第126話 虚ろなる襲撃者(Side:Lawless)
「冒険者の乗る馬車ってのはすげぇんだな……」
馬車の中に連れ込まれたスズリの最初の一言はそれだった。確かに一般的な馬車には空間拡張もなければ家具類が設置されている訳もない。ましてやそれらのいくつかは魔道具だというのだから、驚くのも無理はないだろう。
「冒険者の標準装備って訳でもないんだけどね。僕らはたまたま運良く譲って貰えたってだけで」
この馬車は階級七の冒険者が持つような物ではない。冒険者全体に変な誤解を持つ前に訂正しておく必要があるだろう。
「そっか。最近はこの位普通なのかと思って吃驚したよ。まあ、俺は前の時は荷物として積まれてただけだから、馬車の基準なんてよく判らないけど」
簡易厨房や冷暖房を物珍しげに見回しながら、スズリは椅子に腰を下ろす。荷物として積まれた、という言葉に聞き返すべきか悩んだが、今のスズリの立ち位置を考えるとあまり面白い話にはならないだろうとあえて聞き流した。
「少し寝ても良いか?」
椅子の背に体重を預け、スズリは身体の力を抜いて訊ねた。よく見ると若干顔色が悪いように見える。車外では元気そうに振る舞っていたが、軽微な症状とは言えスズリは石化病に冒されている。早朝と言うこともあって気分が優れないのかもしれない。先日のローレスの対応から察していたようだし、置いていかれないように無理をしていたのかもしれない。
「勿論。僕も少し休むし、森に着いたら大変になるんだしね。到着したら起こしてあげるよ」
「悪いね。じゃあおやすみ」
スズリは椅子に腰かけたまま目を瞑った。しっかりしているように見えてもまだ子供だ。早朝という時間に眠気が抜けきっていなかったのかもしれない。
「寝るならそっちのソファで横になりなよ」
その様子を見て完全に寝てしまう前にと、ローレスはスズリの肩に手を掛けて移動を促そうとして眉を顰めた。
「スズリ? ちょっとごめんね」
断りを入れて、スズリの額に手を当てる。反対側の手を自分の額に当て、互いの体温の差に目を見開いた。
「すごい熱じゃないか! 一旦戻って医者か神術の使える受託者の所へ……」
御者台のアイオラ達に声を掛けようと振り返ったローレスの手を掴み、スズリが荒い息を吐きながら引き留める。
「駄目だ。診て貰う金なんて無いのくらい解るだろ」
「そんなの気にするな」
ローレスは診察料くらい出しても構わないと告げるが、スズリは首を振って弱く笑った。
「その気持ちはありがたいけど、そこまでしてもらえないよ。ローレスは石化病の症状を知ってる?」
「ううん、肌が石みたいになるってことくらいしか知らない」
「そっか」
スズリはローレスに手助けしてもらってソファに横になると、不調を隠すのを止めたのか怠そうな表情で溜息を吐いた。
「時々身体が熱くなるんだけど、暫く大人しく寝てれば直ぐに下がるから。それに町に戻ってる時間が勿体無いよ」
「……解ったよ。でも、せめてこれを飲んで」
薬瓶を差し出す。中には薄い茶色の液体が入っている。ローレスが自作した解熱薬だ。スズリは今度は断ることなく受け取ると、半身を起こして中身を飲み干す。
「うぇ、にが」
「ちょっと眠くなる成分も入ってるから、無理せず寝ててね」
空になった薬瓶を受け取ると、ローレスは毛布を取ろうとスズリに背を向けた。
「……ありがとうな」
小さな感謝の言葉に振り返ると、既にスズリは静かに眠りに落ちていた。スズリに毛布を掛けるとローレスも椅子に座り、暫しの休憩と目を閉じるのだった。
「ローレス君、そろそろ到着だよ」
