう自分たちが何を持って感謝を表したらいいか判らなくなったのだ。
それに対し、法生は何も要らない、と告げる。
「それよりも、人手が足りなくて食料が足りないと言っていたでしょう? 携行食や保存食でよければこちらも持って行って下さい」
アスガルの目を盗んで治療の間に少しずつ複製しておいた携行食や保存食の入った麻袋を差し出す。おそらく集落の全員が四~五日は食いつないでいけるくらいはあるはずだ。まぁ保存食は不味いが、栄養面では優れているので我慢してもらおう。
「こんなことまでしてもらうわけにはいかない、と言いたい所だが、正直強がるだけの備蓄もない。重ね重ね申し訳ないが、有り難く使わせていただく」
恐縮しすぎて小さくなったアスガルが、それでも食料の詰まった麻袋を受け取る。
「今は無用な矜持も意地も捨ててください。皆さんが健康を取り戻すこと、僕への報酬はそれだけで十分です」
この集落が病を克服することこそが今回の目的なのだ。別に何らかの見返りを求めているわけではない。そもそも法生が薬や食料を用意した訳でもないのだ。
だが、アスガルたち森人からすればそんなことは関係ない。近いうちにこの集落は全滅していただろうし、万が一に病が回復したとしても全員を養う食料が無い。
この辺りは何故か一年を通してあまり気温が上がらず、かなり遠出をしないと果実や木の実、薬草等の生活に必須の物が手に入らない。幸い獣や川魚等は必要量を満たしていたが、それも多くの人手を使ってやっとと言った所だった。手が足りない時期が続けば僅かな備蓄が底を尽くのは自明だったのだ。
「それを、ローレス殿は全て解決してくれた。あなたが良くても我々は良くない。恩を返さずにぬくぬくと生きてはいけない」
そう言われても、法生は何も思いつかない。
「んー、そうですね。今後ここを訪れる誰かに良くして上げてください」
この恩のお礼は自分ではなく、次に来る誰かの為に。無論こんな時代だ、無条件で受け入れろという訳ではない。
ただ、困っている人、助けが必要だと思う者たちに、僅かでも助力をしてあげて欲しい。種族、性別を問わず、偏見や差別をせずに。
難しい話しだし、時には危険を伴うこともあるだろう。だから絶対ではなくてもいい。自分たちの身を第一に考えた上で出来る事ならば、でかまわない。
だから、法生は『情けは人の為ならず 巡り巡って己が為』と続けた。
そうやって周りを気にかけ、少しずつでも手を差し伸べることで、いずれこの集落にとっても良いことがある。それはいずれ種族の差を越えて人族の自分に還ってくることだろうと答えた。
内心でも思う。本来の目的は違うとは言え、この森人たちに手を差し伸べる形になっている。その報酬を自分とこの集落だけで完結させるのではなく、ここから森人とその他の種族が少しでも仲良くなるきっかけになればいい。そうすれば最終的にはこの時代からずっと先に生きることになる自分自身が生きやすい世界に繋がるのではないか、と思うのだ。
「あなたと言う人は……」
この時代、そんな考えをする者など皆無だ。少なくとも圧倒的脅威の存在に怯え、細々と隠れ住むしかない今、自分の所属する集団以外を考える余裕等ない。法生がこうして薬を持ってここまでやってこられたこと自体が奇跡に近いのだ。実態は別として、アスガルはそう思っている。
そんな困難を乗り越えて辿り着いた先でこれだけのことをしておいて、何も受け取らず何も要求せず、森人の行く末と縁も所縁もないであろう他人の為にその恩を使えと言う。
一体どんな聖人か。本当は人族ではないのではないか。神の使いか何かが救いを齎しに光臨したのではないのか。
微妙に正解を引き当てながら、アスガルは勘違いでぎゅんぎゅん法生を神聖化していく。
「我が身命にかけて、あなたの望む未来を」
跪き両手を胸に当てると深く頭を垂れる。それは森人が人族に対して決してしたことはないであろう最上級の礼である。四肢を封じ項を無防備に晒す、生殺与奪を委ねる最大級の信頼の証。
それを受ける法生はまったく解っていないが。
「ローレス様、お疲れでしょう。粗末ではありますが休憩所を用意させていただきました」
アスガルの下に年若い森人の少女が駆け寄り、小声で何事か告げ、それを受けて彼は法生を誘導した。辿り着いた小屋の中は、ふわりと甘い香りが漂っていた。
「ご存知のように、今の我々にはあまり余裕がございません。花の花弁を乾燥させた物で淹れた花茶と、木の実を磨り潰した粉と果実汁で作った焼き菓子です。お口に合うかは判りませんが」
アスガルがつらつらと解説しているが法生はもうほとんど耳に入っていない。実はこの男、結構甘党である。神域では塩っ辛いのやら苦いのやら強烈なものばかり口にしていたし、辛うじて甘味と呼べるものは干し果物くらい。目の前の甘い匂いを漂わせるお茶と焼き菓子を前に、目が釘付けである。
「……これ、食べていいの?」
もちろん、とアスガルが頷くや否や、焼き菓子の一枚を手に取り、口に運ぶ。
甘い。果実の甘みだけではなく、透き通った花の蜜の香りを感じる。
「これは、蜂蜜を錬り込んであるのか?」
「はい、良くお分かりで」
蜜蜂もそれが集める蜜を出す花もこの辺りでは少ないため、中々手に入らない貴重な蜂蜜を果実の汁と一緒に練り上げた一品である。この集落では最上級のもてなしの品である。
次いで花茶に口をつける。少し苦味を孕んだ上品な優しい甘み。鼻孔をくすぐる花の香りがまた堪らない。
前述の通りこの辺りには蜜を出す花が少ない。無論花弁を一定量集めて乾燥させなければ出来ないこの花茶、非常に貴重である。やはり滅多なことでは出さない最高の一品である。
「ああ、僕はもうこれで十分だ……幸せ」
なんかさっきまで必死で高尚なことを言おうとしてた気がするが、もう報酬これでいいです。甘美味い。素晴らしい。
「気に入っていただけたようで、なによりです」
そんな至福の時は長くは続かない。突如甲高い鐘の音が響き、武装した森人の青年が駆け込んできた。
「何事だ!」
息を切らせて飛び込んできた青年に、アスガルは詰め寄る。至高の人を前にみっともない。
「襲撃です! 小鬼の群れ、およそ二百!」
小鬼とは言え、数が多すぎる。篭城して戦うにしても壁も矢も持つかははなはだ疑問だ。
「一体何処から……」
「守護者の洞の方角からです!」
供物を捧げ、この辺りの守護を祈願していた洞窟だ。力有るものが住む地だったのだが、何があったのかはわからないが、守護は期待できないようだ。
「ローレス様、申し訳ありませんが私は小鬼の迎撃に向かいます。いざとなれば誰か寄越しますので、それまでここでお待ちください」
法生を置いて出て行こうとするアスガルを引きとめ、法生は尋ねる。
「僕も行くよ。戦う力はないけれど、怪我をした人を治すことはできるからね」
「安全なところに隠れていてください、と言っても聞いて下さらないのでしょうね。わかりました。くれぐれもお気をつけて」
アスガルと共に走る。別れたライシールドたちが無事かが心配だったが、今は集落を守ることに集中しなくては。
前方が大分騒がしい。既に戦闘は始まっているようだ。法生は自分に出来ることを出来るだけ頑張ろうと拳に力を込めるのだった。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。