表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「氷は要る順に」と愛人の店へ先に回した夫へ。では割当帳から、わたくしの名を外します——鑑札の停まったお店に札は残して

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/30

【夏の初荷、氷室の前】


札が、志乃の手から消えた。


惣兵衛の指が、割当帳の上に揃えてあった氷札をひょいと摘まみ上げたのだ。朝から照りつける日差しは、まだ巳の刻にもならぬというのに三貫ほどの厚かましさがある。そこへ旦那様の横取りが半貫。合計三貫半、たいへん暑苦しい。


「最初は、お絹の料理屋だ」


惣兵衛が声を張ると、氷室の前へ集まった二十軒の者たちが、互いの顔を見て笑った。笑わなかった者も口元を隠したので、商家の見栄というものは便利である。黙っていても追従一匁、きちんと勘定に入る。


「今夜は大きな宴がある。四貫、朝一番で回せ」


料理屋の名が書かれた札を、惣兵衛は一番上へ置いた。志乃が前夜、暑気と客足を見て二貫半と記した札である。増えた一貫半で客の舌まで冷えるなら、世の中の嫌味はすべて氷漬けにできよう。


「旦那様、夕方の宴へ朝一番の氷。溶ける方にも御祝儀をお出しになるのでしょうか」


「口を挟むな。氷は要る順に」


言い切った惣兵衛の脇で、新吉が「さすが兄貴だねえ」と語尾を伸ばした。


「姉さんの割りじゃ、宴のお客に恥をかかせちまう。産所なんぞ、少しくらい遅れたって文句を言いには来ないだろうしさあ」


また笑いが起きた。反撃してこない相手を選ぶ目だけは、兄弟揃って氷より透き通っている。


志乃は帳面の隅へ目を落とした。割り手として記された自分の名、その下に並ぶ二十軒。魚屋二貫、薬種屋半貫、産所二貫。惣兵衛が料理屋へ足した分だけ、産所の包みが薄くなっていた。


「志乃、産所は半貫でよい」


「承知いたしました」


返事は一息。説教は零貫。聞く気のない男へ言葉を積むくらいなら、薦を二重にした方がよほど役に立つ。


志乃は氷鉈を入れ直し、欠けた氷を寄せた。半貫では昼までもたない。そこで欠片を固く包み、紐を一度ほどいて締め直す。氷は力任せに縛れば割れるし、緩ければ溶ける。十年やれば、紐を引く指が勝手に頃合いを知る。


「お絹のところは、わしが届けさせる」


惣兵衛は料理屋の札を振った。札の端には、志乃が書いた二貫半の数字が残っている。その上から太い墨で四貫。ずいぶん立派な数字だ。あの墨だけ削れば、産所へ一貫、魚屋へ半貫。墨とは便利である。人の具合より太く書ける。


新吉が、志乃の包みを覗き込んだ。


「半貫を一貫みたいに包んだって、増えやしないよ」


「ええ。羽織を大きくしても、中身の男が大きくならないのと同じですわね」


氷室の戸口で笑いがひとつ噴き、すぐ引っ込んだ。新吉は兄の顔を窺い、惣兵衛は聞こえなかったことにした。よろしい。聞こえぬふり一回につき、体面は五分ほど長持ちする。


志乃は産所の包みを胸へ抱えた。薦越しの冷たさが、火照った腕へ食い込む。


一貫必要な場所へ、半貫しかない。


その不足だけは、笑っても増えなかった。


    *    *    *


【翌朝、魚屋の土間】


鼻を刺したのは、生臭さより先に魚屋の声だった。


「若女将、こいつはもう売り物にならねえ」


土間に並べた魚の目が、白く曇っている。腹を押せば指の跡が戻らず、鰓の色も悪い。昨朝の氷が届いたのは日が高くなってから。あと一刻早ければ半分、二刻なら全部助かった。志乃の頭の中で、魚が銭へ、銭が氷へ、氷が惣兵衛の上等な下駄へ変わった。旦那様の足元一足分が、土間で見事に腐っている。


惣兵衛は鼻を覆い、魚から半歩離れた。


「昨日はお絹の店に大事な客が入った。こちらが後になったのは仕方あるまい」


「仕方ねえで、今日の飯は炊けませんよ」


魚屋が吐き捨てても、惣兵衛の顎は下がらない。人前の旦那様は、断定口調だけなら氷奉行にも勝てる。中身の貫目はさておき、包みだけは堂々たるものである。


「次から多めに仕入れておけばよい」


「氷が来ねえから傷んだ魚を、魚の方で先に増やせってんですか」


惣兵衛は志乃を見た。その目は、おまえが話を丸めろと言っている。丸めるなら鰯のつみれがよい。生姜を利かせて、冷やした汁に落とせばきっと旨い。売り物でなくなった魚を前に考える献立ではないけれど、腹は立つほどよく減る。