御者台に繋がる小窓から声が掛かった。ソファを見るとスズリは既に起きていたようで横になったままぼーっと天井を眺めている。
「スズリ、体調はどう?」
「……うん、大丈夫。熱も下がったみたいだ」
言いながらソファから降り、大きく伸びをする。
「そっか、良かった。そろそろ着くみたいだよ」
窓を開ける。顔を出して進行方向を見ると想像より大きな森が広がっていた。
ローレスが顔を出したことに気付いたテーナが御者台の方から声を掛けてくる。
「おはよう、ローレス君。道中は馬車の魔物避けの結界のお陰で静かなものでしたよ」
「そうですか。それはよかった」
「念のために術式の準備もしてたんだけど、必要なかったわね」
「アイオラさんもお疲れさまでした」
街道から外れて支道を進む必要があるため、街道の魔物避け結界の恩恵が受けられなくなる。普通の馬車なら森までの移動中に魔物に襲われる可能性は低くはなかっただろう。ヴァナから譲り受けたこの馬車の性能あっての安全な行程という訳だ。
テーナは森から多少離れた場所に立つ木々の側に馬車を停める。町から半日の距離ではあるが、これから薬草の採取をすることを考えると日帰りという訳にもいかない。どのくらい時間が掛かるのかすら判らないので今日はここで野営する予定だ。明日以降は採取の状況次第でもう一日必要かどうかの判断をすることになる。
「それじゃあ、行ってくるよ」
設営と馬車の管理をアイオラとテーナに任せて、ローレスは早々に森へ向かうことにした。
いつもの空間拡張の背負い鞄は持たず、腰巻鞄に最低限の道具を納め、採取した薬草を入れる為の革袋を吊り下げると弓と矢筒を背中に担ぎ、この場に残る二人に出立を告げた。
設営の準備をしていたアイオラはその手を止めて駆け寄ると、ローレスの手を握った。
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
安全を願い、両手でローレスの手を包み込んだ。ローレスはその手を握り返し「はい、ありがとうございます。アイオラさん達も気を付けてください」と笑顔を返した。
「はいはーい。スズリさんが呆れてますよー」
テーナが馬達に水をやりながら、ローレス達を見ることもなく投げ遣りに突っ込みを入れた。スズリはと言うと「置いてくぞー」と放置の構えで森へと歩き出していた。
「あ、待ってよスズリ!」
慌ててアイオラの手を離し「行ってきます!」とスズリの後を追った。その背中に笑顔で手を振って、二人が森に消えるのをアイオラは見送った。
「邪魔しちゃってごめんね」
「何言ってるんですか。私こそ場を弁えずに申し訳ありません」
ローレス達の姿が見えなくなってからも暫くの間、アイオラは名残惜しそうに森を眺めていた。馬の世話を終えたテーナに声を掛けられて、ようやく視線を森から引き剥がす。
「夕方には戻ると言っていましたし、迎える準備をしておきましょうか」
「そうだね。アイオラさんはわたし達のお昼の準備と夕食の下準備をお願いします。わたしは荷物の整理と周囲の見回りに行ってきます」
それぞれに役割を分担し、行動を開始する。とは言え小聖鏡は中天までまだ遠い。ローレス達が戻るのはまだ大分先の話だ。
スズリは迷うことなく森を進んで行く。既にまともな道はなく、獣道を辿るように歩いていく。
「スズリ? この先に本当に薬草があるの?」
もう随分と奥深くまで分け入っている。確かに口で伝えられてもこの道を辿ることは不可能だっただろう。スズリが自ら採取に行くことに拘ったのはそう言うことだったのかと納得しかけて、その自らの考えに違和感を覚える。
その違和感の正体が判らず、スズリの後を追いながら首を捻る。
