第五章 重荷
冷たい朝の風が木々の間をそっと通り抜け、柔らかな音色を奏でながら森の中心にいる二人を包んだ。
「ボス……も、もう無理です」リサが息を切らして呟いた。額から首筋へと汗が流れる。力の抜けた目でアセプを見上げ、口が半開きになっていた。手はまだしっかりと握りしめている。
「まだ五分だよ」アセプが答えた。「今度は持ち替えて」
震える左手がダンベルをもう一方の手に移した。
「五分、同じく」
「えええ!!」リサが叫んだ。
「ほら、さっき自分で言ってたじゃない。『たった一キロですか、ボス?』って」アセプは丸太の上に腰を下ろして、にやりとした。
「そ、そうですけど、はあ……たった一キロですけど、はあ……でも五分を何セットですか、これもう三セット目ですよ」
「トレーニングってそういうもんだよ。短かったらただのウォームアップ。ほら、集中して」アセプが手を叩いた。「ダンベル落としたら、一週間皿洗い担当ね」
「え!? なんで急に罰則が……」リサの歯が食いしばられた。上腕二頭筋が熱い。たった一キロなのに、腕が地面に引っ張られていく。握力が少しずつ抜けていった。
後ろから重い足音と、何かが引きずられる音が聞こえた。
「おー、えらいね。朝からもうトレーニングしてる」ザヒラが腰に手を当てながら、後ろでフーディーを引きずって現れた。
リサが振り返った。「で、デニス……?」苦しそうに呟く。
「どこに連れていくんだ?」アセプが聞いた。
「新しい任務だ」
「昨日のレポート、もう終わったの?」
ザヒラがにやっと笑った。「終わってないけど、プロフィールに『取り込み中』つけるの忘れてた」
「うっかりすぎる」
「いいじゃん」ザヒラは舌を出し、まだ眠っているデニスを引きずりながら去っていった。
「だ、大丈夫ですか、ボス?」リサが聞いた。
「デニス? あいつはいつもああだよ」
「あ、いえ、そうじゃなくて……任務終わったばかりなのに、またもう次の任務って」
「ああ、デニスのことかと思った」
リサはザヒラがデニスを引きずっていく姿が小さくなっていくのを目で追った。
「リサ、リサ、もうダンベル置いていいよ」アセプが呼んだ。
リサはきょとんとしてから、自分の手を見下ろした。もうほとんど青くなっていた。
「あ、そうか……」
ようやく感覚が戻ってきて、すぐさま床に放り投げた。何度か手を開いたり閉じたりする。腕の筋肉がふっと軽くなった――というより、空っぽになった感じがした。
「なんで気がつかなかったんだろ」リサは腕をさすりながら呟いた。
アセプは頬をかいた。「あのうるさい女の引力じゃない?」
確かに。だから昨日から身構えてたんだ。
「そうそう、さっきの任務の話だけど、実際には終わったばかりでもまた受けることはできるよ」
「休みなしってこと?」リサが小さく聞いた。
「一応あるよ。腕時計のインターフェース開いてみて」
リサは手を上げた。腕時計がない。
「忘れてきた?」
リサは首の後ろをかきながら頷いた。アセプは目をこすって小さくため息をついた。「腕時計はお前の命の半分だよ。次からは絶対外さないで」
アセプはリサの隣に立ち、自分の腕時計のインターフェースを開いた。「プロフィールのとこに選択肢がある。緑が"待機中"、オレンジが"取り込み中"、赤が"休暇中"」
リサは頷きながらアセプの顔写真に目が止まった。変化がない。ID「000000」がはっきりと表示されていた。ミッション完了数と、マイナス235,000ルピ。リサはしばらくアセプを見てから、また数字に目を戻した。
ID 000000……?
「HQも無闇に任務を振るわけじゃないよ。前の任務が重かったなら、待機中にしてても次は来ない」アセプが続けた。「リサ?」
「あ、はい? どうしました?」
「そんなに疲れてる?」
「あ、違います……大丈夫です、ちゃんと理解できました」リサは親指を立てた。
「本当に? じゃあ言ってみて」アセプの目が細くなった。
「あ……えっと……」
アセプは少し休憩を取ることにした。十五分があっという間に過ぎた。座ったばかりの気がするのに、リサはもうダンベルを持ち上げなければならなかった。
「ボス?」
「ん?」
「これって本当に必要ですか?」
「技術的な訓練だと思ってたんですけど、はあ……これただの体力トレーニングじゃないですか?」リサはダンベルを横に振りながら息を切らした。
「俺から技術を習おうとしてるなら間違いだよ、そんなに規律正しくないから」アセプは顎を叩いた。「技術が学びたいなら……別の師匠を探して」
振りのスピードが落ちた。太陽の熱がもう頭まで届いていた。アセプはトレーニングを切り上げ、リサを拠点へと連れ戻した。
***
さらりとした水が流れる。濡れた髪がタオルの上でまっすぐ肩に垂れていた。
「はあ……気持ちいい」
リサはそっと頬をなでながら椅子に腰を下ろした。タオルで濡れた髪を軽く叩く。その時、光の反射が目に入った。黒いビニール袋の中の何かが光っている。
「ん? なんだこれ」
