埋葬女は恋を飼う
「昨日ようやくリュウジが死んだの」
恵美の後ろの席に座る、老夫婦が顔を見合わせたのが分かった。
そうだ、ここは家じゃなかった。喫茶店だ。
乃々《のの》は老夫婦に聞こえるように、はっきりとした声で
「カブトムシにしては、長生きだったよね」
と付け加えた。
老夫婦が大げさに胸をなで下ろし、笑いながらコーヒーカップに手を伸ばしたのを確認し、乃々もふぅとソファの背もたれに寄りかかる。
「成虫を買って来て半年、経たないか。今回は随分短い片思いだったね。お世話もなんか、普段よりテキトーだったし」
「今思えば、はじめから好きじゃなかったのかも。だって、もう次の恋が始まる予感がするもん」
恵美は「ふぅん」と適当な相づちを打ちながら、乃々のふわとろ厚焼きたまごサンドをさっと自分の皿へ持って行く。
「ホント、恋多き女だよね。片思いが趣味みたい。でもさ、その片思いの諦め方どうにかならないの? 埋葬女め」
「恵美だって火葬女じゃん。そっちのがこわいって。そう言えば、今の人は何枚描いてるの?」
「えーと、五枚かな。もう燃やそうかな」
「こっわ! と言うか、五枚って最短じゃん」
恵美の皿からピザトーストをひょいっと持ち上げ、乃々は思い切りかぶりついた。
ぼたたっとこぼれ落ちたピーマンとサラミが、乃々のデニムをピザソースで汚した。
ピーマンとサラミを拾い上げポイッと口に放り込む。
恵美が差し出した紙ナプキンに手を伸ばすと、バタバタと慌ただしい足音が店内に響き渡った。
段々近づいてくる足音は、迷いなく恵美の隣にお尻を滑り込ませる。
「ごめん! お待たせ!」
「お疲れー陽葵。ヒールでそこまで走れるのいつ見ても面白いんだけど」
「遅延だっけ? 雨ヤバいもんねー」
「もう止まってる路線もあるらしいよ」
陽葵は背負っていたリュックをソファに下ろすと、中から大きな荷物を取り出し、それに巻いてあったバスタオルで頭を豪快に拭き始めた。
「その壷、誰だっけ……ハルキ?」
「ハルキは二つ前。これはカズヤ。もし雨で帰れなくても大丈夫なように、持ってきたの」
パカッと壷の蓋を取ると、ふわっとぬか床特有の匂いが広がった。
匂いに気付いた老夫婦が、スンスンと音をたて匂いの元を探しながら、自分たちの服を嗅いでいる。
「タカヒロの大根美味しかったよね」
「誰か忘れたけど、卵が良かったな」
「卵好きだねー。全員の味を引き継いでるカズヤが一番美味しいよ。というか乃々、リュウジ連れてこなくて良かったの?」
「昨日終わった」
ぬか床の蓋を閉め丁寧にしまい直した陽葵が「あ、そうなんだ」と、メニュー表に手を伸ばす。
上からすーっとメニュー表をなぞっていた陽葵の指が、ピタリと止まる。
おにぎりセット(自家製ぬか漬け付き)
はっと見あわせた三人。
ニヤァと顔が緩んでいく二人に、陽葵は笑いをこえらながら力強く頷く。
「本日のオススメはぬか漬けのカズヤ君です」
「待ってやめて、無理笑う。巻き込まないでよ、この食葬女」
誰にも伝わらない可笑しさに、三人はゆっくりと笑いを堪えながらテーブルに突っ伏していった。
リュウジを埋葬して一週間。
今のところ、乃々にこれといった出会いはない。
いつも通り、数字まみれの注文書と電話対応と発送処理なんかに追われ、ちょっとばかり残業をして帰る、そんな毎日。
商社の営業事務にしては残業が少ない方なので、どうにか辞めずに続けている。その程度のもので、とくにやりがいなんかは感じていない。
そんな昼休み、スマホで「ペット 寿命」と調べていると、同僚の真澄が声をかけてきた。
「あのね、私、こんど結婚するの!」
「えー本当に!? ついに! きゃーおめでとー!」
などと言いながら、真澄に駆け寄っていく。
ポイントは、少し高い声で、驚きとおめでたい気持ちを乗せて。勿論、とびきりの笑顔も忘れずに。
心の底から幸せそうに、何度も「ありがとう」を繰り返す真澄は、本当に綺麗だ。
同じ部署で、席が近いということもあり、真澄と今の彼氏——婚約者の事は、二人の出会いから知っている。
だから、この日の為に何度もシミュレーションしていた。
「本当に本当におめでとう! 凄い、私まで泣いちゃいそう……。絶対結婚式呼んでよ! そこで私もいい人捕まえるから!」
「ちょっとぉ、もしかしてそっちが本音ー? あはははっ!」
真澄とひとしきり話して笑って、詳しい話はまた後でと別れ、真澄の姿がエレベーターに消えていったのを確認し、更に一呼吸置いてから、ようやく乃々は顔の力を抜く。
二人の出会いから知っている。だから純粋に嬉しい。良かったとちゃんと思えるし、ちゃんと御祝いしてあげたいとも思える。心の底から。
片思いの諦め方は知っているけど、片思いの進め方は知らない。だから、その先の更に先の先の結婚なんて、乃々にはピンと来ない。考えようとしても……。
乃々はそこまで考え、体をぶるりと震わせた。
ふとスマホを見れば、もう昼休みも終わり。
乃々はスマホをポケットにしまい込み、今日はいわゆる花金というやつだけど、少し残業をしていきたい気分だとため息をついた。
翌朝起きたら、空っぽの飼育ケージが目についた。
蓋付きタッパーに適当に穴を開けただけの、簡易飼育ケージ。
リュウジがいなくなってからそのままにしていたのだが、仕事が忙しくてすっかり忘れていた上に、全くその存在が目に入っていなかったらしい。
折角の休み。土曜の朝の目覚めとしては、あまりにも清々しさに欠ける。
ケージを持ち上げてみたら、とても軽く感じた。リュウジがいなくなっただけなのに。
もうとっておく必要はないだろう。なんて言ったってタッパーなのだから。
というより、リュウジへの想いに区切りをつけた今、あれだけ愛おしかったカブトムシ特有の匂いが少し気になったのだ。
窓を開ければ、夜中に雨が降ったのか、湿って少し生臭い匂いが部屋を吹き抜けていく。
この間のコンビニ袋は、確かこの奥に詰め込んだよなと、三段ボックスの一番下を開ける。
収納に困った物を適当に詰め込んで隠している棚だ。
ビニール袋を取り出し、パンパンな棚を強引に閉めると、反動で棚がガタリと揺れた。
連鎖的に棚の上に置いていたボックスがひっくり返ってしまった。
ため息しか出ない。
とりあえずケージをビニール袋に放り込み、一礼してからあっさりとゴミ箱へ。
さて、次は散らばったボックスだぞ。
心の中で腕まくりをしいざ始めると、懐かしい物がたくさん出て来た。
結局使えずじまいの、可愛いリップクリーム。今使うにしては、少し子どもっぽい。
高校の時に交換しあった手紙に、無くしたと思っていた靴下の片方や髪ゴム。
それらをえいっと心を決めて分別していくと、一番下にケースが割れているCDを見付けた。
歌詞カードはもうどっかにいってしまい、透明ケースにCDが入っているだけだが、それだけで何のCDか乃々は分かった。
あまりの懐かしさに、正座したままじっくりと眺める。
高校生の頃、気が狂うほど好きだったアーティストのCD。
受験勉強に差し支えるからと、両親や先生だけではなく、友達みんなに窘められるほどに熱狂的に好きだった。