「ああ、この森は俺の庭だからね」
「……うん? スズリは薬師に教えてもらって石化病の薬の材料になる薬草がこの時期までこの森に残っているって知ったんだったよね?」
「そうだよ」
スズリは振り返ることなく道とも呼べない獣道を進む。言葉の通りこの森を熟知しているかのような振る舞いにローレスの疑心が膨らんでいく。先程引っ掛かった事柄が何であるか判った。
口伝いに教わっても辿れそうもない道筋を、薬師に言葉で伝えられただけでは、こうも確信をもって進めるような行程ではない。
少なくともスズリはこの森に来たことがある。迷い無い足取りを見るに、この森に相当詳しいと見て間違いないだろう。
問題は何故それをローレス達に伝えなかったのか。そしてこれほど詳しい森を離れて、何故首都で貧民街の住人になっていたのか。
「スズリ、ちょっと待ってくれ!」
さすがに問い詰めないわけにはいかない。答えが返ってくるかは判らないが、それでも訊かないわけにはいかなかった。
「……なんだよ」
ローレスの強い口調に足を止める。振り返ったスズリに問いただそうとした所で周囲がおかしいことに気付いた。その異変が何時から始まっていたのかは判らない。小動物の気配が遠ざかり、枝が折れる音が鳴り、藪を引きちぎるような音がする。
「スズリ、何か来る」
火竜の弓を構え、矢を番える。弦を指先に引っ掻けるとゆっくりと引き絞りながら木々の隙間からその先を見据える。
ローレスがじっと見つめるその先で影が動いた。ゆっくりとした足取りで下草を踏み、時おり木々にぶつかりながらそれは近付いてくる。がさり、がさりと藪を押し分けながらやって来るのは虚ろな目をした男性。ゆらゆらと左右に揺れながらこちらに向かってくる。距離にして五十メル程、ローレスはこれほど接近されるまで気付けなかったことに驚き、視認した今でも感じる違和感の正体にようやく思い至った。
「気配がない? あれは……」
鏃の向こうにゆらゆらと揺れる空虚な瞳を見つめながら呟いた。答えを求めての言葉ではなかったが、思わぬ方向から返答がきた。
「屍体だよ。俺が帰ってきたから出してきたんじゃないかな」
ローレスの側に避難しながらスズリが囁く。色々と聞きたいことがある発言だが、お陰で腑に落ちた。生命活動がない死体に気配の類いがあるはずがないのだ。詳しい話は近付いてくる屍体をどうにかしてから。疑問を問うのは落ち着いてからで良い。
幸いな事に屍体の動きは鈍く、接近されるまあだ余裕がある。狙いを眉間に定め、鏃の火属性の刻印文字に精神力を注ぐ。
「無駄だよ。逃げよう」
ローレスの背後でスズリが彼のローブを引いた。それを引き金に指が離れ、狙い過たず彼の放った矢は屍体の眉間を射ち抜いた。矢の勢いに押されて頭部を仰け反らせ、屍体は仰向けに倒れた。起き上がる様子も見られず、そして動き出すこともなかった。
「大丈夫、やったよ」
念のためもう一本の矢を矢筒から取り出して番える。一体だけである保証はないのだ。気配察知に頼らず、耳を澄ませて周囲の物音を探る。
「駄目だよ」
スズリの否定の声に反応するかのように、がさりとまた音が鳴る。今度は前方ではなく右手側から。そちらに視線を向けると毛皮の剥げた狼の屍体がだらりと舌を出しながら近付いてくる。
問題はその数だ。一体や二体どころではない。今見えているだけでも十体以上。しかし藪の向こうから聞こえてくる音を考えると潜んでいる数は最低でも倍はいる。
「森中の死体を相手にすることになるよ」
屍体とは言えその身を動かすのは腐り落ちていない筋肉であるように見える。体の一部が腐り落ちたものは骨も外れており、骨自体が動くことがない以上、ある程度死体の鮮度が必要とされるのだろう。
