その3
翌日の、昼前のことだ。
私が昼食の準備をしていると、先にテーブルに着いていたミシェルが出し抜けに言った。
「セシール姉さまは? 朝から姿を見ないんだけど」
私は皿を並べる手を止めた。「私も見かけていませんけど、どうしたんでしょう」
「分からないからあなたに訊いてるんでしょ。朝は起こしにいったの」
「起こしには行きましたけど、返事がなかったのでまだ寝てるものだと……」
実際セシールが朝食に起きてこないことは、たまにあることだった。だからアリアもミシェルも、朝食時には特になにも言わなかった。しかしそれが昼食までともなると、少しおかしい。
「エラ、ちょっと起こしてきなさいよ」
ミシェルに言われるがまま、私はセシールの部屋へと向かった。
屋敷は上から見ると、ちょうど馬の蹄のような形をしている。食堂はその馬蹄の片方の先端部分にあり、セシールの居室はその反対側の二階にあった。二階へは屋敷の真ん中にある階段を上るしかない。私がその一段目に足をかけると、二階の廊下からアリアが姿を現した。アリアは私に気が付くと、いつもするようにむっと眉をひそめた。
「どうしたの、昼食の準備は?」
「あの、それが……」
私が事情を説明すると、アリアの表情は一層不愉快そうに歪んだ。
「まったく、なにを考えているの、あの子は……」そう言うと、アリアは今来たはずの道を引き返し始めた。
「あの、アリア姉さま、どうして……」
「私も一緒に行ってあげる。あなた一人じゃ頼りなさそうだからね。ほら、急いでついてきなさい」
セシールの部屋の前に着くやいなや、アリアが拳をドアに叩きつけた。
「ちょっと、セシール! あなた、いつまで寝てるつもりなの!?」
しかし中からはなんの返事も返ってこない。再びアリアがドアを叩いた。相当力を込めたのだろう。頑丈なはずの樫の木の扉が、悲鳴を上げるように軋んだ。
だがそれでも部屋からはなんの反応もなかった。肩で息をしていたアリアが私をきっと睨み付けてきた。
「あなたもぼうっとしてないで、少しは声をかけなさいよ!」
私は手の甲で二度、ノックをしてから、ドアの隙間に口を近づけた。「あの、セシール姉さま、昼食の時間なのでそろそろ起きてきていただけませんか……」
「あれだけ私が大声で呼んでも起きてこないって言うのに、そんな虫の鳴くような声で起きてくるはずがないでしょう!」
「す、すいません……」
それから何度か繰り返し呼びかけてみたのだが、まったく成果は上がらなかった。そうこうしているうちに、アリアの顔色が悪くなってきた。最初の頃の不機嫌な様子とはまったく異なる、むしろなにかを恐れているような表情だった。
ぽつりとアリアが言った。
「ねえ、もしかしてあの子、部屋の中で倒れてるんじゃないの」
「まさか、そんな……」
「だってあの子、昨日ウイスキーを飲んでたでしょ。そんなに強くもないのに、お父様の年代物のやつを……。酔いつぶれて体調を崩してたっておかしくないと思わない?」
「なら、急いでお医者さまを」
「医者を呼ぶにしても、このドアを開けなくちゃいけないでしょ。なにかドアをこじ開けられるようなもの……ほら、薪を割る斧があったでしょ。あれを持ってきなさい」
私が頷いて踵を返した時だ。廊下の向こう側からミシェルが現れた。
ミシェルは私を見つけると、不機嫌そうに足音を立てながら近付いてきた。胸元に指を突きつけられる。
「いつまで待たせる気なの? お姉さまを起こすのに一体何時間かけるつもり?」
「それがその、様子がちょっとおかしいみたいで……」
私がさっきまでの状況を話すと、さすがのミシェルも不安げな表情を浮かべた。「アリア姉さまの言う取りかもしれない。ほら、早く斧を取ってらっしゃいよ」
薪割り用の斧は納屋の奥まった場所に片付けてあった。刃についていた汚れを布で拭い、急いでセシールの部屋の前に戻る。
「鍵の部分を狙うのよ、ほら、早くっ!」
