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管の向こうへ

作者: でんでん
掲載日:2026/03/07

 四月、私は大学を卒業して設計開発課に配属された。

 入社式の日、総務の担当者から渡された名刺入れは、まだ一度も開いていない。私の名刺を受け取る相手が、今のところ誰もいないからだ。

 設計開発課には、私を含めて七人が在籍している。課長の田端さんは五十八歳で定年まであと二年、主任の小原さんは四十七歳、あとは三十代後半から四十代の先輩ばかりで、私とは二十歳近く離れている。私と同じ電気設計を担当する先輩は二人いて、どちらも四十歳前後だった。十数年ぶりの大卒新入社員だと入社前から聞かされていたが、実際に顔を並べてみると、その「十数年」という時間の重さが、じわじわと皮膚に染み込んでくるようだった。同期は私一人だった。

 この会社を選んだのは、就職活動をさっさと終わらせたかったからだ。大手就職サイトには掲載されておらず、ハローワーク経由で見つけた求人票だった。面接は二回で内定が出た。気づいたら承諾していた。今思えば、あの軽率さが全ての始まりだったのかもしれない。

 設計開発課に、橋本という男がいる。私より二歳年下だ。工業高校の情報科を出て製造課に入り、一年前に設計開発課へ異動してきたらしい。担当はソフトウェアで、組み込み系のプログラムを書いている。社長が直々に「あいつは使える」と言ったとか、言わなかったとか。そういう話が、昼休みの給湯室でさりげなく私の耳に入ってきた。

 橋本は確かに仕事ができた。入社後しばらくは電気とソフトの垣根なく基礎研修があり、Pythonを学ぶ時間が設けられていた。私が配列の扱い方でつまずいていると、橋本は自分のデスクから立ち上がり、「ちょっと貸してください」と私のパソコン画面を覗き込んだ。説明は丁寧で、私が首をかしげるたびに言い方を変え、別の例を出し、最終的に私が「わかりました」と言うまで付き合ってくれた。

 ありがたかった。ありがたかったのだが、私はその時間が苦痛でもあった。

 橋本は二歳年下で、この職場での経験も私と大して変わらないはずなのに、彼は明らかに仕事ができた。説明を受けながら、私はその差をまざまざと突きつけられているような気がした。橋本が「わかりましたか?」と聞くたびに、私は「はい」と答えた。しかし本当のことを言えば、わかっていない部分がまだ残っていた。そしてわからないと言えない自分が、さらに嫌だった。ある時、私が説明の内容をどこか的外れに解釈して答えてしまったのだろう、橋本の口元がふっと緩んだ。笑い、と呼ぶには静かすぎたが、嘲るような色が確かにそこにあった。橋本はすぐに表情を戻して説明を続けたが、私はその一瞬をしばらく忘れることができなかった。

 入社以来、大学時代の生活リズムがいまだに戻らず、十二時前には布団に入るのに、なかなか眠れない夜が続いていた。翌朝は頭の中に霧がかかったような状態で出社する日が多かった。仕事中にぼうっとしてしまう。上司の説明が頭に入ってこない。質問すれば良いと分かっていても、口を開けない。この会社では、私だけが空気の密度を読めていないような、そんな感覚がずっとついて回っていた。なぜ自分はうまく説明ができないのか。なぜ人から説明されても理解できないのか。なぜわかるまで質問しようとしないのか――夜になるたびに、そういう問いが頭の中を旋回した。答えは出ないまま、また朝が来た。

 入社から三ヶ月が経った七月のある朝、課長の田端さんが私の席に来て言った。来週の土曜、社内イベントで渓流釣りがあるんだけど、参加するよう主催者に話しといたから、よろしくね――確認でも依頼でもなく、既成事実の伝達だった。気が進まなかった。休日を会社の人間と過ごすことへの気乗りのしなさ、それ以上に、会話を続けなければならない時間への恐怖があった。橋本のあの笑いが頭にちらつき、また何か場違いなことを言ってしまうのではないかと思うと、余計に億劫だった。