「旦那様。昨日の暑気なら、こちらへは辰の刻までに二貫半が必要でございました」


「帳面には二貫とある」


「一昨日までの暑気なら、でございます」


「ならば、書き直しておけ」


魚屋の眉が上がった。志乃は帳面を開かなかった。


「昨日の朝には、書き直してございました」


その札を取り上げ、料理屋を先に読んだ手がどなたのものだったか。そこまで添えれば説教になる。志乃は口を閉じ、傷んだ魚の入った桶を日陰へ移した。魚屋もそれ以上は言わず、惣兵衛の前へ売れない魚を一尾ずつ並べた。


鯛、鯵、鰈。合計すれば四両と少し。


あら、旦那様の羽織が一枚、土間で鰓を開けておりますわ。


「お絹の宴には、町の顔役が来るのだぞ」


惣兵衛が言った。


魚屋は返事をせず、曇った目の鯛をひっくり返した。腹側から、ぬるい汁が板へ垂れる。見栄は魚の腹を冷やさない。実に働きの悪い品である。


志乃は氷の届いた時刻と傷みの数だけを覚えた。惣兵衛を説き伏せる言葉は探さない。必要な分はもう昨日伝えた。足りないのは説明ではなく、氷だった。


    *    *    *


【七日後、産所の裏】


運ばれてきた包みは、ひとつだった。


産所の裏口で待っていた女が、志乃の後ろを覗く。いつもなら朝と昼、日に二度。今日は朝の一度だけだと、包みの数が先に告げていた。


「昼の分は?」


志乃が答える前に、新吉が荷車の柄へ寄りかかった。


「兄貴が減らしたんだよ。ここは一度で足りるってさあ。料理屋じゃ今夜も宴だし、産気づく時刻なんぞ選べないから、合わせようがないだろう?」


選べないから備えるのでは、という理屈は新吉の耳には少々重い。半貫ほど削って差し上げても、まだ入らないに違いない。


「承知いたしました」


志乃はそれだけ言い、朝の一貫を奥へ運んだ。寝台の向こうから、短く息を吐く声がする。桶の水はもうぬるく、濡らした布を替える手が忙しい。


帰り道、志乃は自分の財布を開いた。簪を新しくするために分けていた銭が入っている。簪一本で氷は三日。惣兵衛の羽織ならひと月。男の見栄とは、着せても冷えず、売れば人を助ける、不思議な布である。


昼前、志乃は自分の手銭で一貫を買った。薦へ包み、荷車も使わず背負う。婚家の印をつければ店の手柄になるので、無印の紐で結んだ。ここ、大事。銭は志乃、汗も志乃、褒められる者だけ旦那様では割に合わない。もっとも褒められに来たのでもないから、裏口へ置けば済む。


産所の女が包みへ手を当て、目を見開いた。


「昼の分……来たのかい」


「ええ。よく締まったものがございましたので」


誰の銭かとは言わない。女も聞かず、包みを抱えて奥へ走った。


ほどなく、火照った額へ新しい布が置かれた。桶のそばで扇を動かしていた手が、ようやく速さを緩める。志乃は戸口からそれだけ見て、空になった財布の口を閉じた。


帰るころには、肩の着物が丸く濡れていた。一貫背負って半刻。洗い張り代まで足せば、今日の志乃はなかなか高価である。誰も値をつけない品ほど、商家では雑に使われるけれど。


婚家の軒先では、新吉が冷やした瓜を齧っていた。


「どこへ行ってたんだい、姉さん。兄貴が帳面を待ってるよ」


「少々、冷たいものを届けに」


「へえ。お絹さんのところなら、俺も行ったのにさあ」


志乃は新吉の瓜を見た。よく冷えている。その一切れで、産所の布が二枚は冷やせた。


食い意地が失せた。これは重症である。


    *    *    *


【その夜、婚家の文机】


惣兵衛は、割当帳を文机へ放った。


「明日の割りを直せ。料理屋は三貫、魚屋は一貫半、産所は一度でよい。おまえは余計に細かく考えすぎる」


「暑気は本日より強うございます」


「店の名で出せば、先方は受け取る。誰が割っても同じだ」


灯心が小さく爆ぜた。志乃は帳面を手元へ引き、紙の折れを指で伸ばした。十年分の手垢が、頁の端を柔らかくしている。


暑気。風。店の軒の向き。魚が揚がる刻限。薬種屋で熱を出した者の数。産所の回数。宴の始まる時刻。そうしたものを見て、聞いて、余らぬよう、切らさぬよう、毎日数字にしてきた。