そのため、人の形の屍体だけならばそれほど多く現れるということはなかっただろう。首都から程近いこの森で人が死ぬということはそれほど多くないのだから。
だが、今目の前に現れたのは狼の屍体。動物が森で息絶えるのは不自然ではなく、場合によっては死体が大量に残っていてもおかしくはない。魔物ではない動物は素材となる部位が限られている。狼なら牙と爪、状態次第では毛皮ぐらいだ。肉は食べられないことはないが、わざわざ町まで持ち帰るほどの物ではないので捨てていかれることが多い。屍体となって動き回るだけの筋繊維が残っているのは不思議ではない。
よく見れば完全な姿の屍体も多く見られる。何らかの病や毒で群れが死ぬこともあるだろうし、この屍体を生み出した存在が居るのなら、そいつが大量虐殺をして死体を作り出したということもありうる。
「それは……ゾッとしないね」
死体の鮮度の違いか、種族的な補正かは判らないが狼の屍体は先程の男の屍体より若干素早い。全力で走れば追い付かれることはないだろうが、生憎ローレス達は体力に限界のある命あるものだ。最も近くにいる一体の足を射って地面に縫い付ける。勢いよく転倒する狼の屍体は矢に縫い止められた前足が自重で折れる。倒れた先頭の一体が障害となって数体が巻き込まれて転倒する。
倒れた数体を避けたり乗り越えるたりして屍体どもの進行速度が落ちる。その隙に踵を返してスズリの手を取り、来た道を駆け戻る。
背後では屍体の立てる音がどんどんと増えていく。早々に障害となった屍体の山を越えたようで、スズリの手を引きながら走るローレスにじりじりと近付いてくる。
「後ろを振り替えるのが怖いな、これ」
見なくても判る大群の迫る音と饐えた臭いに背筋を寒くさせたローレスが独り言ちた。
このままでは追い付かれると判断したローレスは走りながら弓を仕舞い、手を引いたままでは不味いとスズリを左肩に担いで走っている。猟師としての修行で付いた筋肉と痩せて肉付きの悪いスズリの軽い体重のお陰で逃走速度は手を引いていたときより若干早まったくらいだ。
「そこを右だ!」
担がれたままのスズリが進行方向の右側を指差す。その指示の通りに右に延びる細い獣道に飛び込み、枝で肌を傷つけるのも構わず走り抜ける。
「三百メル先でまた右に獣道がある! その先の川は浅いから向こう岸まで渡ってくれ!」
「わ、判ったっ! けどっ! 体力がっ! やばいっ!」
鍛えているとは言え所詮は十歳の肉体。全力疾走で軽いとは言え人一人抱えて走っているのだ。体力の切れるのも早い。三百メルをこの速度を維持して駆け抜ける自信は正直に言って無い。せめて一呼吸分の余裕が欲しい。仏具【蓮華座】で体力回復の効果もある治癒薬を複製して飲み、その効果が発揮される数秒の余裕が。だが屍体どもがそれを許してくれるとは思えない。
酸素の足りない頭で考える。やつらを足止めするにはどうすれば良いのかを。どうやれば数秒の時間を稼げるのかを。
斬牙狼の時のように餌をばら蒔いて気を引くという手段は使えない。相手は屍体なのだから、食料など見向きもしないだろう。だが一つ思い付いたことがある。蠢く死体と敵対する時に投げつけるものの定番で思い付いたものは三つ。
一つは御札。霊験灼かなありがたい御札なんて持ってない。一つは聖灰。神仏に祝福された物品を焼いて砕いた灰も、聖者の亡骸を火葬した後に出た灰も持っていない。そして最後の一つ。
「これでも喰らえ!」
右手を背中に向け、仏具【蓮華座】を起動、大きく手を振って複製したものをばら蒔いた。びしゃびしゃと液体が撒き散らされ、周囲の草木を湿らせる。