 当日は八人で、二台の車に分かれた。私は同じ課の先輩と、製造課の人間と一緒の車になった。橋本は別の車だった。それだけでほんの少しだけ、気が楽になった自分に気づき、そのことが改めて嫌だった。行き先は奥多摩の氷川国際マス釣場だった。

 飯能寄居線から青梅街道に入り、山に挟まれた道を走るうちに、景色が急激に変わっていった。東京という言葉から連想するものが、窓の外から消えていく。コンクリートの壁が木々に変わり、排気ガスの匂いがいつの間にか消え、開けた場所では奥多摩の山並みが青く霞んで見えた。私は普段ほとんど音楽を聴かないのに、この日はイヤホンを外したまま、ただ景色を見ていた。奥多摩まで続く山道は、一車線の区間もあり、対向車が来るたびに先輩がゆっくりと端に寄せた。崖沿いの区間では、窓の下に渓谷が見え、透明な川が岩の間を縫うように流れているのが見えた。水の色は、都市部の川とはまるで違う。どこか別の惑星の水のような、澄み切った青みがかった緑色をしていた。

 駐車場に着いた時、私は思わず車の外に出るのを止まった。

 川の向こう岸に、プラント施設が鎮座していた。

 最初、私はそれが何なのか判断できなかった。山の緑と川の青の中に、金属と機械の塊が唐突に現れたのだ。一瞬、目の焦点が合わなくなるような感覚があった。圧倒的だった。施設の規模は、近づくほどに把握が難しくなる。建屋がいくつもあり、大きいものは三階建て以上はあるだろうか、小さいものは小屋のようでもあるが、それらが一本一本の管によって互いに接続されていた。管の太さは様々で、人の胴回りほどもある巨大なものから、腕ほどの細さのものまで、何十本、いや何百本もの管が、縦横斜めに伸び、交差し、折れ曲がり、また別の建屋へとつながっている。ある管は地面を這い、ある管は空中を横切り、またある管は梯子のような支柱に抱かれて斜面を登っていく。その全体を一目で把握しようとすると、視線がどこかで迷子になる。まるで巨大な迷宮の断面図を、立体のまま外に引き出してしまったような――いや、それよりももっと有機的な何かだ。人間が意図して設計したはずなのに、まるで長い年月をかけて自然に成長した生き物のように見えた。金属の管の表面には、何十年もの風雨を受けた錆と、補修のペンキが幾層にも重なり、それがまた独特の色と質感を生み出している。所々に取り付けられたバルブや計器が施設の至る場所に点在しており、それぞれが何らかの目的を持って配置されているはずなのだが、その目的を外から読み取ることは、私には到底できなかった。山の稜線を背景に、その施設はひたすらに複雑であり、ひたすらに巨大だった。川の音と山の静けさの中で、あの金属の塊だけが、別の時間を生きているように見えた。

「なんすかあれ、すごいですね」

 隣に立っていたのは、橋本だった。いつの間にか別の車から降りてきていた。私はその声に驚いて、少しだけ体が固くなった。

「水道とか、発電とか、そういう施設じゃないですか」と私は言った。「よくわからないけど」

「あの管の組み合わせ方、なんか設計図見てるみたいですよね」橋本はそう言い、目を細めて施設を見た。「でもあれ、設計図じゃ絶対に全部収まらないですよ。何枚あっても足りない」

 私は答えなかった。ただ、橋本が言ったことを頭の中で反芻していた。何枚あっても足りない設計図。あの複雑さを、誰かが一本ずつ考えて引いたのだとしたら。

「誰が作ったんですかね、あんな場所に」橋本はそう言って、少し間を置いてから「行きましょうか」と踵を返した。私はもう一秒だけ施設を見てから、その後に続いた。

 釣りは不得意だった。竿の持ち方から先輩に教わり、二時間で四匹釣れた。隣で先輩社員が七匹釣り上げ、別の場所では橋本が淡々と糸を垂らしていた。渓流の水は冷たく、流れに手を浸すと指の感覚がすぐに薄くなった。岩の上に立って竿を持ちながら、私は久しぶりに何も考えていなかった。考えようとしても、水の音と山の緑が思考を溶かしてしまうようだった。魚が針にかかる感触は、最初は驚くほど強く、次第に落ち着いて対処できるようになった。それでも橋本の方が釣れていた。終わりに集計すると、橋本は六匹だった。