惣兵衛は、それを細かすぎると言った。


「誰が割っても同じでございましたら、わたくしでなくてもよろしいのでしょう」


「だから余計な口を出さず、帳面だけつけろと言っている」


「でしたら、わたくしの名はここには要りませんわね」


惣兵衛が眉を寄せた。志乃は硯の脇から細筆を取り、墨を含ませた。


割当帳の最初には、婚家の店名がある。その下に、割り手として志乃の名がある。若女将だから書かれているのだと、ずっと思われていた一行。


筆先を置いた。


横へ、一本。


志乃の名が、墨の下へ消えた。


いつもなら次の瞬間には、明日の暑さを何貫へ換える。だが、数字はひとつも浮かばなかった。灯心の音と、惣兵衛の浅い息だけが、文机の向こうに残った。


志乃は折り目を正し、帳面を惣兵衛へ向けた。


「わたくしはこの一行を、十年、わたくしの名だと思うて割っておりました」


惣兵衛の口が開いた。


「何を、大げさな」


先ほどまでの命令の勢いは、その声にはなかった。顎も、肩も、わずかに下がっている。帳面の上の一本線を、見慣れぬ傷でも見るように見つめていた。


志乃は氷札の束を揃えた。角を合わせ、紐をかけ、割当帳の横へ置く。一本線の下に手を戻すことはしなかった。


「明日からは、旦那様のお考えの通りになさいませ」


「待て。どこへ行く」


志乃は立ち上がり、文机へ一礼した。


廊下へ出ても、明日の貫目は浮かばなかった。


もう、その勘定に志乃は入らない。


背後で惣兵衛が名を呼んだ。志乃は振り返らず、婚家の暖簾をくぐった。


    *    *    *


【翌々日、氷室の寄合】


お登勢は、志乃の報告を途中で挟まなかった。


氷室の文机に片肘を置き、志乃が話し終えるまで、帳面の一箇所を見ている。三十年ここを見てきた女の顔は、氷壁より厚い。何を考えているか削ろうとすれば、こちらの鉈が先に欠けそうだ。


「婚家を出ました。割当帳からも、わたくしの名を外してまいりました」


「そうかい」


「氷札も、すべて置いてまいりました」


「そうかい」


短い。二度合わせても半匁。けれど新吉の長い語尾百本より、よほど中身が詰まっている。


志乃は膝の上で手を揃えた。


「ご報告は、それだけでございます」


助けてほしいとも、懲らしめてほしいとも言わない。言えば、お登勢の裁定が志乃の仕返しになる。それでは氷に泥が混じる。


お登勢は、そこで初めて顔を上げた。


「うちらはあの店に氷を出してたんじゃない。あんたの割りに出してたんだ」


志乃の指先が、膝の上でわずかにずれた。


「ですが、鑑札は旦那様の店にございます」


「知ってるよ。私も二十年前、同じことをした亭主の鑑札を停めた」


それだけ言い、お登勢は文机の帳面を閉じた。昔話は一行で終わった。一行で十分な過去もある。余計に飾れば、古傷まで見世物になる。


志乃は頭を下げた。


「では、失礼いたします」


「志乃」


立ち上がった背へ、お登勢の声が飛ぶ。


「次の夏、二十軒へ声をかける。顔を出すかどうかは、あんたが決めな」


お登勢はもう、戸口の者へ二十軒を招く時刻だけ告げていた。


外へ出ると、氷室の冷気が背中から離れ、夏の熱がいっせいに戻ってきた。仕事を置いてきた身には、暑さまで遠慮がない。容赦七貫、日差し五貫。合計十二貫。背負えぬほどではない。


志乃は道端の水売りを見た。冷やした白玉が桶に浮いている。財布の中身を数え、今日は見送った。産所へ出した一貫の方が先でよい。


ただし、いつか必ず二椀食べる。


一椀では、十年分の元が取れない。


    *    *    *


【翌夏、町のあちこち】


魚屋の土間で、また鯛の目が曇った。


惣兵衛は前年の割当帳を開き、そこに残った数字の通り二貫を送っていた。だが今年は夜明けから風がなく、荷揚げされた魚も多い。必要なのは三貫、それも辰の刻まで。帳面の数字は合っている。今日には合っていない。