狼の屍体が濡れた藪を突破しようとに顔を突っ込み、そのまま強い火で肉が焼けるような音を立てて灰色の煙となって溶け消えた。後続が次々突入し、同様の末路を辿る。
「いけた! 今のうちに……」
荒い息を吐きながら右手に治癒薬を複製し、一気に飲み干す。独特の甘苦い後味が消える頃、ローレスの体には活力が漲っていた。
「よし! 全力全開!」
数の暴力で巻き散らかされた液体の範囲を乗り越えてこようとする屍体の群れに駄目押しでもう一度撒き散らす。
ローレスが先程から撒いているのは神域で得た神気に満ちた聖水。魔物や異族等、常ならざるものに高い効果を発揮し、森羅万象に連なる者には効果の薄い自然に優しい範囲攻撃手段である。
再び盛大に溶け消える屍体どもの末路を確認することなく走り出す。三百メルを駆け抜け、右の獣道に飛び込む。獣が踏み固めた道を辿りながら左に緩やかに進んだ先、再び息切れし始めたところでさらさらと流れる小川の縁にぶち当たった。
五メル程度の浅い小川に飛び込み、盛大に水飛沫を上げながら対岸まで駆け抜ける。ちらりと背後を見れば川縁にずらりと屍体の群れが並び、虚ろな視線をローレス達に向けていた。
「あいつらは川を越えられない。暫くは追ってこないだろうけど、いずれどこからか川を越えて来るだろ」
ローレスの肩から降りたスズリはそう言うと再び藪を掻き分け始めた。その後をローレスは追いかける。
「ローレス、多分色々聞きたいことはあると思うけど、もうちょっと待ってくれるか? 時間がないっていうのは本当なんだ」
目的地に着いたらきちんと説明する。そう言われてしまっては問い詰めるわけにもいかない。
「解った」
「悪いな」
藪の中に潜り込む寸前、ローレスはもう一度対岸に目を向けた。無数の虚ろな瞳はただじっと彼を見つめ返してきている。動くことなく、じっと。
「ほら、でかい木が見えるだろ? あそこが目的地だ」
川を越えた後、獣道を登って暫く進むと高さ五メル程の低い崖の上に出た。見下ろすと崖下はなだらかな下りになっており、スズリの指差す先には二十メル以上はある巨木が聳えていた。
巨木を中心に広がる森の木々は高いもので十メル程、平均して五~八メル程といった具合で、その巨木は頭一つ飛び抜けていてよく目立つ。
ここから巨木まで直線で二百メル程だろうか。どうやらこの崖上が森で一番高い場所のようで、巨木の先も暫く森が続き、一キルメ程先で木々は途切れて草原になっているようだ。
「右に進めば崖下に降りられる。後はまっすぐ突っ切ればすぐだ」
小走りに崖沿いを進むスズリの後を追いかけ、崖下まで降りる。目的地まで後僅かという事で気が緩んだか、スズリは前を歩きながら話し始めた。
「先に言っておくけど、俺は嘘はついていない。石化病が貧民街に蔓延しているのも、何人か末期なのも確かだ」
だから薬草を持って帰って、出来たら貧民街の患者達に薬を配って欲しい。スズリそうローレスに頼んだ。
「スズリ、君が薬草を持って帰ってみんなを助ければ良いじゃないか。薬の調合は僕が手伝っても良いけど、配るのは君の役目だろ?」
「うん。あそこの人たちには色々世話になったからね。出来る事なら助けてあげたいんだ。だから頼むよ」
スズリの前方、木々の間に太い幹が見える。木の間をすり抜けるようにして巨木に近づくと、ぽつりと呟く。
「俺はもう帰れないからさ」
「え? それはどういう意味……」
聞き返すローレスの言葉を無視して屈み込むと、背の低い下草を丁寧に引き抜く。根ごと引き抜かれたそれをスズリはローレスに差し出した。
