通学電車
頭のうしろで電車の扉がひらく音がしたら、うなじをかすめるように風が動くのを感じた。
床をキュッと踏み鳴らし、足音がだんだん近づいてくる。
――あっ、あの人だっ。
制服のポケットからハンカチを取り出して急いで口元を覆うと、わたしはうつむいて息をとめた。
どうしてなんだろう。
彼と同じ空気を吸っていることがわかると、鼻がムズムズしてクシャミがでそうになる。
――ダメだって、こっちに来ちゃダメっ。本当にでちゃうからっ。
必死になって心の中で祈ったのに。
今日も風は、わたしの隣で止まってしまった。
ブーンというモーターの音が低くうなるまでの間に、彼の弾んだ息が届いて、わたしの頭のてっぺんにある髪を揺らす。
――お願い、はやく動いて!
けれど、思いとは裏腹に、電車はなかなか出発してくれそうになくって。
パチパチと何度もまばたきを繰り返していたとき、やっと規則正しく体が揺れはじめた。
なぜ君は、わたしの隣に毎日やって来るの?
車内はガラガラで、座る場所だって他にたくさんあるのに。
わたしの隣のスペースは、君のために空けてあるんじゃないんだよ。
吊り革がギシッときしんだ拍子に、胸がキュッと痛む。
さらに強く、つま先に目を落とした。
***
薄いブルーのハンカチで顔をかくし、痛いぐらい耳たぶを真っ赤にさせながら下を向いている彼女。
通学電車が一緒になってからずっと、未だにオレは彼女の素顔を全部見ていない。
オレが今、目にしている彼女のパーツは、さらさらの黒髪と、やわらかそうな耳たぶと、長いまつげの下で潤ませている丸い瞳だけだった。
ああ、まだある。桜色をしたキレイな爪の先と、紺色のスカートからチラリと覗く膝小僧も、絶対ハズせない。
――はっ、やっべー。マジやばい、っつーの!
すぐさまスケベ根性丸出しの視線に気づいたオレは、あたふたと窓を見た。
ピリピリとした気まずさを感じながらも、オレの横に並んで窓に映っている彼女の姿をながめる。
いつからだろう、彼女をさがして、隣に立つようになったのは。
彼女は、オレと同じ高校生であることは間違いないんだろうけど。
たった一駅の間だけの、この電車に間に合うためだけに、オレは毎朝駅まで走るのだ。
だが、オレと彼女との間にあるのは、沈黙による静けさと電車が揺れる音。共通点などさがしようもなく。
彼女を見つめるオレの足の下では、車輪の音が重く響いていた。
それが、今日はどういうわけか異変が起きた。
カーブに差し掛かり電車が傾いたと思ったら、ガクンと大きく揺れたのだ。
オレは、吊り革につかまっていたため、うまく対処できたのだが。
「きゃっ!」
彼女が揺れに耐えきれず、オレの方によろめいた。
「あっ、ちょっと!」
とっさに手をだして、彼女の体を横から抱きかかえる。
パチン、とシャボン玉が割れるがごとく、レモンの香りがオレの鼻先で匂った。
しまった、彼女の匂いだ。
カーッと顔が火照り、変な汗がジワリと滲むがわかる。思わずツバを飲み込んでしまった。
***
電車が揺れた拍子に転びそうになったので、足で踏ん張ろうとした。でも、間に合わない。
――あ、倒れる!
と思った刹那、わたしは強い力で体を支えられていたことに気づいた。
狭い通路で転倒しなかったのはよかったけれど、ホッとしたら今度は恥ずかしさでいっぱいになって、泣きたくなってしまった。
隣に立っていた彼が、わたしの腰を抱えて倒れないようにしてくれていたのだ。
――やだ、どうしよう。
体にまわされた彼の腕を意識しすぎて、グルグルと目がまわりそう。
さっきまで持っていたハンカチは、床に落としたままだった。とても拾う余裕がない。
「だっ、だいじょうぶか?」
震えるようにうわずった声が、頭上から降ってきた。
ふと視線を動かすと、わたしの視界は彼の制服のシャツの色でふさがれていた。まぶしい白。
そして、「あっ」と言う声が自然にでて、こわばっていた頬の筋肉が緩んだ。
わたしのリップの色が、彼の白いシャツにシミをつくっていたのだ。
まぶしい白の真ん中に、ピンク色のくちびる。わたしの大好きな、レモンの匂い。
――あやまらなくちゃ!
「あ、あのっ」
指でピンとはじかれたように顔をあげた。彼と目が合う。
輪郭のふちがくっきりとした目が、戸惑いを隠せずに、わたしを見つめ返していた。
彼の顔のまわりに陽があたって、細かい粒子が空中に漂っていた。
それは、タダのホコリにきまっているんだろうけど。
不思議なことに、わたしにはキラキラ光る結晶のように見えた。
***
うつむきがちだった彼女が、急に顔をあげてオレを見た。ブルーのハンカチは、どこにもない。
「えっ?」
オレは、初めて彼女の素顔を目の当たりにして、驚きの声をあげてしまった。
レモンの香りが、彼女のくちびるから匂う。
レモンといっても、目に染みるほどキツい本物の匂いではない。人工的につくられた、ニセモノのレモンの、ゆるくて甘ったるい匂いだ。
窓から入ってくる日差しを、映しているのだろう。彼女の瞳の中にチラチラと光るものがある。
「ごっ、ゴメンなさい……わたし……」
ウィスパー・ボイス。
「あの……シャツに、リップ……つけちゃったみたい」
消え入りそうな小さな声で言いながら、顔をちょっと横に傾けて、ぎこちなく笑う。
「はあっ?」
思いがけない告白に不意を突かれて、オレは声が裏返ってしまった。あわててシャツを見下ろしてリップの跡をさがす。
リップは、ちょうどオレの胸のあたり、心臓の真上の位置にあった。
神様がくれた、チャンスかもしれない。
彼女にかける言葉をさがしながら、オレは顔をあげた。
(END)
読んでくださってありがとうございました。