一つ手に取った。薄い楕円形の金属で、シルバーのアクセントが入っており、中央に小さなナイフが隠れていた。
「あ……ザヒラのガントレット忘れてる……」ドアにもたれかかっていたアセプが言い、リサを少しびくっとさせた。「ちょうどいい、俺ちょっと用事があるから、リサ届けてきて」
「え? どこに届けるんですか?」
「腕時計のメンバー欄開いて、ザヒラの位置を追って。早めに頼む、今任務中でドラウンドを追ってるから」
「えええ!?」
リサの手に力が入った。ガントレットをしばらく見つめた。唾を飲み込む。
「ドラウンド……」リサが呟いた。
視界が暗くなった。ガントレットの影から拳が飛び出してきて、顔すれすれをかすめるような気がした。突然、首筋に鋭い痛みが走り、頭が前に押し倒された。「早く行け、ぼーっとするな」アセプが叩いた。
「は、はい、今行きます」
首をさすりながら、リサは準備のために自分の部屋へと戻った。
***
リサは騒がしい足音を立てながら、さっきからずっとくるくると回り続けるGPSを見つめていた。
左に曲がる、行き止まり。
引き返して右のルートを取る、また行き止まり。
「このGPS、おかしい、 時間がないのに」
向きを変え、路地の出口を探した。さっき通ってきたルートを逆にたどる。路地が分岐していた。リサはGPSを確認したが、分岐は表示されていない。
「ど、どうしよう? どっちの道……路地が分かれすぎてる」一本に見えた路地が全部それぞれ枝分かれしていた。リサは髪を引っ張りながら、ゆっくりと後退した。道を聞ける人が一人もいない。その時、上からプロペラの音が降ってきた。
「おい、なんでそんなとこでうろうろしてんの?」スピーカーからデニスの声が聞こえた。
「デ、デニス?」
「ザヒラ先輩のガントレット届けに来たんだけど……GPSがおかしくて」リサが続けた。
「お前がおかしんだよ!さっきからぐるぐる回ってるじゃないか。俺のドローンについてきて。早くして、こっちはめちゃくちゃだ」
リサはガントレットをしっかりと握り直して走り出した。向こうから重い息を切らした足音が近づいてきた。黄緑色の服を着た人が逆方向へと走り去っていく。リサは一瞬足を止めて後ろを振り返った。路地の角を見渡したが、曲がり角が多すぎて何も見えない。
「今のは誰?」リサは囁いた。プロペラ音が耳元に迫った。
「早くしろ、馬鹿!」デニスが怒鳴った。リサは反射的に耳を塞いだ。
「わ、わかった」
最後にもう一度後ろを振り返ってから、リサはデニスのドローンの後を追った。路地が狭くなっていく。歩くたびにドアと窓が視界に入ったが、中から音は一つも聞こえなかった。光が差し込んできた。路地を飛び出すと、デニスが前に立っていた。路地の出口からそのままつながっているビルの上だった。
「デ、デニス」
デニスは何も言わずリサの手からガントレットをひったくり、前に投げた。
「ちょ、何する――」リサが叫んだ。
目がガントレットを追った。そして、息が止まった。体が小刻みに震え始めた。鉄の匂いが空気中に漂っている。
血が……あちこちに飛び散っていた。完全武装した人たちの体から、まだ血が流れていた。
土煙も泥も、もう何も誤魔化してくれなかった。胃の中から不快感が込み上げ、喉を焼いた。ゆっくりと下を見た。足から力が消えていく。
ザヒラが両方の脛にガントレットをはめているのが見えた。
「ありがとリサ」ザヒラが足を軽く振りながら叫んだ。「最初からあれば、もっと早く終わってたのに」
その後ろに、黄緑色の服に黒い模様が入った二体のドラウンドが倒れていた。
「そ、その服……」リサが震えた。
目が大きく開いた。リサは背後の路地へと振り返った。
シュッ――
視界が前に戻った。ザヒラが地面を蹴って走り出す。ドラウンドが気づき、右の黒い腕を前に振った。ザヒラはドラウンドの足の間をすり抜けるように滑り込んだ。右のガントレットから小さなナイフが飛び出した。
左足がしっかりと地面を踏み、右足が高く飛んだ。首への鋭い蹴り。ナイフが引っかかり、血がゆっくりと滲んだ。飛び上がってドラウンドの頭を掴み、膝を首に叩き込んだ。ドラウンドは勢いよく顔から地面に倒れた。
ナイフを引き抜き、体を斜めに傾けてそのまま真後ろに蹴り出した。別のドラウンドが攻撃してきたちょうどその瞬間だった。小型ドローンが一斉に飛んできて、そのドラウンドの背中に強烈な電撃を浴びせた。
「ぐああああっ!!」ドラウンドが後ろへと倒れた。二体のドラウンドから黒い闇がゆっくりと消えていった。
「南に二体の気配あり」デニスがインターコムでザヒラに伝え、向きを変えてリサに声をかけた。「リサ、下に降りてザヒラを――」
「リサ?」
リサがいなかった。
***
騒がしい足音だけが耳に響いた。「ど、どっちに行った……さっきはここらへんにいたのに」水が滴る音が反響する。パイプが鋭く唸っている。下水の臭いが細くなっていく息を締め付けた。リサの呼吸がどんどん喉に詰まっていった。
音がない。
背後から誰かがリサの首を絞めた。湿った重い息が耳に降りかかる。
「俺を探してたの?」