それでも、勉強するからと言って帰宅後即仮眠して、深夜の二時間の生放送ラジオを聞いて、更に録音したものをすぐに聞いて、感想をすぐにメールして朝を迎える。そんな生活をしていた。
それ程大切だったのに、いつの間にか歌詞カードすら無くしていた。
割れたケースを指でなぞり、CDを取り出す。が、使っていたお下がりの古いCDコンポは実家に置いたまま。
パソコンで聞こうとドライブを開けて、少し悩んだが、そのまま再生した。
イントロの一音目を聞いた途端、一気に思い出が溢れだし、目の前を覆っていく。
隣の公舎からくぐもって聞こえてくる、吹奏楽部の音。
第二体育館の裏口で、靴下を放り出し腕まくりをし、ぐったりと倒れ込むバレー部達。
彼女に会いに、一階の美術室の窓から入るのを校長に見つかり、凄い早さで走って逃げる野球部。
そんな記憶がどっと押し寄せ、乃々を包み込んでいく。
経験してきた自分の過去なのに、今までどこか、別の世界の人の話のように色あせていた思い出が、音楽一つであっさりと鮮やかによみがえる。
なくしていたんじゃなくて、本当に良かった。思い出せて本当に。
まだ乃々が全力で人に恋し、恋されたいと思っていた時代。
今のように、片思いの人の名前をペットにつけ、実らせるつもりもない行き場のない想いの全てをペットに注ぎ愛し、甲斐甲斐しく世話をし、最後を看取って片思いも終わらせる、埋葬女になる前の乃々。
CDはあっという間に二曲目に。一曲目のしっとりとしたバラード曲とはうって変わり、疾走感のある力強い曲。
曲につられて、みるみる気持ちがたかぶっていく。
『走り出せ今すぐに。お前の居場所はそこじゃない』
サビのその歌詞を聴いた途端、乃々は財布を鷲づかみにし、家を飛び出していた。
パジャマ代わりの短パンTシャツ姿で、気付けば乃々は駅前に立っていた。
行き交う人が何人か、乃々をチラッと見ては去って行く。
乃々の顔がカッと赤くなる。途端に恥ずかしくなった。
勢いよく駅に駆け込んでまたすぐに飛び出す。
今度はキョロキョロと足踏みをしながら信号待ち。
と思ったら、いきなり振り返り駅前のベンチに座る。
しかしまたすぐにぴょんっと立ち上がり、目の前のコンビニへと駆け込んでいった。
雨で濡れた床で、足がキュッキュッと滑る。
左右でサンダルが違う。もう最悪だ。
小走りで店内を二週ほど回って、はっと雑誌コーナーで立ち止まる。
ここなら立ち止まっていても不審者ではない。立ち止まって一度落ち着かなくては!
適当に目の前にあった雑誌を開くと、パチンコや麻雀やグラビア写真が載った大人向けの雑誌だった。
何事も無かったかのように棚に戻し、二歩隣にずれて旅行雑誌を取り、真剣に読んでいる風を装う。
肩から斜め掛けしていたスマホで、サンダルを撮り『今コンビニでこれ(笑)』と添えて恵美と陽葵のグループLINEへ。
すぐに恵美から『ウケる』とだけ返ってきて、それでようやく落ち着いた。
旅行雑誌を棚に返し改めて見渡せば、昔に比べて雑誌コーナーは随分と狭くなったなと思った。
昔はこの辺に音楽雑誌が並べられて——と、移動してみれば、まだ少ないながらも有名どころの雑誌は置いてあった。
パラパラっとめくってみれば、名前と代表曲はどうにか知ってるぞといった程度の、最近流行っているアーティストがずらりと並んでいる。
乃々が雑誌を買っていたのは、もう十年以上も前。内容も様変わりしていて当たり前だ。
しかし、雑誌の後ろの方のモノクロページに、それを見付けた。
胸がぎゅっとする。関連する漢字ひと文字を見ただけで。昔のようにまた。
少し嬉しくなった。
内容は『下記のラジオの放送時間が変わります』
ただそれだけ。羅列されている中のひとつ。
スマホにその名前を打ち込み、一度気持ちを落ち着かせてから検索ボタンを押す。
すぐに出て来た公式ホームページの写真は、しっかりと年を重ねた懐かしい顔が写っていた。
ホームページの出演情報をタップ。
ラジオのレギュラーが週に二本。地上波のレギュラーこそはないものの、インターネットテレビの方では音楽番組にレギュラー出演しているらしい。しかも解説側で。
「解説ぅ? ギタリストなのにギターのコード一個も分からん! って自虐ネタ、ライブの鉄板トークだったのに?」
思いのほか大きな声が出てしまった。
はっと雑誌で顔を隠すと、会計の終わった人がチラリと見ていった気配がした。
ライブツアーやグッズ情報。書籍やインタビュー記事の情報など、テレビで見る機会が減っただけで、当時よりも多忙そうだ。
そしてトップページには、ニューシングル発売中の文字。
乃々は雑誌を棚に戻し、カフェオレを手にレジに並ぶ。
足は自然と、駅の裏のCDショップへと向いていた。
※
「良いことあった?」
週明け、朝礼終わりに真澄がぽつっと言った。
「え?」っと顔を上げた時には、真澄はもうパソコンを立ち上げていた。
その後三人から同じ事を言われ、これはどうした事だと、昼休みトイレの鏡に映った自分の顔に聞く。
良いこと。最近の出来事と言えば、リュウジとの別れ。まさか、そのことではないだろう。
うーんと鏡を見ながら首を傾げると、ふと買ったばかりのCDジャケットが頭に浮かぶ。
丁度トイレから出て来た真澄に、鏡越しに
「CD買ったの」
と言ってしまった。
真澄は一瞬笑顔のまま、なんの事だと止まったが、すぐに
「最新の? 古いの?」
と、手を洗いながら少し癖のある質問で返してきてくれた。
「古い人の、最新の」
「古い人が現役なのって、最高の幸せだよね!」
きらきらとあまりにも眩しい真澄に目がくらみそうだ。
言うほど古いアーティストではないとは思うが、確かに変わらずそこで歌い続けてくれていたのは幸せ以外のなにものでもない。
見失って離れても、変わらずそこに。
「よそ見してたのは私か」
「あ、昼休み終わっちゃうよー」
ぽつりと零した言葉を、真澄は聞いていたのだろうか。
※
新しく始まりそうな恋の予感に備え、乃々は奮発して小さな水槽を買って来た。
何を飼うか以前に、まだ恋にも出会っていないのに。
でも、もしその時が来たらと、準備しておかないと不安になる。
片付けた三段ボックスの上は、今はCD置き場。
と言っても、割れた古いものと新しく買ったものの二つだけだが。
その隣に、少しお邪魔しますよと水槽をねじ込む。
押されたCDが反対側から落ちそうになったが、どうにかキャッチ出来た。
しかし、どうにも不安定だ。上手くCDと並べられない。
なんとなく水槽を手前に、CDを壁に立てかけ配置する。
正面から見れば、水槽の中にCDが入っているようだ。
「このペットはしぶとく長生きだなぁ」
と零すと、ポコンとスマホが鳴った。
恵美からのグループLINE。
開いてみれば『やっぱり五枚で燃やした』と、絵の燃えかすにピースサインを添えた写真が送られてきた。
すぐに陽葵が「失恋おめでとー(笑)」と反応をし、二人で盛り上がっている。
そのいつものやりとりに、何故だか乃々は加われなかった。
芸大卒の恵美。その確かな実力で描かれた、恵美の片思い相手の肖像画。
燃えてしまって判別できないが、デッサンの他に水彩やアクリルマーカーなどで描かれたものがあったようだ。
その燃えかすに僅かに残る、優しげな表情。
