第120話 治癒と裏切り(Side:Rayshield)
ライシールドの目の前で豪奢な寝台に女性のようなものが横たわっている。
ようなものと言わざるを得ないのは、その大部分を白い包帯で隠されているためだ。辛うじて右目と口許が見えているが、掛けられた薄い毛布の盛り上がった形はとても人のものとは思えない形状をしていた。
室内に響くのは暖炉の薪が爆ぜる音と見た目に反して落ち着いた寝息、部屋の隅で椅子に座って待機しながら事務作業をする執事が書類を捲る音だけ。
──ライ、この人起きてるよ。
目を閉じて静かに呼吸しているから寝ていると思っていたが、どうやら違うらしい。枕元まで寄ると執事に気取られぬよう耳元で囁く。
「貴女がビアンカ子爵で間違いないか?」
当の子爵からしたらどこからともなく聞こえてきたとしか表現のしようもない少年の声に目を見開く。
「動かなくていい。声も出さないでいい。はいは一回、いいえは二回瞬きしてくれ。俺はゲイルの使いだ。貴女を治す薬を届けに来た。ここまではいいか?」
ビクトリアの髪のような綺麗な金の瞳から発せられる視線が声の主を探して空中をさ迷い、どうやっても見つけられないと諦めたのか真っ直ぐ天井を見てゆっくり一回瞬きした。
「今、屋敷の入り口でゲイルがカリスに捕まっている。ゲイルが貴女を薬殺するために偽の治療薬を持って帰ってきたと疑っているようだ。俺の仲間も巻き添えを食らっている。ここまでは理解したか?」
瞬き一回。
「貴女の娘、ビクトリアも一緒だが、今は馬車の中で隠れている。聞いているとは思うが、本物の方だ。カリスはゲイルの説得に応じることはないだろう。そこで俺がここに来た訳だ。貴女を治す薬を持ってな」
銀の腕輪から治癒薬を取り出すとビアンカの顔の横に置く。ライシールドの手を離れて腕の能力から外れた薬瓶が彼女の顔の横に突如現れる。
「さて、俺の言葉を信じて薬を飲むか、もしくは信じず声を出すか。どちらか選んでくれ。信じるなら口を開け。信じないなら好きにしろ」
無論信じないというのならゲイル達を捨てて仲間とこの町を脱出する。ライシールド達だけならなんとでもなる。
暫く悩んだ後、信じると決めたようだ。ビアンカは小さく口を開けると目を閉じた。
「治ったら貴女の息子を説得してくれよ」
そう言いながらライシールドは治癒薬の封を切り、ゆっくりと彼女の口に流し込む。喉の動きに合わせてゆっくりと。
空になった瓶を銀の腕輪に片付けると寝台から一歩下がる。
その変化は静かに始まり、静かに終わった。
「セリス、侍女を呼びなさい。着替えるわ」
薄手の毛布を体に巻き付けた金髪の女性が寝台から降りながら、書類に目を落とすセリスに声を掛けた。
とても四十を越えているとは思えない張りのある肌が包帯の間から覗いている。長く失われていた四肢を存分に伸ばし、大きく息を吸うと晴れやかな笑顔で立ち上がった。
「ビ、ビアンカ様!?」
「驚くのも事情の説明も後にしてちょうだい。まずは着替えを。その後は屋敷の外の騒動を止めるわよ」
これ以上ないほど大きく口を開けて驚くセリスに指示を出し、ビアンカはぐるりと室内を見回した。
「姿は見せてもらえないのかしら。お礼も言えないじゃない」
「俺は先に戻っている。そういうのはまた後だ」
そう言うと窓が突然開く。黒髪の少年の後ろ姿が突如現れ、次の瞬間彼は飛び降りた。
ビアンカが窓に寄って下を見ると、既に少年の姿は影すらもなかった。
「ふふ、面白い子」
口許に笑みを浮かべ、ビアンカは開きっぱなしの窓を閉じた。
場所は変わって屋敷の前は阿鼻叫喚の地獄絵図となっていた。馬車の左右には絶妙に行動不能に落とされた兵士達が転がり、馬車の後方では身体の一部を氷付けにされた兵士達が寒さと恐怖でガタガタと震えていた。
馬車の正面では風の壁に絡め取られ、立ち上がろうとすれば足を掬われ、這って逃れようとすれば目の前で巻き上げられた砂が目や鼻や口を攻撃した。目を閉じて口や鼻を手で隠すと今度は小石が叩きつけられる。じっとしている分には何も起こらないと気付いてからは、兵士達は地面に転がって身動きできずにいた。
「な、なんだこれは……」
カリスは一人、呆然と立ち尽くしていた。彼自身もそれなりに腕には自信があった。その自信が今はその辺に転がる石よりも軽く感じられる。
ここにいる兵士達にしてもそうだ。彼が鍛えた兵士の中でもそれなりに腕の立つ者を選んで連れてきている。十人にも満たない集団を制圧することなど容易いはずだった。
だが蓋を開けて見ればこの有り様である。実質たった四人に八十人の兵士達がいいようにあしらわれている。
「ええい、俺の護衛はいい、お前達も加勢に……!?」
カリスの側を固める兵士達に指示を出そうと周囲を見回し、誰一人姿が見えないことに絶句する。
「ビアンカ子爵が来る前に大人しくなってくれると助かるんだが?」
カリスが声の方へと視線を向けると、五メル程後方で左手を蔓の腕に変えたライシールドが立っていた。彼の腕から伸びる蔓は地面を這うようにしてカリスの回りを囲んでいる。その蔓の行く先を目で追うと、十メル程離れた所で雁字搦めにされた兵士達がひとまとめで転がされていた。