 昼食の時間になり、釣り場のテーブルに皆で座った。塩焼きにされたマスが配られた。炭火の匂いと、川の冷たい空気が混ざり合って、なんとも言えない良い匂いがした。私は自分が釣った魚だと言い聞かせながら箸を入れた。骨を除けながら、これが自分で釣ったものだということが、少しだけ誇らしかった。田端課長が何かの失敗談を話し、製造課の人が笑い、誰かが冗談を言った。私はそこに混ざれなかった。混ざろうとしていなかった、というのが正確かもしれない。橋本は、そういう時間の使い方がうまかった。誰かの話に少し笑い、自分の話は少ししかせず、でも場の空気に収まっていた。無理なく、でも流されてもいない。

 食事が終わり、皆が立ち上がる頃、橋本が私の隣に来て言った。あのプラント施設、帰りにちょっと近くで見られますかね――さあ、敷地内かもしれないし、と私は言った。そうですよね、と橋本は言った。それだけだった。だが橋本は歩き出す前に少し立ち止まり、川の向こうの施設をもう一度だけ見た。その目は朝に見た時と同じ目だった。からかいでも衒いでもなく、ただ興味のある目だった。私はその目を、今度はまっすぐ見ることができた。

 帰りの車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。来る時と同じ山道を、来た時とは逆方向に走っていく。山が後ろに流れ、少しずつ民家が増え、信号が現れ、コンビニが見えてくる。奥多摩で確かに感じた何かが、東京に近づくにつれて薄れていく。

 私は何が嫌なのだろう、とぼんやり考えた。

 橋本のことが嫌いだ、とずっと思っていた。あの笑いを思い出すと、今日一日橋本と同じ場所にいたことが改めて腹立たしかった。プラント施設を見た時の「誰が作ったんですかね」という言葉も、何か自分を試すように聞こえた。しかし少し経つと、その苛立ちの裏側に別の感情があることに気づいた。では私は本当は何に傷ついていたのか。答えはわかっていた。わかっていたから、ずっと考えないようにしていた。

 私は、橋本よりも仕事ができなかった。それだけだ。学歴も、年齢も、本当は関係なかった。私は単純に、今この職場で、橋本よりも役に立っていなかった。その事実を認めることが、どうしてもできなかった。認めてしまったら、大学の四年間は何だったのか、という問いが待っているから。認めてしまったら、自分が「適当に選んだ会社」にいる理由が、ますますわからなくなるから。

 窓の外に、オレンジ色の西日が差し込んできた。山の端に太陽が半分だけ残っていた。

 家に帰ってから、シャワーを浴びて、布団に入った。眠れなかった。大学時代の癖で、夜中の一時を過ぎても目が冴えていた。天井を見上げながら、プラント施設の管の組み合わせを思い出した。複雑に絡まっているくせに、どこかに設計の意図があるはずの構造。あれを誰かが設計したのだとしたら、それは途方もなく根気のいる仕事だったろう。一本の管を引くとき、その管は他の管とどこかでつながっている。つながった先でまた別の管がある。その全体を頭の中に保ちながら、一本ずつ引いていく――そういう仕事を、誰かがやり遂げた結果があの施設なのだ。

 私はまだ、設計というものが何なのか、ほとんどわかっていない。三ヶ月働いて、わかったことよりもわからないことの方が多い。自分の説明が下手なのか、相手の説明を理解できないのか、それとも質問すること自体への恐怖があるのか。夜になると、そういう問いが頭の中で渦を巻く。そして朝になると、また仕事が始まり、私はまたぼうっとしたまま一日を過ごす。

 橋本が「誰が作ったんですかね」と言った時の顔を、もう一度思い出した。羨ましかった、と気づいた。あの目の向け方が。見ているものに素直に興味を持てる、あの単純さが。私は川の向こうのプラントを見た時、何を考えていたか。管の組み合わせ方に見入る前に、橋本が隣に立っていることに気づいてしまった。気づいた途端、素直に見ることをやめてしまった。何かを面白いと感じるより先に、誰かとの比較が入り込んでくる。そういう回路が、いつの間にか私の中に出来上がっていた。