それを見ると、何故かもやもやして何も言えなくなってしまった。
顔を上げれば、目の前には水槽。
乃々はCDを水槽の中に入れてみる。
がすぐに出し、ハンカチを敷いてから入れ直す。
そして写真を撮り「餌いらず(爆笑)」と、二人に送った。
すぐに「絵面が意味分からなすぎる(笑)」「ついに無機物~!」と返信が来た。
絵面が意味分からない。まさにそれだと、ようやく乃々も笑えた。
CD置き場が決定したところで、乃々は自然と駅裏のCDショップへと向かった。
折角なら、もっといっぱいCDを飼育しようじゃないか。
そう思った自分に、少し噴き出してしまった。
入り口すぐに平置きされているニューシングルや、話題のアーティストたち。
そこをさらっと横目でチェックし、アーティスト名ごとに並んだ棚を、端から「あ、か、さ、た……」と探す。
名前別の棚には、代表的な古いアルバムと最近のシングルの二枚しか置かれていなかった。
よし、少し歩いて中古ショップに行くか。
店を出た所で、ポコンと
「ばいばいカズヤ! 子孫だけ冷凍保存!」
と陽葵からLINEが。
一枚目の写真は、皿に乗せた少しのぬか漬けと、大量に破棄されたぬか床。
二枚目は、ほんの少しだけ取り分けたぬか床を、冷凍庫にしまっている。
「みんな片思い終わらせるの早いなー」
一拍おいてから、自分で「……ん?」
それが何故か分からず「んー?」と悩んでいたが、恵美の「子孫繁栄!」というLINEを見たらどうでも良くなってしまった。
「私は二人と違って、自分で終わらせてないからなぁ」
LINEに返信せずスマホをしまうと、中古ショップへと歩き出した。
カズヤで漬けたきゅうり美味しかったのにな。今回の恵美のデッサン、会心の出来だったんじゃないかな。
そんな事を思いながら大通りを反れ、坂道をどんどん登っていく。
連日の雨で、坂道はぐちゃぐちゃ。脇の民家の庭から溶け出した土が、道路の半分を覆っている場所もあった。
梅雨は本当に気が滅入る。そうだ、最近なんか変なのは、きっと梅雨だからだ。たぶん、きっと。
そう思ったら、気が晴れてきた。
幾分か軽くなった足取りで一気に坂を登り切り、車道を小走りで横断し、お目当ての店へ。
久しぶりの店は、変わらず中古ショップ特有の、色々混ざって少しほこり臭いようなお香のような、独特の匂いで、少し安心した。
慣れた手つきでカゴを持ち、ろくに選びもしないで大量にカゴに放り込んで真っ直ぐ会計に来た客を、若い店員はどう思っただろうか。
ひとまず、次からは服装を改めよう。どうにもキレイめな服は、場違いだ。
またポコンとLINEが鳴った。恵美からだ。
「所で二人とも、今日の約束覚えてる?」
約束? と、LINEを遡ると、数日前のやりとりを見付けた。
「おつりです」と丁寧に差し出された小銭を、レジ横の募金箱にそのまま突っ込み、大量のCDが入った紙袋を小脇に抱え走り出す。
店員さんの「ありがとーございましたー」の定型文に、元気よく「ありがとうございました!」と返し、乃々は来た道を走り抜ける。
陽葵の「さっき家出たー」のLINEをスルー。
今日はこれから、みんなでランチだった。
坂を下り始めれば、真正面の空に晴れ間を見付けた。
「わぁ……」と見とれる手元では、ガチャガチャとCDがぶつかり合う。
おっとと、優しく運ばないとまた割れてしまう。
ぎゅっと抱え込んだ紙袋の厚みと重み。
なんだかにやけてくる顔で、晴れ間を見上げる。
何もかも清々しい気持ちだ。
——あ、約束。
「一回服買いに出る? それとも今日のランチやめとく?」
「ランチしてから買いに行く。お気になさらずに、どうぞメニュー表です」
「いや、無理でしょ。心配が勝っちゃってるから」
どうにか合流できたが、二人の表情は浮かない。
分かるよ、言いたいことは。でも、こっちはこの状態で電車に乗ってきたんだ、もう腹はくくってる。
坂道で思い切り転び、パンツは泥だらけ。濡れたトップスも半乾き。
紙袋だけは死守したもんと胸を張ると、二人ともぎこちなく顔を見あわせ、一応は納得してくれた。
「私タオル濡らしてくる。さすがにお店の迷惑になるから」
陽葵がそう言って取り出したのは、この間カズヤを包んでいたタオル。
一応駅のトイレで軽く流してきたんだけど。
そう言いかけたが飲み込んだ。ただただ申し訳なかった。
恵美からカーディガンを借り、陽葵のタオルで残った泥を拭い取り、どうにか酷すぎる有り様から酷い有り様へとなれた。
「遅れるって言ってくれれば良いのに。そしたら奢って貰えたのに」
「無理無理。すっからかん」
「なにこの紙袋。なに買ったのこんなに」
「見て良い?」と、返事も待たずに紙袋を漁る恵美の頭にチョップを入れる。
気にしたそぶりもなく、笑いながら中身を出していく恵美の強さといったら。
「懐かしー! これ、高校の時に聞いてた! 放課後、デッサン描きながら美術室で爆音で流してた」
「悔しいーほぼ知らないー。というか一曲しか分からない悔しいー」
盛り上がる恵美と、悔しい悔しいとうなる陽葵の対比が絵画のようだ。
恵美を見て、少し安心した。昔の曲を聴くと、やっぱりみんなその時代に戻るんだと。
「そっか、だからか! ここ最近、乃々がなんか楽しそうなの、再燃したからかー。良いなぁ、私もなんかないか探そ」
そう言って陽葵がスマホの検索に打ち込んだのは「ぬか漬け 変わり種」
スープを飲んでいた恵美が盛大に噴き出した。
どうやら画面が見えたようだ。
店員さんが慌てておしぼりを持ってきてくれたが、恵美も乃々と同じくらい盛大服を汚してしまった。
飲んでいたのがミネストローネだったので、もう大惨事だ。
借りていたカーディガンをさっと返すと、恵美は無言で肩から羽織って背中を丸めた。
「服、買う」と、意気消沈気味に言った恵美を励ましながら、三人はファミレスを後にする。
ファミレスや服屋、スーパーなんかが入った大型複合施設。
たまには喫茶店じゃなくて、ファミレスでダラダラしようと、ここに来ていて正解だった。
ファミレスを出てすぐのエスカレーターを下りれば、ファッション系のテナントが並ぶ階だ。
犯罪でも犯したのか? と言いたくなる、不審者然とした動きの恵美に、後ろからついて行く二人は笑いそうだ。
「挙動不審すぎる。猫背でキョロキョロ早歩き」
キッと一度二人を睨んだ恵美は、挙動不審のまま近くの服屋に吸い込まれていった。
「乃々も買って来なよ。言っとくけど、あんたのが重症だからね?」
そう言えばと改めて確認すれば、時間が経って冷静になったからか、普通に歩いていた自分が恥ずかしくなる有り様だった。
急いで服屋に駆け込む。
が、すぐに近くのATMへ進路変更。
おろし立てのお金を財布にねじ込みながら、再び服屋に駆け込むと、恵美が可愛らしいワンピースを二着手に、鏡の前で何度も交互に合わせていた。
「絶対右。絶対に右」
それだけ言って、恵美の後ろを駆け抜ける。
ボトムスのゾーンに駆け寄ると、店員さんがぎょっとした顔で滑るようにやってきた。
緊急性を理解したのか「お手伝い出来ることあったら言って下さい」と、丁寧に言ってくれた。
商品を汚さないように気を付けますと一礼し、一旦下がって貰った。
