第9話 初夜のベッドで、私はついに「詐欺」を自白する
浴室の鏡が、白い湯気で曇っている。
私は震える手でそれを拭った。
現れたのは、瑞々しい肌に紅潮した頬、そして健康そのものの肉体を持つ女の姿だった。
「……どうしよう」
私は自分の腹部をさすった。
連日の暴飲暴食にも関わらず、長年の肉体労働で鍛え上げられた腹直筋は、うっすらと縦割れのラインを維持している。
二の腕にも、ふくらはぎにも、病的な衰えなど微塵もない。
むしろ、高カロリーな食事と十分な睡眠のおかげで、肌ツヤは人生最高のコンディションだ。
これから、初夜だ。
公爵夫人となった私の義務であり、夫婦としての最初の儀式。
だが、この体をリュカ公爵に見られれば、一発でバレる。
「死にかけの病人」の体ではないと。
「奥様、お召し替えの準備が整いました」
侍女の声に、肩が跳ねる。
用意されたのは、マダム・ヴェルニエ特製のネグリジェだ。
透けるような薄手のレースとシルクを重ねた、純白の一着。
防御力は皆無に等しい。
私は覚悟を決めて袖を通した。
布地が肌を滑る感触が、ひやりとして心地よいはずなのに、今は処刑装束のように冷たく感じられた。
◇
主寝室の扉が開かれる。
そこは、異世界のような静寂に包まれていた。
部屋の中央には、キングサイズの天蓋付きベッドが鎮座している。
照明は落とされ、暖炉の炎と、数本のアロマキャンドルの揺らめきだけが、部屋を琥珀色に染めている。
甘いイランイランの香りが、湿度を帯びた空気に溶け込んでいた。
窓際に、リュカ公爵が立っていた。
彼は上着を脱ぎ、リラックスしたシャツ姿になっていた。
銀色の髪が暖炉の光を反射して輝いている。
グラスを傾けていた彼は、私が入ってきたことに気づくと、ゆっくりと振り返った。
「……エルナ」
その声は、熱っぽく、そして切なかった。
彼はグラスを置くと、私に歩み寄ってくる。
その一歩一歩が、私の心臓を踏みしめるように響く。
「綺麗だ……」
彼は私の頬に触れた。
指先が熱い。
風呂上がりで火照った私の体温よりも、彼の手の方が遥かに熱を帯びている。
「湯冷めしないうちに、ベッドへ」
エスコートされ、私はふかふかのシーツの上に腰を下ろした。
体が沈み込む。
逃げ場のない、柔らかい檻。
リュカ公爵が隣に腰掛ける。
マットレスが傾き、私たちの距離がゼロになった。
彼の体温、匂い、衣擦れの音が、五感を強烈に刺激する。
「……エルナ」
彼は私の手を取り、指を絡ませた。
恋人繋ぎ。
その力は優しく、けれど絶対に離さないという意志を感じさせる。
「安心してくれ。……何もしない」
「え?」
私は思わず顔を上げた。
彼は苦しげに微笑んでいた。
「君を抱きたい。気が狂いそうなほど、触れたいと思っている。だが……今の君の体力では、耐えられないだろう」
リュカ公爵は、私の肩に額を押し付けた。
「医者が言っていた。『魂が肉体から離れかけている』と。そんな状態で、激しい情動を与えれば……君の魂の糸は、プツリと切れてしまうかもしれない」
彼の体が、小刻みに震えている。
欲望と、理性と、そして恐怖。
相反する感情が、彼の中で激しくせめぎ合っているのが伝わってくる。
「俺は、君を壊したくない。君が隣で息をしていてくれるだけでいい。ただ、こうして体温を感じていられるなら……それだけで十分だ」
嘘だ。
十分なはずがない。
彼は健康な成人男性だ。愛する妻を目の前にして、指一本触れずに朝を迎えることが、どれほどの苦行か。
それを、私のために。
私のついた、くだらない嘘のために、彼は自分を殺して耐えようとしている。
胸の奥が、熱いナイフで抉られたように痛んだ。
罪悪感。
それはもう、限界を超えていた。
この人は、どこまで優しいのか。
そして私は、どこまで愚かなのか。
「……閣下」
私の口が、勝手に動いていた。
「リュカ様」
名前を呼ぶと、彼がビクリと反応して顔を上げた。
アメジストの瞳が、至近距離で私を見つめる。
その瞳に映っているのは、「薄幸の聖女」である私だ。
でも、本当の私は違う。
ただの、仕事から逃げたかっただけの、卑怯な女だ。
「……話が、あります」
「なんだ? 水が欲しいのか? それとも寒気か?」
「違います」
私は彼の手を握り返した。
強く。私の持てる力の全てを込めて。
その強さに、彼が少しだけ目を見開く。
「私の体は、弱くありません」
「……エルナ?」
「魂も、消えかけてなんていません。心臓は毎日元気に動いているし、ご飯だって三人前は食べられます。腹筋だって割れています」
何を言っているんだ、と彼は思っただろう。
熱でうなされているのかと。
けれど、私は止まらなかった。
一度決壊したダムの水は、もう戻せない。
「診断書は、偽造です。私が魔法で書き換えました」