「去年と同じだけ出したぞ」


惣兵衛が言うと、魚屋は売れない鯛を桶へ投げ入れた。


「去年は若女将が朝の魚を見て、半貫足してたんだ。暑い日は運ぶ刻も早めてた。数字を眺めるだけなら、うちの猫でもできますよ」


惣兵衛の顔が固まった。新吉は隣で笑いかけ、魚屋の目を見てやめた。兄の肩から、ほんの半歩離れる。人の縁も氷も、危なくなると離すのが早い。


産所では、昼の桶が空になっていた。


「朝の一度分は届けた」


「去年までは昼にも来たよ」


「帳面には一度とある」


産所の女が、奥から古い無印の紐を持ってきた。志乃が自分の手銭で買った氷を結んだものだ。


「二度目は若女将が持ってきてたんだ。店の印もつけずにね。銭を誰が出したか、あの人は言わなかったけど、氷屋が覚えてたよ」


惣兵衛は紐を受け取らなかった。受け取れば重さが出る。細い紐一本でも、都合の悪いものは一貫より重いらしい。


同じ日の午後、料理屋の裏口からは、冷たい水が溝へ流れていた。


朝に届いた四貫のうち、宴が始まる前に一貫以上が痩せている。板場で使い切れず、割った氷が籠の底から青白く覗いていた。お絹はそれを小僧へ顎で示す。


「裏へ流して。客前で水浸しにしないでおくれ」


「けど女将さん、まだこんなに——」


「早く」


お絹は愛想笑いを店先へ残し、惣兵衛には要件だけを告げた。


「明日から朝一番はいらないよ。宴の刻に二貫でいい」


「おまえが四貫欲しいと言ったのだろう」


「旦那が先に回してくださるって言うから、頂いただけさ」


惣兵衛の足元を、溶けた氷が通り過ぎた。魚屋で足りなかった一貫、産所へ届かなかった一貫が、料理屋の裏で薄い泥水になっている。


(氷など、要る者へ回すだけのことだ)


惣兵衛は割当帳を握り直した。


寄合の日、二十軒の氷札が文机へ並んだ。


お登勢は惣兵衛の鑑札を手に取り、読み上げなかった。脇へ置く。木札が机へ触れた音は小さかったのに、新吉の背がぴんと伸びた。


「魚屋。申してみな」


「暑気の強い日は一貫足りねえ。届くのも一刻遅い」


「産所」


「昼の一度が消えました。去年まで届いていた分は、志乃さんが手銭で足していたそうです」


「料理屋」


お絹は寄合へ来ていなかった。代わりに料理屋の札と、余った氷の貫目を記した紙が置かれている。お登勢はその紙を一度見て、伏せた。


惣兵衛が膝を進めた。


「今年は暑気が違っただけだ。次から直せば——」


「何を見て直す」


お登勢の声が落ちた。


「店先かい。魚の目かい。産所の桶かい。それとも、お絹の顔かい」


「それは……帳面を見れば」


「帳面に今日の暑さは書いてないよ」


魚屋が氷札を持ち上げた。


「俺たちは旦那の店を信じてたんじゃねえ。志乃さんが割るから、札を預けてたんだ」


産所の女も札を差し出した。続いて薬種屋、その隣、さらに向こう。初荷の日に笑った口は、今日は余計なことを言わない。札を差し出す手だけが、文机の上へ順に伸びた。


お登勢は惣兵衛の鑑札へ掌を置いた。


「この鑑札は、本日より停める」


「待ってくれ。氷が来なければ店が——」


「来なくなるんじゃない。任せられなくなったのさ」


お登勢は鑑札を取り上げ、手元の箱へ収めた。蓋が閉じる。惣兵衛の店から氷を受ける権利が、木札ごと消えた。


新吉が、さらに半歩離れた。


惣兵衛は弟を見たが、新吉は氷室の壁を見ていた。お登勢の前では、あれほど長かった語尾も出てこない。声とは身分に合わせて溶けるものらしい。


戸口に立っていた志乃へ、魚屋が札を向けた。


「頼めるか」


産所の女も、その上へ自分の札を重ねる。


「今度は、あなたの名で」


二十軒の札が、志乃の前へ集まった。


惣兵衛が取り上げたのと同じ札だった。けれど今は、誰の手も志乃から奪わない。差し出され、返事を待っている。


志乃は最初の一枚を受け取った。重さは木札一枚。なのに指先へ、十年分の貫目が乗った。


「お預かりいたします」


胸の奥で、何かがすとんと収まった。


ああ、これは旦那様の店へ戻る札ではない。


志乃へ来た仕事だ。


    *    *    *


【秋、氷室の文机】


一枚目の氷札には、志乃の名があった。


婚家の店名の下ではない。帳面の最初、割り手の欄に、ただ「志乃」と書かれている。自分で書いた二文字なのに、よそゆきの顔をしていた。少々澄ましすぎでは? けれど初日の名なのだ、見栄の半貫くらい許されよう。