振り返れば、恵美は陽葵を捕まえ、さっきのワンピースのどちらが良いか聞いていた。
陽葵も迷いなく右を指さしていたが、恵美はどうにもまだ悩んでいるらしい。
気を取り直して乃々も商品を選び始める。
折角なら、仕事にも着ていけるオフィスカジュアルのような物が良いだろうか。
と思ったが、そんな事を言っている場合ではない。
ひとまず無難なデニムを一本買い、事情を説明し試着室を使わせて貰った。
これで泥だらけとはさよなら出来た。
恵美はまだ悩んでいるらしく、手に持ったワンピースが三着に増えていた。
なら、買い物を続けていても良いだろう。
今度はゆっくりと店内を見て回る。
ふんわりとした、恵美が好みそうな柔らかい雰囲気の服が多い。
隣の店に目をやれば、シンプルなデザインと、ユニークなデザインの両極端な服が並んでいた。
自然とそちらへ足が向く。
仕事に使えそうなトップスを一枚見付け、ふらふらとレジへ。
しかしその途中、少し変わったデザインのコーナーの前で、足が止まった。
オレンジと青のチェック模様。シャツとパーカーのセットかと思ったら、重ね着風の襟になっているだけらしい。
襟とパーカーの重ね着風ならまだ分かるが、何故かフードを二枚重ねていた、不思議なデザイン。
シャツの襟も下のフードも上のフードも全て違う柄。でも何故か喧嘩をしていない。良いバランスの不思議さだ。
でも、乃々はそこが気になって立ち止まったのではない。
オレンジと青。
迷わず手に取る。サイズは——フリーサイズ。買おう。
レジに行くまでに、何度も手元を見る。
胸が高鳴る。
レジに表示された金額は、そこそこ良いお値段だった。
少しクスリと笑ってから、レジの横に置いてあったピアスと睨めっこ。
買ったばかりのパーカーに合いそうなデザイン。
でも——
「右。絶対右」
後ろからひょこっと顔を出した恵美が、そんな聞き覚えのある言葉を言いながら、右側に陳列されていたピアスを摘まみ上げ、レジへと置いてしまう。
困った店員さんがちらりと乃々を確認する。
乃々がニコッと笑って頷けば、店員さんは安心したようにピアスをレジに通した。
良いお値段だ。
もうとっくに閉じてしまったピアス穴。また開けるかと受け取った買い物袋を抱きしめた。
「確か乃々さ、昔ピアスとかネイルチップとか自作してたよね。もうやんないの?」
「あーやってたやってた! 探せば多分、貰ったやつ出てくるよ! またやれば?」
「失恋して暇でしょ?」と続けた恵美に、瞬時に「あなたもね?」と返せた反射神経。
そっか、アクセサリー作りか。それも過去に置いてきたものか。
そういえば——
「あー、今度の真澄の結婚式」
「良いじゃん、結婚祝いに」
「あ、え? 贈る用?」
付けていこうと思ってた。
えっ? と顔を上げれば、二人も揃ってえっ? と顔を上げた。
どうやら、乃々だけ違ったみたいだ。
「本気でハンドメイド作家になろうとしてた時期あったよね。アキラの頃」
「アキラ……」
ポツリと零すと、二人がはっと口をつぐんだ。
明らかに狼狽えだした二人に、ぱっと笑いかける。
「ファミレスに戻りますか」
乃々は一人、CDと服の大荷物を抱え歩き出した。
※
「『ペット 寿命』じゃない」
真澄が心底驚いたように声を上げた。
スマホの検索ボックスに打ち込もうとしていた矢先だった。
「何?」
「履歴よ履歴」
「ごめんね見えちゃったの」と続けた真澄の言葉で、検索履歴に目を落とす。
『ピアス パーツ 通販』
『CD予約 アプリ』
『ノベルティ 印刷所』
『ファンクラブ 会報 いつ』
言われてみれば、この間までペット関係の履歴ばかりだったのに、気付いたら統一性がなくなっていた。
「ホントだ」
「一人暮らしでペットってハードル高いもんねー。長生きだと後々大変だし、短命だと悲しいし。私もさ、結婚したら猫か犬かで彼と揉めてるのー」
手が止まる。
真澄は乃々の検索を、そう見ていたのか。
驚きの連続で、何を検索しようとしたのか忘れてしまった。
「ねぇねぇ」
うって変わって、真澄は弾んだ声で乃々の隣に座ると、まじまじと顔を覗き込む。
「そのピアス作ったの? 耳に貼り付いた猫と、ぶら下がって伸びてる猫。やっぱり猫だよねーかーわーいーいー」
真澄はピアスの写真を撮りながら、何度も「猫だよねー」と繰り返す。
ふと、この間の恵美たちの言葉を思い出した。
「結婚祝いになるか分からないけど、何か作って良い? ピアスでもネックレスでも」
「ホント!? じゃあ、付け襟が良い! レースので、こっちで猫が遊んでて、こっちではのびてるやつ! あ、待って。色んな色を使って、花束みたいな付け襟も捨てがたい……」
スマホで「付け襟 デザイン」と検索。真澄に見せる。
「これ可愛い! あ、でもこっちも……」と盛り上がる真澄の隣で、また検索履歴がペットから離れたなと、乃々は楽しくなってきた。
よし、次の休みはパーツを買いに行こう。
真澄が可愛いと反応した付け襟をメモし、パーツを書き出す。
その横から「ピンクが良い!」「やっぱり金!」と移り気な真澄が口を挟み続け、昼休みが終わってしまった。
待ちに待った休みだ。こんなに一週間が長く感じたのはいつぶりだろう。
あれから毎日、昼休みに真澄と付け襟のデザイン案を出し合い盛り上がり、合間にのろけ話を聞く。
おかげで猫と犬論争から、フェレットとウサギ論争に変わったという、なんとも返事に困る話まで聞かされてしまった。
この間買ったオレンジと青のパーカーに、シンプルなタイトデニムと無骨なハイカットブーツを併せる。
下調べは完璧。
近くで手に入らないものは通販済み。残りは実物を見て買う。
スマホのメモ帳に書き出したパーツを確認し、取扱店舗の最終確認。
よしっと、玄関に向かったが、バタバタと引き返す。
水槽の中からこの間買ったピアスを取り出し、今度こそよしと、耳につける。
水槽の中はCDやピアスの他に、オレンジと青の小物などが増えた。
CDの下に敷いていたハンカチは、オレンジ色の物にかえた。
改めて、行ってきますと家を出る。
予報では一日曇りだが、念の為折りたたみ傘も持ってきた。
……本音を言えば、降って欲しい。
最近綺麗な青のストライプの折りたたみ傘を買ったのだ。
足取りも軽く、調べていたお店へ。
メモしておいた一覧を店員さんに見せれば、あっという間にお会計。
アクセサリーのパーツは小さいなぁと、鞄に収める。
さて、どうしようか。
このまま家で作業を始めるか、本屋でアクセサリーの本を探すか。
折角時間があるのだし、どこかでお茶を楽しんでも良いかもしれない。
そんな事を考えていたのに、気付けば足は駅裏の坂道を上り、目の前には中古ショップ。
さっきまで駅の反対側の、商店街の中の個人店に居たのに。
「白昼夢? ワープした? それともそっくりな店? 分かった、店がそのまま移転したのか! ……そんなわけない」
店の前で一人でそんな事をぶつぶつと言っていると、アルバイトと思われる若い女性店員さんが箒を片手に乃々の隣を通り過ぎ店の中へ。
店員さんが店の前を掃き掃除していたのに、気付かなかった。
見られた! 聞かれた! 不審者でしかない!