「これが石化病の薬に使う薬草だろ? この木の周りは廃熱で少し暖かいから冬でも辛うじて枯れずに残ってるんだよ」
言われてみれば若干暖かい気がする。周囲を見回してみると、冬にはなかなか見ることの出来ない野草がちらほら自生している。
「俺は開く準備をするから、薬草の採取を頼むよ」
どうやらローレスの問いに答えるつもりはないらしい。まずは出来ることから片付けようとローレスは目につく薬草を引き抜き、腰の革袋に仕舞っていく。
「取り合えず十株、一株十人として百人分の素材があれば取り敢えずは足りるかな」
足りなければ仏具【蓮華座】で複製すれば良い。薬の調合もそれほど複雑な手順ではなかった。最悪一つでも完成すれば良いし、流石に百回全滅などという惨事になることはなかろう。
「スズリ、こっちは終わったけど」
「こっちはもう少し」
巨木の幹に両手を当て、じっと目を閉じている。
「スズリ、何をしてるの?」
「開く準備をするって言ったろ。大分長くほったらかしだったから繋がるのに時間が掛かるんだよ」
何を言っているのか今一解らない。繋ぐとか開くとか、単語の意味は判るけれど何の事を指しているのかが理解できない。
「もっと解る言葉で喋ってくれないかな」
「後十五分待ってくれ。直ぐに解るから」
それだけ言うと再び意識を巨木に集中させたようで、何を問うても返事が返ってこなくなった。
「……採取でもしてるかな」
ただ黙ってスズリを見ているのも何なので、ローレスは辺りに生えている調薬に使える野草や薬草の類いを採取しようと屈み込んだ。
がさり。
頭上で何かが葉を揺らす音が鳴った。ローレスは何か小動物でも居るのかと見上げかけて、樹上に生き物の気配がないことに気づいた。
火竜の弓を手に取り、矢を矢筒から引き抜く。
「スズリ、不味いよ。追い付かれた」
スズリの返事はない。本気で全力を接続とやらに注ぎ込んでいるらしく、樹上の音どころか、ローレスの警告すら聞こえていないようだ。
「さっきの話だと後十分くらいか? ええい、やるしかないか!」
見上げた先、葉と枝の間を小さな影が通りすぎる。すかさず放たれたローレスの矢がそれを射ち抜き、矢と共に落下してくる。
それは掌に乗るほどの小さな栗鼠の屍体だった。ガサガサと樹上が揺れる。
「……マジか」
冷や汗がローレスの額を流れる。見上げた先には無数の小さな虚ろな瞳が彼とスズリを見下ろしていた。
スズリを背中に隠し、ローレスは頭上に矢を放ち続けていた。周囲には数えるのも馬鹿らしいほどの夥しい数の屍体の山が築かれていた。
栗鼠だけではなく鼬や猿、蛇等の姿も見える。質より量とばかりに雨あられと降り注ぎ襲い来る屍体どもを速射でどうにか片付けていく。
それだけの数が襲い掛かって来れば、当然射ち漏らしも発生する。無防備なスズリを優先して護っているのでローレスのローブは既にボロボロだ。避けきれずに小さな傷も幾つか出来ている。
ローレスとスズリの足元は聖水で濡れていて、地上に降りた屍体どもは迂闊に近づいてはこられない。数で押しきられないよう、ローレスは矢を射ちながら聖水を複製し続けている。射ち漏らし、地上に降りた屍体どもは聖水の撒き散らされた範囲の外側でじっと虚ろな視線を向けてローレス達を包囲している。
「もうそろそろ! 十五分経ったと思うんだけど!」
右手を掲げ、大量に聖水を複製する。腕を振り回して樹上の枝や葉を濡らして即席の防壁を作る。
「廃棄物処理!」
連続で自然魔術を発動、聖水の範囲の外側に穴を作り出す。足元の地面が消失しても避けようともせず屍体どもは落下していく。穴に聖水を注ぎ込み、聖水で満たされた穴の中では浄化され溶け消える屍体どもが灰色の煙となって天へと昇っていく。