「いつの間に……」
呆然と呟くカリスに追い討ちを掛けるように、屋敷の入り口が開く。
「カリス、兵を退きなさい……と言うまでもなく制圧されているようね」
「母上!? その姿は……」
「貴方、危うく私の治療手段を潰すところだったわよ。解ってやって……はいないわね、その顔を見るに」
剣を落としてただ涙を流すカリスを見て、ビアンカが仕方がないといった顔で笑う。
「さて、先程私に薬を届けてくれたのはどなたかしら」
「俺だ」
蔓をそのままに、ライシールドが答える。彼の左腕の異形にビアンカは一瞬ぎょっとするが、気を取り直して頭を下げる。
「ゲイルからの便りで大まかな事情は聞いているわ。貴重な治癒薬を提供していただいて感謝しています。この恩は私のできる限りの最大限で返させていただくわ」
「こちらの要望はゲイルから聞いてくれ」
兵士達に巻き付いた蔓を解き、蔓の腕を霧散させる。馬車の前で渦巻いていた風の壁もふわりと柔らかい風となって空に消えた。
「ロシェ、悪いが負傷者の治療を頼む。最低限動けるくらいでいいぞ。ヴィアーはロシェを手伝ってくれ」
馬車の前に移動し、御者台で達観したような顔のゲイルから栗毛の手綱を受けとる。座ったままのゲイルに「お前の主が待ってるぞ」と促す。その言葉に我に返ったゲイルは勢いよく立ち上がると御者台から飛び降りた。
「チャック……だったな。ちょっと一緒に来てくれるか? うちの頭脳労働担当が気になることがあるらしくてな」
馬車の横で事態に着いていけずに馬上でポカンと呆けていたチャックは言われるままにライシールドの後を着いていく。彼らに逆らうとどうなるかを理解した今、断るなどという選択は存在しない。
「ククル、見たところお前が一番巧くやったな。お疲れさんだ」
馬車の後方に向かいながら、屋根の上のククルに労いの言葉を掛ける。子供らしい笑顔で手を振る彼女に手を上げて返すと、馬車後部の扉を開け、中のビクトリアに「終わったぞ。ゲイルが先に行っている。お前も行くといい」と声を掛けた。
「ありがとう!」
擦れ違い様に礼を言いながら馬車を飛び出していくビクトリアを尻目にライシールドは馬車の後ろに回り込む。やって来たライシールドを見てどや顔で胸を張るアティを「やりすぎだ」と睨み付ける。
どや顔のまま固まるアティの目の前には、二十人の凍える兵士達が真っ青な顔で転がっていた。皆身体の何処かを氷で覆われていた。
「燃鱗の腕」
火蜥蜴の腕を装填、火力を調節しながら兵士達の氷を溶かしていく。固まったままのアティに「こいつらを暖めてやれ」と指示すると二十一人目の男の前に立つ。
「お、俺の氷も溶かしてくれ……」
ガタガタと震えながら右腕全体を凍らせたダンの前でライシールドが睨み付ける。
「アティの攻撃に巻き込まれたのはただの偶然だったんだろうが、お前が余計なことをする余裕がなくなったお陰ですんなりことが片付いた」
「な、何を言って……」
「お前が情報を流していたんだよな? ダン」
ダンの表情が固まる。ライシールド(の中から見ているレイン)からするとその反応だけで判定は黒なのだが、彼をよく知るチャックは信じられないらしい。愕然とした表情で「ダンが……? 馬鹿な」との声が上がった。
ライシールド達からしても、道中の彼を見て裏切る様な印象は受けなかった。だが現実問題彼くらいしか容疑者は居なかった。正直半分は鎌かけのつもりでもあったのだがこれだけはっきり反応されるとは思わなかった。見た目通り根は単純と言うことか。
「なんで俺が、って顔してるな。単純に消去法だよ。ゲイルやビクトリアに俺たちを排除する理由がない。むしろ俺たちが無事子爵の下へと辿り着いた方が益は大きい。だがお前自身には特別そういった益がないだろ?」
ゲイルは主のため、ビクトリアは母のため。だがダンには具体的な理由が見当たらない。道中の会話からゲイルとは師弟以上の何かがあるように感じるが、それくらいのものだ。
「それで俺……か。流石に乱暴な話じゃねぇか?」
ダンは否定的な言葉を口にするが、その目は隠し切れない動揺で激しく揺れていた。これでまだ誤魔化せると思っているのならおめでたい話だ。
「チャックの可能性もあったんだがな、カリスの待ち伏せの用意の良さを考えるとちょっと厳しいと思ってな。だがお前のその様子を見るに、間違ってなかったみたいだな」
ライシールドの言葉にダンはやっと諦めがついたのか、大きく息を吐くと肩を竦めた。
「降参だ。どうせ屋敷に着いたら全て話すつもりだったんだ。俺の知ってることを全部教える。言い逃れ出来そうもねぇしな。だから、右手の氷を何とかしてくれよ。そろそろ我慢の限界だ」
肩を竦めると、ダンは左手を上げて降参の意思表示をした。ライシールドは火蜥蜴の腕でダンの右腕を自由にすると馬車に乗るよう促し、ククルに降りてくるよう告げると自らも乗り込んだ。
拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。
次回は18日に投稿予定です。