無理! と振り返り帰ろうとしたが、店員さんが戻ってきて入り口を開け放って
「どうぞ! 店開いてますよ~」
と声をかけてくれた。
何度も頭を下げモゴモゴとどもりながら感謝を伝え、小走りで店内へ。
店員さんから見えない一番奥へ移動し、心を落ち着ける。
店の奥には、レコードがずらりと並んでいた。
レコードプレーヤーなんてものは勿論持っていないので、レコードなんて気にした事なかった。
初めてじっくりと見るレコードは、思ったより大きくて薄い。そんな感想しか浮かばなかった。
「あ、これ……」
ただ興味本位で端から目で追っていると、とあるアーティストの名前で目がとまった。
昔ラジオで、好きなアーティストが一番影響を受けたと言っていたアーティストだ。
手に取れば、とても綺麗な保存状態だった。
確か、こんなタイトルのレコードだったような。昔過ぎて、記憶が曖昧だ。
なんでこんなことも忘れてしまったんだ。悔しい。
「それ、名盤っスよね。それ聴いてハマらない人とは、もう話合わね~ってなるやつっス」
当然背後から降り注いだ声に、ピッと背筋が伸びる。
振り返ればエプロン。少し見上げれば無精髭。
背が高い男の人。店員さんだ。
「そ、そうなんですか……」
好きなアーティストが影響を受けたアーティストの名盤。
ジャンルも分からない。分かっていることは、このレコードを評価している人が少なくとも二人いると言うこと。
「で、でも、私プレーヤー持ってなくて」
「最近またブーム来てて、やっすいプレーヤーがたくさん出てるんスよ。ほら、これとか」
棚の上。脚立いらずの長身がひょいっと箱を二つ取り出すと、近くのテーブルを足で引き寄せ、丁寧に箱を乗せる。
一方はトランク型のおもちゃのような気軽なデザイン。もう一方は、最新型だがレトロ仕様なデザイン。
「もっと手頃なポータブルプレーヤーも」と店員さんが他の棚の上を探し始めたが、乃々はトランク型に釘付けに。
真っ青なボディに、四隅にオレンジ。
もうそれだけで十分だった。
手に持てばずっしり。でもしっくり。
「お姉さん、きっとこれとこれも好きっスよ」
「え!?」
手に持っていたレコードプレーヤーの上に、レコードが二枚降ってきた。
危うく落としそうになったが、どうにか踏ん張った。
店員さんとレコードを交互に見た後、視線はじっくりとレコードへ。
どちらも知らない。当たり前だ、世代が違う。
なぜこの二枚? そんな疑問を見透かしてか、店員さんは最初に見ていたレコードをその上にぽんっと置いた。
「俺の推しが、その辺り大好きなんスよ。お姉さんがその推しカラーのまんまなんで、もしかしたらって」
そういうと、店員さんは顔の前で小さくポーズをとる。乃々の好きなアーティストの、ライブで定番の振り付けだ。
呼吸が止まる。喉から変な音が出た。
「んー!!」
思い切り叫んでしまったが、止まれない。
ぴょんぴょんとその場で跳ねた乃々は、慌ててプレーヤーをテーブルに置くと、答えるように全力でポーズをとる。
「よっしゃやっぱり! 俺見る目あるわ! 今月の会報見たっスか? 俺の出したメールが採用されたんスよ」
「ホントですか!? えーまだ会報届いてないんですよー! 出戻り組なので、届くの遅いのかな!?」
見たいー! と地団駄を踏むと、店員さんがガハハッと豪快に笑った。
さっきまでの、よく言えばアンニュイ。分かりやすく言えば寝起きのぼんやり顔とは一変した、キラキラした顔。
きっと自分も同じ顔をしている。乃々はその顔を見上げながら、同じようにガハハッと笑い飛ばした。
翌日、乃々は会報を抱え、仕事終わりにヒールで坂道を駆け上っていた。
実際に走ってみると、ぬか床を背負って雨の中走ってきた陽葵の異常さを改めて思い知らされた。
定時ダッシュで、閉店時間に間に合うかどうか。
履きすぎてヒールが削れ、中の金属が出ているせいで、フローリングで滑る犬の気持ちがとても良く分かる。
どうにか滑り込んだ店の入り口で、盛大に滑って尻餅をつく。
会報だけはと、ハンズアップで守った自分の反射神経に惚れそうだ。が、反射神経が良ければそもそも転んでないなと、自己完結。
「だ、大丈夫ですか!?」
この間店の前を掃き掃除していた女性店員さんが、どこかに吹き飛んでしまっていた乃々のヒールの片方を手に、駆け寄ってきた。
その手には、まさに今ドアの外に掛けようとしていたであろう「CLAUSE」と書かれた看板が。
「ごめんなさい大丈夫です! 本当にごめんなさいすみませんありがとうございます!」
ヒールを履き直し、女性店員さんに手伝って貰いながら立ち上がろうと顔を上げると、通路の奥からあの店員さんが顔をだす。
瞬間、思い切り手を振り、会報と店員さんを交互に指さす。
全力で乃々を支えてくれている女性店員さんには、申し訳ないばかりだ。
スーツ姿の乃々が誰か分からなかったのか、 一瞬変な間があった。
しかしすぐに理解したらしく、またあのキラキラした顔で思い切り飛びついてきた。
「これ、ここ! これ俺が出したメール!」
「うわーおめでとうございますー! 採用された人へのサイン入りステッカー、今度写真撮らせて下さい!」
「店長ぉ、店閉めて来て良いですか?」
床に座り込んだまま、会報を広げ盛り上がる二人に、女性店員さんは呆れたように笑った。
※
「よう、出戻り娘!」
「どうもー! 老兵店長さん! ここでクイズです、このピアスは何の曲をイメージして作った物でしょーーか」
「セカンドアルバムに見せかけての、それの対で作った限定版とみた」
「正解!」
二人はたった二度会っただけで、そんな会話をする仲に。
古本屋で手に入れた、好きなアーティストのデビュー当時のインタビューが載った雑誌を見せびらかしに来れば、乃々以上に食いつきが良い。そして、関連ページを全て写真に収めていく。
「見てよこれ。フォルダ分けしてるのに、俺のスマホそれしか画像ないの。悲しすぎる」
「唯一のフォルダが充実しまくりですね」
差し出されたスマホには、アーティスト名のフォルダと、画像数が何千枚の表示。
「フォルダ分ける意味」と隣で笑った女性店員さんに、思わず乃々も噴き出してしまった。
突然あっと乃々は声を上げると、店長さんのスマホを取り、自分のピアスを撮る。
そして勝手に「乃々」フォルダを作り、スマホを返した。
ニコニコの乃々と、あきれ顔の店長。
ニヤニヤの女性店員が
「私のフォルダもー」
とスマホに手を伸ばすと
「いらん! 増やすな!」