私は斧を振り上げ、ドアノブの上辺りに打ち付けた。刃が扉に食い込み、鈍い音が響く。ドアはまだ開かない。斧を引き抜き、もう一度振り下ろす。ささくれだった木の破片がこめかみを掠めた。突き立てた斧の向こうに部屋の中が見えた。
「ちょっとどいて!」
慌てて脇によけると、ミシェルがドアに肩から体当たりし始めた。二度目の挑戦で扉が倒れる。つんのめるようにしてミシェルが部屋に飛び込んだ。
「セシール姉さま! だいじょ……」
声が途切れた。どうしたの、と訝しみながらアリアも部屋に踏み込むが、すぐに動きを止めた。私もその後ろから続く。
そして、見てしまった。ひっと息を飲む。喉が張り付いたようになって声が出ない。
セシールはベッドではなく、愛用していた揺り椅子に腰掛けていた。手にはグラス。飲みかけのウイスキーが糸を引くようにゆっくりと滴を落としている。だがセシールは全く気にも留めていない。
当然だ。
セシールにはそれ以上に気にすべきものがあった。
左胸。突き立てられたナイフ。
じわりと円を描くように赤黒いものがドレスを染めている。
ミシェルが口元を押さえながら、後退った。「ね、ねえ、これ、どういうこと、なの」
「い、急いでお医者さまを」
「無駄よ」
駆け出そうとする私の前にアリアが立ち塞がり、ゆっくりと頭を振った。
「どう考えても、セシールは……」
私はもう一度セシールの方を見やった。確かにアリアの言う通りだと思う。心臓を刺されて生きている人間などありえない。
……にしても、だ。どうしてセシールはこんな目に遭ったのか。
不可解なのはそれだけじゃない。
鍵を壊すまで、この部屋は誰も入れなかったはずなのだ。どうやってセシールを殺した人物は部屋を出たのか。
まさか、とは思うが、まだこの部屋に潜んでいるのでは……。
私は部屋の中に視線を巡らせた。しかしベッドも乱れていないし、暖炉も燃えかすとなった薪があるくらいで、これといった異常はない。
アリアが自分の両肩を抱きながら呟いた。「一体誰がこんな……」
「アリア姉さまでしょ」
ミシェルが冷たい声で言った。名指しされたアリアは目を剥いた。
「な、なに言ってるの、あなた! どうして私が」
「私、見たんだから!」叫んだミシェルの両目から涙がこぼれ落ちた。「昨日の夜、アリア姉さまがセシール姉さまの部屋から出てくるのを!」
アリアの顔に狼狽の色が浮かぶ。しかしアリアはすぐさまそれを怒りで塗り潰した。
「そんなことを言ってるあなたの方こそどうなの!? 私だって見たのよ、あなたがセシールの部屋に行くところをね!」
「私は部屋の前までしか行ってないわ。ノックしたけど返事がなかったから、もう寝てるんだって思って、そのまま部屋に戻ったの」
痛みに耐えるように、ミシェルは顔を歪ませた。「でも、もしかしたら、既にあの時にはもう……」
「そんなの、信じられないわ!」
アリアが吐き捨てたのに、ミシェルが猛然と食いついた。
「なによ、あなたがやったんでしょ! 私より前にセシール姉さまの部屋にいた、あんたが! 誰も見てないと思ったら、大間違いよ!」
「勘違いも甚だしい! そもそもあなた、もっと重要なことを見落としてるわよ」
「なにが!?」
「この屋敷にはもう一人いるじゃない、私たち以外にも」
二人の視線が私に向いた。その狂気の入り交じった鋭さに全身がすくみ上がった。アリアが私の髪を掴み、ぐいっと顔を寄せてくる。
「ねえ、エラ。あなた、なにか知らない?」
「私がウイスキーを届けたときは、まだセシール姉さまは……」
「そんなこと分かってる」その声には異様な威圧感がこもっていた。「ねえ、なにか見たの、聞いたの? それともこれはあなたが―――」
ミシェルが私の肩を掴み、激しく揺さぶってくる。
「なにか知ってるんでしょ!? 言いなさいよ、エラ! 答えなさいってば!」
私は誰も見ていないし、なにも聞いていない。たったそれだけなのに、口だけが別人のものになったかのように、動こうとしない。肩を揺さぶられるのに合わせて、視界が次第に狭まっていく。意識が遠のいていく。
どうして、どうして、また、こんなことに……。