「産所は最初に一貫。それから魚屋。風が止まれば、夜明けを待たずに出します」


志乃が札を切ると、講の女衆が早口で応じた。


「運び手はうちらで出すよ」


「薦は冬のうちに繕っとく」


「削る子も二人、今度は手の早いのを寄越すからね」


本家筋から来た者も帳面へ印を押した。志乃の割りで町の氷を任せたい、と書面にしてある。名を貸してくれではない。名ごと働いてくれ、という頼みだった。


最初の札を紐で括ったところで、戸口の外が騒がしくなった。


「志乃」


惣兵衛が立っていた。


羽織は以前と同じ上物だったが、袖口に皺がある。あの一枚で産所の氷がひと月。ずいぶん涼しいものをお召しですこと、と採点しかけて、志乃はやめた。もう惣兵衛の衣服を氷へ換える必要はない。


「話がある」


「仕事中でございます」


「すぐ済む」


命令の形をした言葉だった。けれど志乃が筆を置かないと、惣兵衛は続けられなかった。


「店へ戻ってくれ」


講の女衆の手が止まる。志乃は一枚目の氷札の紐を結び終えた。


「お登勢に口を利いて、鑑札を戻してもらってくれればいい。割りはおまえに任せる。前のように帳面もつけていい」


前のように。


産所の一貫を削られ、魚が土間で傷み、料理屋の裏を氷が流れた、あの前へ。志乃の名を店の下へ置き、腕だけを使う場所へ。


「お絹の店には、もう出入りしていない」


志乃は夫を見なかった。札に記した一貫の字が滲んでいないか、そちらを確かめる。


「それは、わたくしの仕事には関わりのないことでございます」


「夫婦だろう」


「わたくしが婚家を出た夜、旦那様は追っていらっしゃいませんでした」


「店が忙しかったのだ。おまえが抜けたせいで——」


言葉が途切れた。惣兵衛は唇を舐め、声を落とした。


「頼む。戻ってくれ」


妻へ言っているのか、失った鑑札へ言っているのか。志乃には量れなかった。量る必要もない。


惣兵衛の手が、文机の端へ伸びる。そこには自分の名から始まる一枚目の氷札がある。


志乃は札へ手を置いた。


「氷は要る順に」


惣兵衛の指が止まった。


「今、わたくしを必要としてくださる方々が、先にお待ちです。旦那様のお店の鑑札は停まっておりますし、夫婦としてのわたくしの名も、あの帳面から外しました」


「志乃」


「どうぞ、お帰りくださいませ」


惣兵衛はしばらく門前に立っていた。講の女衆の一人が薦の寸法を読み上げると、もう一人が紐の数を数え始める。誰も惣兵衛へ道を空けなかった。


やがて羽織の背が門から消えた。


志乃はそれを追わず、自分の氷札へ視線を戻した。


仕事が片づくと、講の女衆が大鉢を運び込んできた。細かく削った氷へ蜜をかけ、煮た小豆をどさりと載せている。上品さ零貫、気前は十貫。たいへん結構!


「まず志乃さんにお渡し。働かせるだけ働かせて、食べるのを後にしちゃ駄目だからね」


椀が、志乃の前へ置かれた。


匙ですくうと、氷がしゃりりと崩れた。蜜の甘さ、小豆の温かい香り、その奥から冷たさが舌を刺す。志乃の頭は貫目を数えなかった。溶ける時刻も、値も、誰へ回すべきかも、今だけは浮かばない。


「これですわ。夏は冷たさが命ですのよ。ぬるい夏は、もう十分いただきました」


女衆が声を上げて笑った。


「じゃあ次の夏、最初の一貫は?」


「産所へ。次が魚屋ですわね」


「その次は、うちらの削り氷!」


「まあ。要り目を申告なさるなら、椀の数まで正確にお願いいたします」


「二十!」


「三十!」


「志乃さんの分を入れて三十一!」


氷が足りなくなる、と志乃は笑った。


来年は、もう少し多く削ろう。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