と、笑いながら店長はスマホをサッと両手で隠した。
「よし。『乃々』、スマホ貸して」
ふいに呼ばれ、乃々は何も考えず反射的にスマホを手渡す。
すると、店長は長い髪を耳にかけると、乃々と同じようにピアスを撮り、フォルダを作った。
『恭介 画像数1』
固まった乃々の隣で、女性店員さんがニッコニコで両手を差し出してきた。
「私のフォルダも」
「あ、大丈夫でーす」
「なんでよー!」とふくれっ面になった女性店員さんがあまりにも不憫だったので、結局『サキ』とフォルダを作った。
「あ、そうだ」と、恭介は再び乃々のスマホを取ると、自分のスマホも取り出す。
「ほい、LINE入れといた。良いのが入荷したらお知らせしまーす」
「やったー! じゃあ、私は晩ご飯の報告でもしまーす」
「飯テロかよ!」
今日から気合いを入れてご飯作っちゃうぞと、乃々はこのあとスーパーに寄っていこうと決めた。
※
「今日お弁当だ! なに、ちょっとやだ凄いじゃん、どうしたの? あ、彼氏にも作ってるとか?」
昼休み、真澄が突然そんな事を言うものだから、箸が滑って厚焼き卵が飛んでいってしまった。
折角海苔と明太子を挟んで、ぐるぐる模様にしたのに。
厚焼き卵をティッシュで片付けながら
「違うよ。晩ご飯の残りー」
とだけ伝えた。
間違ってはいない。これは実際晩ご飯の残りだし、彼氏の為に作っている訳でもない。
LINEの事をわざわざ言う必要もないだろう。ご飯の写真を、毎日ブログに載せているようなものなのだから。
真澄が目の前で広げたお弁当は、具材の切れっ端ばかりが入ったチャーハンだった。
おしゃれカフェのおしゃれランチが大好きな真澄のものとは思えず、思わず顔を見てしまった。
「彼にお弁当作ってるの。ハートとか星とか文字とかに切り抜くと、半端なのが残っちゃうからさ、それを全部処理するとこうなるの」
乃々の言いたいことが分かったのか、真澄は先にサラッと説明する。
なるほど、人に作るのは大変なんだな。
授業料として唐揚げを一つお裾分け。
喜んで唐揚げを口に放り込んだ真澄の良い笑顔に見とれていると。ポコンとLINEが来た。
表示された通知は『恭介』
『来月の武道館二日目のチケット当たった! その日空いてる?』
勢いよく立ち上がったせいで、椅子が後ろにひっくり返り、凄い音が鳴った。
みんなが一斉に見たのも気にならず、乃々は立ったまま
『空いてます! 空けます!』
と、即返信した。
「彼氏から?」
真澄のその声でハッと我に返る。
「違う!」
「何よぉ」
「当たったの! ライブ!」
「えー! 良かったじゃん! なんだ、最近生き生きしてたのは、そっちだったのかー。恋でもしてるのかと探って損したー」
「そんなわけ……」と顔を上げて思い出す。
「ピアス! ライブ用に新しいの作る! 待って、髪留めのが良いかな?」
「え? あー……あれは? 特攻服みたいにさ、服に刺繍するとか。背中にばーん! って」
特攻服。ありかも知れない。
乃々がゆっくりと頷くと、真澄はグッとガッツポーズをした。
二人でスマホを覗き込み『特攻服 刺繍』で検索を始めた。
その日は定時で上がり。真っ直ぐ帰宅。
鞄と靴を玄関にポイッとそのまま放置。外したピアスは水槽へ投げ入れる。
すると、中に入れてあったかぎ針編み棒が水槽にぶつかり酷い音を立てた。
いつの間にか、水槽の中がぐっちゃぐちゃになって来た。新しい水槽をもう一つ買うべきだろうか。
そこまで考えて、はたと気付く。
何も、わざわざ水槽を収納にする必要はないじゃないか。
CDだけだった水槽の中は、今はピアスなんかの他にも、手芸用品や材料なんかも適当に放り込まれている。
また、ちゃんとした裁縫箱を買ってしまおうか。編み道具も入る、少し大きな物を。
スマホを取り出し「裁縫箱、通販」と呟いた途端、突然アキラの顔がフラッシュバックした。
捨てられた裁縫道具。壊されたCD。破り捨てられたレシピのメモ達。
ぴたりと手が止まる。もう関係ない。でも——
しばし悩んだ乃々は、通販サイトの検索窓に『水槽』と打ち込んだ。
※
「派手すぎるかな?」
半分ほど刺繍をしたシャツをテーブルに広げる。
カフェの一番奥の角の、いつものテーブル席。
店員さんからはほぼ死角だか、恵美と陽葵は揃って体で隠すように移動した。
「ヤバくない? これ全部手縫いでしょ? しかもこれでまだ半分なの?」
「うん。背中全面にやるつもり」
「公式グッズがかすむクオリティ……って、すっごい重ぉ!」
何の気なしに持ち上げた陽葵が悲鳴を上げる。
総刺繍のシャツは凄く重く、刺繍を施した所は硬い上に、風通しもほぼゼロ。
一緒に振りを踊ったり声出しをしたりと、何時間も大盛り上がりするライブに着ていくには、覚悟が必要な勝負服だ。
「推しぬいか推しあみぐるみを作って肩に乗せようかな。頭に乗せたら迷惑だもんね。うん。うちわとかの非公式応援グッズは禁止だからーどーしよーかなー」
「推しの顔プリントしただけのTシャツじゃ駄目なの?」
「あ、今から着物に刺繍って間に合うと思う? 着物と帯に刺繍して、推しカラーで飾り帯紐も作って……良いじゃん、いけそう! このシャツは、恭介さんに羽織って貰えば良いし!」
「人の話聞いてぇ?」
そうと決まればと、早速シャツの写真を撮り『特攻服作ってる!』と恭介へLINE。
仕事中なのですぐには既読はつかないだろうが、そんなの気にしない。
しかし送った直後、立て続けにLINEがポコンポコンと鳴った。
『どうなてんだ、マジかすげぇ!』
『は? これ手縫い? ちゃんと仕事行ってるか?w』
『俺が着て良いの? じゃあ肩の所にゴッツいライブのロゴ入れて! ゴリッゴリにゴツいやつ! あとで画像送るわ』
打ち間違いやLINEの連投で、恭介の興奮が伝わってくる。
後でと言っておきながら、更にポコンポコンと連投してくる恭介に、プススっと笑いを堪えながら、乃々はスマホをくるりと二人に向ける。
「見て、テンションやばい」
「やばっ。いやいや、あんたこそ今仕事中~」
「乃々が二人いるみたいでウケる」
二人とも恭介のLINEがツボなようだ。
『乃々はオレンジだろ? 俺のは青でロゴな!』
そのLINEを最後に、ようやく連投が収まった。
「一回無視しようかな。返信したら五倍で返って来そう」
「もうさ、お店行って話してきた方が早いって。LINE一つでそんな良い顔しちゃってさ」
陽葵の言葉に「ん?」と首を傾げる。
