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その1


 誰かに呼ばれたような気がして、私は目を開けた。油絵の具を塗り広げたようなひどい霧。頭が重い。額に手を当てて、ゆっくりと身体を起こす。息を吸う。しっとりとした空気に混じって濃密な緑の匂いがした。耳を澄ませば、川が近いのか、ちょろちょろと水の流れる音もする。

 ここは一体……。

 思い出せない。私はなにをしていたのか。どうしてこんな見知らぬ森の中にいるのか。せめて自分の名前くらいは……ああ、そうだ。

 エラだ。私の名前はエラだ。

 しかし、それ以上は分からない。記憶のふたには何重もの鎖が巻き付いているようだった。

 とにかく、誰か探さなきゃ。助けを呼ぶにしても、ここがどこなのか分からないのでは始まらない。もしかしたら、聞き覚えのある土地かもしれない。ただ、この辺りに人が住んでいればいいのだけど……。

 幸い、怪我などはしていなかった。立ち上がり、水音の聞こえる方へ、木々の間を縫うように進んでいく。なんとなく人が住んでいるとすれば、それは水辺の側なんじゃないか。そう思ったのだ。

 しばらく歩き続けて、ようやく河原に出ることができた。川縁に近付いてみる。足の裏で角の丸くなった大小様々な石がごつごつと音を立てた。時折小さな飛沫を上げながら、川は緩やかに流れている。だがその川底は暗く、どのくらいの深さがあるのかは推し量れない。歩いて渡るのは無理そうだ。私は溜息をついた。

 ……とりあえずこの辺りで少し休憩しよう。近くにあった大きめの石に腰掛け、固くなったふくらはぎをもみほぐす。人心地着いたところでふっと顔を上げると、向こう岸に建物の影が見えた。

 さっきはあんな建物、なかったのに……。

 しかしそんな疑問はすぐに消えた。どうでもいいじゃない。きっと見落としてただけよ。

 どこかに橋はないだろうか。金を探すようなつもりで、注意深く視線を動かす。

 あった。ここから少し行ったところだ。

 急いで腰を上げ、駆け出す。これでなんとかなるかもしれない。板を渡しただけの簡素な橋を走り抜けると、建物の影がさっきよりもはっきりしてきた。丸太を組み合わせた造りで、屋根からは煙が上がっている。間違いない。人が住んでる。思わず大きな溜息が漏れた。助かった。

 建物に駆け寄り、玄関をノックする。だが返事はない。

 まさか……いえ、きっと聞こえてないだけよ。

 もう一度ノックをして、今度はノブに手をかけた。

「あの、ごめんください……」

 恐る恐る力を入れる。鍵はかかっていなかった。すんなりとドアが開く。頭の上で、からん、と鈴の音が響いた。

「どなたかいらっしゃいませんでしょうか」

 中を覗き込む。大きな柱時計がランプの明かりでぼんやりと浮かび上がっていた。他にも壁には大量の時計が所狭しと並べられている。奇妙な空間だった。一抹の不安がこみ上がってくる。