 いつからそうなったのだろう。

 天井を見上げながら、私は初めてその問いに向き合った。大学の四年間は何だったのか。正直に言えば、大した勉強はしていなかった。単位を落とさない程度に授業に出て、就職活動を早く終わらせることだけを考えて、特に将来の夢も、やりたいことも、深く考えないまま卒業した。大学に行ったことへの意味を、私は自分自身に証明できていなかった。だから橋本が怖かったのだ、と気づいた。橋本が仕事ができることは、私が大学で何もしてこなかったことの証明のように見えた。あの笑いには確かに棘があった。それでも橋本が悪意だけの人間だとは思えなかった。問題の半分は橋本にあり、もう半分は自分にあった。橋本の存在が、私の空洞を照らし出す光のように感じられた。だから私は目を背けた。比較した。線を引いた。

 窓の外に、月の明かりが差し込んでいた。

 プラント施設の管を思い出した。あの無数の管も、最初の一本は引かれなければならなかったはずだ。どこから始めるか、誰かが決めなければならなかった。その最初の一本を引いた人間は、完成形を知らないまま始めたのだろう。私は、まだ何も始めていなかった。

 結局、どこへ行っても同じことを繰り返すのだろう、と思った。別の会社に入っても、別の職場に配属されても、この感覚はついてくる。橋本が問題なのではない。この会社が合わないのでもない。変わらなければいけないのは、私自身だ。

 ただ、何をどう変えればいいのかが、わからなかった。

 質問できないこと、説明が下手なこと、比較する癖が抜けないこと。どれも「直せばいい」と言葉にするのは簡単だが、どこから手をつければいいのか見当がつかない。回路図で言えば、どこがショートしているのかもわからないまま、電源だけ入れようとしているような状態だ。それでも今夜、少なくともひとつだけわかったことがあった。問題が橋本にあるのではなく、自分にある――そこまでは、たどり着いた。それだけでも、昨日までとは少し違う夜だった。

 月曜日、出社すると橋本はもう席にいた。私は鞄を置き、パソコンを立ち上げながら、一度だけ深呼吸した。

「橋本さん」

 呼んだ声は、自分でも驚くほど普通だった。橋本が顔を上げた。

「先週の続きで詰まっているところがあって、時間ある時に聞いてもいいですか」

 橋本は一秒ほど私の顔を見てから、「今でもいいですよ」と言った。私は画面を橋本に向けた。三週間前から止まったままのPythonのコード、変数の受け渡しでどこかがおかしくなっている部分、研修の範囲だが質問したいと思いながらできずにいた部分。それを一つずつ言葉にした。橋本は画面を覗き込みながら、静かに頷いた。そして前と同じように、私が理解するまで付き合ってくれた。今回は違うところがあった。私が途中で「ここはどういう理由でそうなるんですか」と聞いたのだ。以前の私には、それができなかった。わかったふりをして頷いて、また夜に一人で悩むのが、これまでのやり方だった。あ、そこ大事なところで――と橋本は言い、少し身を乗り出した。説明が変わった。より根っこのところから話してくれた。三十分後、私はそれを理解していた。

 橋本が自分の席に戻る前に、私は言った。ありがとうございます、聞けてよかったです。橋本は「いえ」と言って、少し間を置いてから「また聞いてください」と言った。それだけだった。しかしその言葉は、前に同じようなことを言われた時とは、受け取り方が違った。

 それから一ヶ月が経った。相変わらず朝は重かった。夜中に眠れない日もあった。自分の発言が場にそぐわないと感じる瞬間は、まだあった。橋本とぎこちなくなる瞬間も、なくはなかった。しかしひとつだけ、変わったことがあった。わからない時に、質問するようになった。それだけのことだった。しかし、そのたった一つのことが、それまでの毎日とは何かが違った。わからないまま夜を迎えることが、少し減った。翌朝の霧が、少し薄くなった。