「あー、これが入り口だったんだにゃー」
屍体の壁の向こうから、女性の声が聞こえた。甘ったるい鼻に掛かったような声音に狙ったかのような語尾。
屍体の壁が割れる。押されて何体かが穴に落ち、盛大に煙が吹き上がる。
「随分と遅いご帰還にゃ。休眠も限界にゃったし、待ち草臥れて屍体の大行進を始めるところだったにゃ」
小柄な少女が屍体の間から姿を見せる。長い黒髪に黒目は縦に長い瞳孔の周りは白目ではなく虹彩がそのほとんどを占めている。いわゆる猫の目だ。頭の上には三角の猫の耳が存在を主張している。猫種の獣人に見えなくもない特徴をしているが、強い違和感を覚える部位が二ヶ所ある。
まず一つ目はその手足。獣人の手足は人族と大差ない大きさをしている。毛の濃さや爪の大きさなど、細かい差異はあれど大枠では似通っている。だが目の前の猫耳少女は顔を覆うほどの大きさの手とそれに比例した足を持ち、その爪は短剣のように太く鋭い。
そして二つ目。獣人は体の一部が獣のような特徴を持つだけで全体の作りは人族に似ている。この少女は逆に猫が二足歩行をしているような、より獣に近い風貌を持っている。
「見た感じ、君が邪魔みたいだにゃあ」
困ったように頬を掻き、目を細める。猫耳少女の雰囲気が変わる。背筋に氷を差し込まれたような悪寒を感じ、何か来ると感じたローレスは弓を背中の弓入れに突っ込むと腕を交差させて防御の体勢を取る。
「死んどこうか」
「──よ!」
猫耳少女とローレスの声が重なる。猫耳少女がローレスの作り出した穴を飛び越えて襲い掛かる。聖水で濡れた地面に触れることなく猫耳少女はローレスの眼前まで迫り、守勢に回る彼の腕を鋭い爪で凪ぎ払う。
その一撃で運動量の全てを押し付けられ、ローレスは弾き飛ばされる。
ローレスの立っていた場所に着地した猫耳少女は聖水に足裏を焼かれて顔を顰めると、再び地を蹴って元の位置に帰った。
「痛いにゃあ。まぁそっちは痛いじゃすまないと思うけどにゃ」
聖水で焼けた左足をぷらぷらさせながら舌舐めずりをする猫耳少女。事ここに至ってもまだ手を突いたまま微動だにしないスズリとその足元で俯せで倒れ、ピクリとも動かないローレス。
「さて、今回は確実に潰させてもらうにゃ」
障害は取り除いたと確信し、猫耳少女は再び足に力を込める。しなやかな筋肉にはち切れんばかりの力が籠る。その力を解放して飛び出そうとした瞬間、巨木の幹に人一人が通れるかどうかといった程度の穴が開いた。
「開いた!」
「もう遅いにゃ!」
猫耳少女の足が大地を掴み、引き絞られた弓から矢が射出されるように一直線にスズリに飛び掛かる。
固い何かを引っ掻くような音が響く。猫耳少女の爪は確かにスズリを捕らえていた。しかし切り裂かれたスズリの衣服の下から血が溢れることはなく、地肌の代わりに覗くのは爪の痕が刻まれた岩の肌。
「遮蔽幕!」
猫耳少女の目の前に真っ黒な壁が出現する。その向こうで「飛び込め!」と叫び声が上がった。
「逃がさないにゃ!」
目の前の未知の壁に臆することなく飛び込み、スズリが居たであろう場所を凪ぎ払う。しかし手応えはない。そのまま闇雲に爪を振るい、足裏が聖水で焼けるのも構わずに濡れた幹に蹴りを放つ。
数秒の後、遮蔽幕が消えた。そこには傷一つない巨木があるだけで、スズリどころか猫耳少女の爪の攻撃で再起不能なはずのローレスの姿すら消えていたのだった。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
次回は02/20に投稿予定ですが、状況次第では19日に投稿するかもしれません。