「会いたいんでしょ?」と続いた陽葵の言葉に、今度は大きく首を横に振った。
「え? いや! 誰に? え、待ってそんなんじゃないよ!? 推し活仲間!」
「推し活! 仲間!」と熱弁するも、二人とも目を細めてニヤァと嫌な笑い方をする。
この顔になったら、もう二人とも聞く耳は持ってない。ここは黙った方が得策だ。
乃々はムッと頬を膨らませメニュー表を手に、店員さんを呼ぶ。
「あーあ、私も少し良い額縁買っちゃおうかな」
「良いじゃん。次は飾っちゃえ飾っちゃえ」
あれこれ勝手に注文している乃々の正面席で、恵美がそんな事をぽつりと零したのは、陽葵にしか聞こえていなかった。
※
気分は一気に地の底に。
頭から冷水を掛けられたようだとは、よく言ったものだ。
ここ最近浮かれていた頭が、強制的に冷まされた。
週明け、いきなり仕事でミスをした。
とんでもない重大なミスという程ではないが、同じ部署の何人かが巻き込まれて少しばかり残業をするはめになった。
「珍しいね、乃々がこんなミスするなんて。気付かなかったけど、もしかして調子悪かったりしない? 大丈夫?」
一緒に残ってくれた真澄にそんな心配を掛けてしまうくらいに、乃々らしくないミスだった。
「ううん、大丈夫全然元気。ごめんね真澄、結婚式の準備で忙しい時に……。みんなもごめん! もう後は一人で出来るから、みんなは先に上がってー!」
無理に明るく、反論を許さぬ勢いでみんなの尻を叩き、オフィスから半ば追い出してしまった。
みんなを見送り、ふぅと席に沈む。
みんなに迷惑をかけて、何をやっているのだろうか。全く申し訳なくて、泣きそうになる。
昼に真澄に結婚祝いの付け襟を渡したばかりだった。
勿論真澄は喜んでくれたが、結婚祝いを頼んでしまったからと、責任を感じてしまっていたらどうしよう。
一人になったオフィス。気持ちが沈んでいく。
仕事をしなくてはとパソコンに向かうが、どうにも進みが遅い。
気付けば、パソコンの横に座らせた、推しあみぐるみをただぼんやりと眺めていた。
まだ月曜日なのになと、スマホを取りだし自然と指はLINEを開いていた。
表示されているのは、昨日のテンションの高い恭介のLINE。
下の入力の所をタップしてから、ふと我に返った。
何でLINE? 何で恭介? 何を打とうとしたの?
仕事のミスが頭から吹き飛ぶ衝撃。
何故? ラジオじゃなくて?
いつも残業する時は、こっそりラジオだったじゃないか。
しばらく恭介とのやりとりを遡って、乃々は何も送らずそのままスマホを置いた。
※
いつもより随分早く起きたと言うのに、驚くほど目は冴えている。
着物よし、飾り帯紐よし、帯もよし。
今日は待ちに待ったライブ当日。
わざわざ車で迎えに来てくれた恭介は、もうすでに乃々が刺繍したシャツを着て、更にハチマキもしていた。
「ハチマキー! それって十周年の時のグッズ!?」
「おう! 出戻り乃々は持ってないだろうから、自慢してやろうって思ってな」
着物を着ているのも忘れ、ドタバタと助手席に乗り込む。
まじまじと見るハチマキは、ほぼ新品。きっと使わず大事に保管していたのだろう。
そこまでして自慢!? と思いながらシートベルトを締めると、隣から鼻をすする音が。
恭介を見れば、何故か一人泣き出していた。
「何!?」
「いや、こうやってバカ騒ぎしながらライブに行くのなんて、学生の時以来だからさ、なんつーか、感極まって」
「ホントに何」
みるみるグズグズになっていく恭介に、乃々は笑いが止まらない。
ただでさえ帯とシートベルトで苦しいというのに。
「『涙を拭いてっ! 今こそっ』……ぐふっ」
息も絶え絶えでヒィヒィと笑う乃々を尻目に、恭介は車を走らせながら、号泣のまま突然熱唱しはじめた。
そしてついには路肩に車を止め、本格的に泣き始めてしまった。
「無理無理無理無理、お腹痛い止めてもう無理ぃ。オーラスの泣き方っ」
「『うぉ~お~俺たちのぉ~』ぐっうぅ……」
ライブ前から恭介のハチマキは汗でぐっしょり。気合いの入った乃々のメイクも、すっかり崩れてしまった。
会場に響いた綺麗な三本締めと拍手。
いつまで経っても鳴り止まない拍手。それに答えるようにステージ上で何度も頭を下げる推し。
良い夏だ。今年は最高の夏だ。
そんな、最高の夏にしてくれたライブが、無事に終わった。
会場販売分のグッズも無事完売したと、ライブMCで聞いたときは、ファン全員が歓声を上げた。
まだ夢の中のような、余韻覚めやらぬままゾンビのようにのんびりと同じ方向に向かってロビーを歩くファン達。
その波の中に、乃々と恭介もいた。
乃々は他のファン達に写真を撮られていた。
他にも着物の人はいたが、特攻服レベルで気合いの入った乃々の着物はとんでもなく目立っていたようで、写真待ちの列も出来ていた。
「色違いのお揃いの肩のロゴ、お二人にぴったりですね!」
「あ、ありがとうございます……!」
写真を撮っていった可愛らしい女性のそんな言葉に、乃々は何度も頭を下げる。
青いロゴの恭介と、オレンジのロゴの乃々。
肩をくっつけたら一つの長いロゴになる、セットデザイン。
次の人からは、恭介は乃々の肩に腕を回し、ノリノリで写真撮影に答える。
時には二人で後ろを向いて撮ったり、着物の袖を恭介がピンっと引っ張って見やすくしたりと、大盛り上がりな撮影となった。
ようやく全て終わり車に戻った頃には、あれだけいた人がもうまばらになっていた。
車に戻り、ドアを閉める。どちらともなくほぼ同時に、深い深いため息が出た。
「最高だった……!」
乃々がたまらずそんな事を呟けば、恭介は外したハチマキをじっと見つめ、しみじみと泣き出した。
「ここ十年で一番最高のライブだった」
十年。毎年ライブに行き続けた恭介が、少し眩しく見えた。
久しぶりのライブは最高だった。でも、恭介のように感情のままに泣けないのは、一度離れてしまったからなのだろうか。
恭介はスマホを眺めながら、今度はニヤニヤと笑い出す。今の今まで泣いていたのに。
覗き込めば、先ほどの撮影会の様子を撮ったものだった。
フォルダ『乃々 画像数54枚』
「画像すっごく増えてる!」
スマホを覗き込み、思わず叫んでしまった。
「最高の勝負服、ありがとうな。こんなに他のファンと絡んで、連絡先も聞いて、思いっきりバカみたいに盛り上がれたの、この服と乃々のおかげだ」
「背中にあせもが出来そうだけど」付け足されたそんな言葉に、思わず噴き出してしまう。
「着てくれてありがとう。サイズ合ってなかったよね」