「……は?」
「余命半年なんて嘘です。私は健康です。ただ……仕事が辛くて、貴方が怖くて、逃げ出したかっただけなんです!」
言ってしまった。
部屋の空気が、ピタリと止まる。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、パチリと響いた。
リュカ公爵は、ポカンとしていた。
理解が追いついていない顔だ。
当然だ。
愛する妻が、突然「私は詐欺師です」と自白したのだから。
私はベッドの上に正座し、頭を下げた。
シーツを握りしめた拳が震える。
「ごめんなさい。騙すつもりはなかった……いえ、騙しました。貴方の優しさに漬け込んで、こんなに贅沢をして……貴方の純粋な愛を、踏みにじりました」
涙が溢れてきた。
演技ではない。本物の涙だ。
ボタボタとシーツに落ちて、濃い染みを作っていく。
「もう、耐えられません。これ以上、貴方を騙し続けるなんて……私にはできません。処刑でも、追放でも、どんな罰でも受けます。だから……」
顔を上げられない。
彼がどんな顔をしているか、見たくない。
きっと、鬼のような形相で激怒しているだろう。
あるいは、氷のように冷めきった目で、私を蔑んでいるだろう。
沈黙が続く。
一秒が、一時間のように長い。
やがて。
衣擦れの音がした。
彼が動いた。
来る。殴られるか、怒鳴られるか。
私は身をすくませた。
しかし。
触れたのは、温かい手だった。
彼の手が、私の濡れた頬を包み込み、ゆっくりと顔を上げさせた。
「……エルナ」
恐る恐る目を開ける。
そこにあったのは、怒りではなかった。
安堵。
そして、堪えきれないほどの歓喜の色だった。
「……本当か?」
声が震えている。
「本当に……死なないのか?」
「……はい。ピンピンしてます」
「半年後に、いなくなったりしないのか?」
「はい。あと六〇年は生きる予定です」
「……っ!!」
リュカ公爵が、私を抱きしめた。
今までで一番強く。
肺の空気が全部出るくらいの勢いで。
「よかった……! ああ、神よ……! よかった……!!」
彼は私の肩に顔を埋め、男泣きに泣いた。
子供のように声を上げて。
「嘘でもいい! 詐欺でも何でもいい! 君が生きていてくれるなら、それだけでいいんだ……!」
「え、あの、閣下? 怒らないんですか?」
「怒るわけがないだろう! むしろ感謝したい! 君が健康だと分かった今、これ以上の幸福があるか!」
予想外の反応だった。
彼は私の「罪」よりも、「生存」を喜んでくれている。
その愛の深さに、私は呆然とした。
「それに……」
彼は少しだけ体を離し、涙に濡れた顔で、悪戯っぽく笑った。
「君が健康だということは……つまり」
彼の視線が、私の唇から、首筋、そして胸元へと熱っぽく滑り落ちる。
その瞳の色が変わった。
庇護者としての慈愛ではない。
一人の男としての、捕食者の色だ。
「手加減をする必要は、ないということだな?」
「……え?」
「腹筋が割れているほど頑丈なら、俺がどれだけ愛を注いでも、壊れることはないわけだ」
ゾクリ、と背筋に電流が走った。
空気が変わった。
先ほどまでの清廉潔白な空気は消え失せ、濃厚な雄の色気が部屋を満たしていく。
「覚悟はいいか、エルナ。……今まで我慢していた分、一晩中、徹底的に愛させてもらう」
彼は私をベッドに押し倒した。
視界が回転し、彼の顔が覆いかぶさる。
逃げ場はない。
そして今度は、「病人だから」という免罪符もない。
「待っ、ちょっ、閣下! リュカ様!?」
「逃がさない。君は俺の妻で、しかも健康体だ。……もう、理性なんて保てない」
彼の唇が、私の首筋に吸い付く。
熱い。
火傷しそうなほどの熱量。
これが、「氷の閣下」の本当の温度。
私は悟った。
嘘がバレて処刑されることはなかった。
けれど、別の意味で「死ぬほど」愛される夜が始まったのだと。
(……自業自得だ)
私は彼の背中に腕を回した。
罪悪感は消えた。
代わりに、これからの長い人生を彼と共に歩む覚悟と、とりあえず今夜を生き延びるための気合を入れる。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
私のついた嘘は、こうして甘やかな共犯関係へと溶けていった。
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【ステータス更新】
氏名:エルナ・ヴォルフィード
状態:極めて健康(※夫にバレ済み)
現在地:リュカ公爵の腕の中
ミッション:朝まで生き延びる
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夜は、まだ始まったばかりだった。