 ある午後、橋本が私のデスクにやってきて、研修で使ってたコード、こっちの書き方の方がすっきりしますよ、と画面を指した。聞かれてもいないのに、教えてくれた。

「なんで情報科選んだんですか」

 気づいたら、私は聞いていた。橋本は少し意外そうな顔をしてから、中学の頃からパソコンをいじるのが好きで、情報科に進んだんです、と言った。大学に行く気はなかったですね。早くコードを書きたかった。後悔は?と私は聞いた。ないですね、と橋本は少し考えてから言った。それから橋本は、少し間を置かずに言った。さんは大学で何やってたんですか。

 思ったより直接的な問いだった。私は少し黙ってから、正直に言った。まだわかってないです。ここに来たのも、あんまり考えてなかったし。橋本は笑った。あの嘲笑とは違う笑いだったが、どこか遠慮のない笑いだった。それ、最初から言ってたら楽だったかもしれないですね。私は何も言えなかった。しかしそれは、言葉が出ないからではなかった。言葉よりも先に、何かがほぐれていくのを感じていたからだ。遠慮のない人間だとは思ったが、それがこの時だけは不快ではなかった。

 八月の終わり、残業で遅くなったある夜のことだ。課に残っていたのは私と橋本だけになっていた。蛍光灯の白い光の下で、二人それぞれが画面に向かっていた。橋本はソフトのコードを書いており、私はKiCadを開いて回路図と格闘していた。初めて自分の名前が図面に乗るかもしれない仕事だった。まだ小さな部分だが、部品の配置と配線の取り回しがどうにもうまくまとまらず、行き詰まっていた。画面の前で唸っていると、橋本が「どうしました」と聞いた。私は今度は即座に答えた。どこで詰まっているか、何を試したか、何がわからないかを、三ヶ月前よりずっとはっきりした言葉で話した。橋本はソフト担当なので回路の細かい話はわからないと言いながらも、自分の椅子をこちらに向けた。しばらく画面を見てから、こういう整理の仕方もありますよ、と言って、紙に図を書き始めた。

 窓の外は暗く、会社の駐車場に残った車が数台、静かに並んでいた。橋本の書く図が、少しずつ形になっていくのを私は見ていた。線が一本引かれ、また一本引かれ、それらがつながって、構造になっていく。その時、私は奥多摩のプラント施設を思い出した。あの無数の管も、誰かの手で、一本ずつ引かれたはずだった。完成形を知らないまま始めた人間が、少しずつつなげていった結果が、あの壮大な構造物だった。私も、まだ最初の一本を引き始めたところだ。先は見えない。完成形もわからない。それでも引かなければ、何もつながっていかない。

「わかりました」と私は言った。今度は、本当にわかっていた。

 秋になった。

 昼休み、小原主任は給湯室でコーヒーを淹れながら、窓の外をぼんやり見ていた。駐車場の向こうに、薄く色づき始めた木々が見えた。

 背後で引き戸が開き、足音が入ってきた。振り返らなくてもわかった。橋本だ。歩き方でだいたい判断できるようになっていた。

「小原さん、さっきの図面の件なんですけど」

「ああ、あとでいい?今ちょっと頭冷やしてるから」

「わかりました」と橋本は言って、自分のマグカップを棚から取り出した。しばらく二人で黙っていた。

「あいつ、最近ちょっと変わりましたね」と橋本が言った。

 小原主任は特に返事をせず、コーヒーを一口飲んだ。

「最初の頃は、なんか……固かったじゃないですか。質問も全然しないし」

「お前も最初そうだったろ」

「そうでしたっけ」橋本は少し考えるふうな顔をしてから、「そうかもしれないですね」と言った。

 窓の外で、風が木の葉を揺らした。

 同じフロアの、一番奥の席では、あの新入りが画面に向かっていた。KiCadの回路図らしきものが画面に広がっている。時々手を止めて、印刷したデータシートと見比べる。また手を動かす。その繰り返しを、小原主任はなんとなく目で追った。まだぎこちない。まだ遅い。しかし三ヶ月前とは、何かが違う。何がとは言えないが、たしかに違う。

「まあ」と小原主任は言った。「続けばわかるだろ」

 橋本は何も言わなかった。コーヒーを飲みながら、やはり窓の外を見ていた。

 あの新入りは、まだ画面に向かっていた。

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