「連絡貰ってからダイエット始めたから、ぴったりよ。ぴっちりよ」
「そうなの?」と、改めて恭介を見るも、よく分からない。いつも店ではゆるゆるとしたパーカーを着ているから。
そう言えばと、乃々は思い出した。
ゆるゆるパーカーばかりだったが、ぴったりTシャツで胸を張って見せてきた事が何度か。
てっきりお笑い芸人の真似か何かかと思っていたが、あれはそういう事だったのか。
「次はクリスマスライブですぐに年越しライブだな。来年は記念年だから忙しいぞ」
「クリスマスっぽい図案考えなきゃ!」
「はっ?」と乃々を覗き込んだ恭介の顔。あんなに細い目が、そんなにちゃんと開くんだ。
「ん?」と聞き返すと、恭介は鼻で笑うだけ。
「おまえなぁ……まぁ、いっか」
「何よぉ。あ、そんなことより、MCの後の曲の繋ぎ方凄くなかった!?」
乃々は恭介をさらっと無視し、まくし立てるようにしゃべり倒す。なんと言ったって久しぶりのライブだったのだから。
そのまま二人は、自宅に着くまでライブの感想と次回の勝負服の話で盛り上がった。
※
昼休み、乃々はお弁当を食べながら、先日の写真を見返していた。
化粧の崩れた赤ら顔の自分が、今更ながらに恥ずかしい。しかし、その何倍も号泣してぐちゃぐちゃの顔の恭介を見たら、またあの日の思い出がぶわっと蘇ってくる。
廊下を小走りでやってきた真澄が、ニヤニヤとしながら押し潰すように隣に密着して来た。
そしてしっかり、乃々のお弁当から卵焼きを取って口に放り込む。
「取ったなー。と言うか重いんだけどー」
「なぁによぉ~。彼氏とのデート写真みーせーてーよー」
乃々にもたれ掛かりながら開いたお弁当の中は、相変わらずチャーハンだった。
「誰? 彼氏?」
ブロッコリーのおかか和えをチャーハンに乗せてやり、乃々はハムの切れっ端を一つもらう。
「その人。恭介さん? しっかりデート楽しんできたんでしょ?」
「話聞かせて~」と尚も絡んでくる真澄を、「違うから!」と、押し返してしまった。
「推し活仲間だってば! もう、男女だからってなんでみんなすぐにそう捉えるのかなぁ」
「えー? だってこれ、この写真。完全に恋人にする顔だよ? めっちゃ顔に好きって書いてあるじゃん」
「ふぇ?」
そういうと、真澄は画像一覧の中から、一枚選びタップする。
それは、笑顔の恭介が乃々の肩を引き寄せている写真だった。
「いや、これは肩のロゴを合わせて一つのロゴに——」
「高さが全然合ってないじゃん。と言うか、ここからずっとこの人乃々の顔しか見てないよ? めちゃめちゃ『俺の女』って他の人にアピールしてるのに」
「気付いて貰えてないのかぁ。頑張れ、恭介さん」と、真澄はオーバーに肩をすくめた。
いやいや、まさかそんな、ね?
何を言っても聞いてくれない真澄を一旦放置し、改めて問題の写真を見る。
これを撮る直前、確か「お揃いの肩のロゴがお似合いです」と言われた。
そしてロゴを繫げるようにして撮った。ただそれだけのはず。はず。
しかし、真澄が言ったように、これ以降の写真全て、恭介は乃々の事を見ていた。
ライブのチケットを取ってくれた。送迎してくれた。当日のご飯は折半だったが、高速代車代は頑なに受け取ってくれなかった。
推し活仲間、のはずだよね。
うんうんと悩む乃々の隣で、ニコォと笑った真澄は、乃々のお弁当からブロッコリーと唐揚げを頂戴した。
その日の夜、帰宅してから改めて乃々は昼に真澄に言われた事を思い出していた。
水槽は相変わらずCDや手芸用品で溢れ、追加で買った水槽には、恭介の店のチラシや恭介オススメの飯屋の切り抜き。それと、ライブ用にと作った、二人分のピアスやチョーカーなど。
そこではたと気付いてしまった。
これは、恭介の水槽だ。
乃々は急いでスマホを取り出すと、恵美と陽葵のグループLINEを開き『緊急!』と送る。
すぐに陽葵から『火事ですか救急ですか』と返信があり、直後恵美から『おっけ、駅前ファミレス集合ね』と来た。
話が早い親友達で助かる。
乃々は会社から帰ったその姿のまま、家を飛び出しファミレスへと向かった。
突然の呼び出しに即応えてくれた二人に、今日の真澄の話と水槽の話、そして恭介フォルダを見せる。
二人ともしばらくスマホを眺めた後、ほとほと不思議そうに顔を上げた。
『不思議』と言うタイトルの絵画でありそうだ。
そんな事を思ってしまうほど、二人の表情が全てを物語っていた。
「え? 付き合ってないの? これで?」
「推し活仲間で……」
「違うって自分でも気付いちゃったんでしょ?」
反論が出来ない。
気付いたような、気付いていないような。気付きたくないような。
「どうしよう」
優しく頷いた二人は、急かすことなく乃々が話し出すのを待ってくれている。
「亀……次は亀を飼う?」
「は?」
乃々の言葉に、陽葵は絶句し恵美は呆れた。
「だって、その、推し活仲間だしさ、いつもみたいに短命のペットだと、さみしいじゃん? まだ繋がっておきたいと言うか、だったら長生きの亀かなって。……と言うか、片思いの諦め方は知ってるけど、進め方は知らないと言うか……まだちょっとこわい」
「もう答え出てんじゃん」とこぼした陽葵の声を、乃々は聞いていなかった。
陽葵がバンッとテーブルに手をつき、勢いよく立ち上がる。
その顔は、怒る直前のお母さんのようだった。
「まだアキラを引きずってるなら、私が漬けて食べてやるから! くったくたの古漬けにしてやるから! その人は、あいつみたいに乃々を束縛して人格否定するような人なの!? 違うでしょ!?」
「そうよ! あのクソ男をズッタズタに引き裂きたくなったら言って! いつでも描けるから! あんなモラハラ男にいつまでも縛られてるんじゃないよ勿体ない!」
だから——
「さっさと行ってきなさい!」
二人の剣幕に押され、ファミレスを飛び出す。
行ってきなさい——どこに?
そんなの、答えはもう出ている。
乃々はそのまま駅裏に回り、あの坂道を駆け上がる。
夜の坂にヒールの音が、心地よく反響している。
坂を登り切ると、道の向こう側に、灯りのついた店が見えた。
自然と緩む顔をそのままに、乃々はヒールを響かせ走り出した。
「私ね、ちょっと良い額縁買ったんだ。次の恋は焼かないで、飾って大事にしたいなって」
「私もさ、実は冷凍してたぬか床捨てたんだよね」
ファミレスに残された二人は、そんな事を言いながら、次の乃々からのLINEが待ち遠しいねと、メニュー表を開いた。