 本当にこんな所に人が住んでるのかしら。でもだとしたらあの煙は……。

 その時だった。薄暗がりの中から声がした。

「いらっしゃい。ようこそ、シュレディンガーの喫茶店へ」

 カウンターの向こう側に現れたのは、一人の少年……いや、少女だろうか。どちらにも見える。その少年だか少女だかは、薄く笑みを浮かべて手招きをした。

「さあ、中へどうぞ」

 言われるがままに足を踏み入れた。強い木の香りが全身を包んだ。見れば、テーブルや椅子も全て建物と同じように木で出来ている。

「適当に座って構わないから。ゆっくりしてよ、エラさん」

 その一言にはっとした。「どうしてわたしの名前を? もしかして私のことを知ってるの。ねえ、私はどうしてここにいるの、私は一体……」

「まあ、落ち着いて」

「落ち着いてなんていられない。私は今すぐに……」

 そこで言葉に詰まった。私はなにを言おうとしていたのだろう。だめだ、思い出せない。

 窓の外で雷鳴が轟いた。次いで雨粒が建物を激しく叩き始める。

 その音が鍵になった。鎖で感じがらめになっていた記憶のふたが不意に開いた。

 そうだ、私は馬車で峠道を急いでたんだ。でも、どうして急いでたんだっけ。待って、思い出せそう。姉が、そう、姉のことで急いでどこかに……。

「思い出せたみたいだね」少年のような少女が言った。

 私は椅子から立ち上がり、頷いた。

「一番上の姉が大変なことになって、それで隣町に行こうとしてたの」

 どうしてこんな重大なことを忘れていたのだろう。一番上の姉が死んでしまったのだ。しかも病死などではなく、何者かが姉を殺害した……。

 こうして休んでいる場合ではない。「ごめんなさい、私、行かないと」

「大丈夫、急ぐ必要はないよ」

 駆け出そうとしていた足を止めた。自分の顔が奇妙に歪むのが分かった。

「どうして」

「ボクには分かるんだ」

「あなた、一体……」

「ボクはユラギ。ここで世界を見届けている」

「どういう意味?」

「文字通りの意味だよ。ボクはここで様々な世界を―――選ばれた世界も捨てられた世界も―――全てを眺めて過ごしている」

「選ばれたとか捨てられたとか……どういうことなの」

「いきなりではそうかもね。じゃあ『量子力学』という言葉を聞いたことがある?」

「リョウシ……なんですって?」

 ユラギは苦笑いを浮かべた。「うん、キミが知らないのも無理はないよ」

 教養が無いと言われたような気がして、思わずむっとなった。

「いや、知識を試したわけじゃないんだ。世界には順序というものがあるからね」

「ますます訳が分からない」

「まあ、いいや。話を元に戻すね。簡単に説明すると、この世界は認識と確率に支配されているんだよ」

「認識と確率って、どういうこと?」

「そうだね、例えば―――今から飲み物を用意しようと思うんだけど、エラさんはコーヒーと紅茶、どっちがいい?」

 急な展開に頭が付いていかない。「いきなりどうしたの」

「いいから、どっちか選んでよ」

「じゃあ……」少し迷ってから、言った。「紅茶をお願い」

「分かった。じゃあ、用意している間に説明の続きを」

「今のになにか意味があったの?」

「まあね」

 ユラギがカウンターの上にカップを置いた。かちゃりと硬質な音が響く。

「今、エラさんは紅茶を選んだ。でも同時に、コーヒーを選んだエラさんが存在する世界も同じ確率だけ存在している」

「つまり、それは、えっと……」

 言葉を発してみるが、やはりだめだ。ユラギの言っていること、言わんとしていることが全然消化できていない。また頭が痛くなってきた。

「さっき飲み物を選んだ瞬間、世界は二つに分かれたんだよ。コーヒーを選んだエラさんがいる世界と、今こうして紅茶を目の前にしているエラさんがいる世界に」

 カップを運んできたユラギを見上げる。「それは……私がもう一人いる、ということなの」

「こことは別の時間軸に、ね」

「どうしてあなたはそんなことが分かるの」

「ボクはちょっと特殊でね。普通の人には感知できないことが感知できるんだ」

 ユラギはカウンターへと戻った。

「もう少し世界の話を続けるよ。次は認識についてだね。あらゆる事象はキミの主観によって規定されている。要するに、キミの生きる世界ではキミが見たもの、感じたものが全てなんだ。キミが認識をすればそれはそこに存在するし、認識しなければ何ものもそこには存在しない。例えばボクの横にはネコが一匹いるんだけど、気が付いていた?」

「ネコなんてどこにも……」いないじゃない、と言いかけて私は口を噤んだ。

 カウンターの上で黒猫が丸まっていた。ユラギがその黒猫の背を撫でながら言う。

「彼女はピート、ボクの相棒だよ」

「さっきまで、そこにはネコなんていなかったのに」

「それはキミが認識していなかったからだよ。キミはボクや他のものに気をとられていた。だからピートの存在を認識できなかった。それだけのことさ」

「そう、なのかしら……」

 まだ理解が追いつかない。だが実際にいなかったはずの黒猫が現れた。それを目の当たりにした以上、ユラギの話を信じるほかないのだろう。

「それで最初に戻るけど、私は急いで隣町に行かないといけないの。それと世界の話がどう関係あるの」

「ボクは世界を支配する確率をある程度操ることが出来る」

「は?」

「これも口で説明するより、実際に体験してもらった方が早いね」

 そう言うと、ユラギは指を鳴らした。

「一体なにを……」

「エラさん、カップを見てご覧よ」

 訝しみつつも、手元のカップを覗き込んだ。が、次の瞬間には顔を上げていた。

「どういうことなの、これ……」

 確かに受け取ったときには紅茶だった。だが今、カップには黒い液体がなみなみと注がれ、ゆっくりと湯気を立ち上らせていた。

「確率を操作したんだよ。さっきエラさんが紅茶を選んだ場面での、ね」

「つまり、あなたは世界を思い通りに変えられるってこと?」

 ユラギは首を振った。

「紅茶かコーヒーか選ぶくらいの簡単なものなら操作もできるけど、ボクに出来るのはせいぜい、選ばれなかった世界に案内することくらいさ」

 私はもう一度、カップに目を落とした。これは紛れもない現実だ。確かに目の前で紅茶がコーヒーへと変化した。ユラギの話は嘘ではない。

 ここに来て急速に頭が追いついてきた。ユラギはこう言っているのだ。

 一番上の姉が殺されない世界もあり得るのだ、と。

 しかも、それを選ぶことも出来る、という。

「やっと分かってくれたみたいだね」

 ユラギが安心したように微笑んだ。頷き返す。「それで私はどうしたらいいの」

「まあ慌てないでよ」

 ユラギはカウンターから出てくると、私の正面に回った。椅子に腰掛け、私の目をじっと覗き込んでくる。

「ボクは今からキミに選ばれなかった世界を案内する。エラさん、キミはどこが分水嶺だったと思う?」

 思い返してみる。私がなにかを選択した場面はそれほど多くはなかった。だとしたら……。

「午後のティータイムの時に、姉さんたちがケンカをしたの。その時に私がどの姉の味方に付くか、訊かれたわ。私がなにかを選んだのは、それくらいしか思い当たらない」

 私が答えると、ユラギは一瞬だけ表情を曇らせた。

「なに?」

「いや、なんでもないよ。本当になんでも……」

 ぴんと来るものがあった。

「あなた、実はその先の未来が分かってるんでしょう? そこに戻ったとしても、上手くいかないって」

「いや、未来のことは分からないんだ、本当に。あくまで選択するのはキミなんだから。キミの選択次第で未来はいかようにも変えられる。ボクはその結果を観察するだけ」

「じゃあ、気になるような顔をしないで」

「ごめんね。……それじゃあ、そろそろ始めようか」

 ユラギは私の前に手をかざした。

 すると、意識が段々と遠のき始めた。まるで掌に吸い込まれていくような感覚……。

 ほどなくして私の視界は黒く塗りつぶされた。

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