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9/21

第9話 初夜のベッドで、私はついに「詐欺」を自白する

浴室の鏡が、白い湯気で曇っている。

私は震える手でそれを拭った。

現れたのは、瑞々しい肌に紅潮した頬、そして健康そのものの肉体を持つ女の姿だった。


「……どうしよう」


私は自分の腹部をさすった。

連日の暴飲暴食にも関わらず、長年の肉体労働で鍛え上げられた腹直筋は、うっすらと縦割れのラインを維持している。

二の腕にも、ふくらはぎにも、病的な衰えなど微塵もない。

むしろ、高カロリーな食事と十分な睡眠のおかげで、肌ツヤは人生最高のコンディションだ。


これから、初夜だ。

公爵夫人となった私の義務であり、夫婦としての最初の儀式。

だが、この体をリュカ公爵に見られれば、一発でバレる。

「死にかけの病人」の体ではないと。


「奥様、お召し替えの準備が整いました」


侍女の声に、肩が跳ねる。

用意されたのは、マダム・ヴェルニエ特製のネグリジェだ。

透けるような薄手のレースとシルクを重ねた、純白の一着。

防御力は皆無に等しい。


私は覚悟を決めて袖を通した。

布地が肌を滑る感触が、ひやりとして心地よいはずなのに、今は処刑装束のように冷たく感じられた。


     ◇


主寝室の扉が開かれる。

そこは、異世界のような静寂に包まれていた。


部屋の中央には、キングサイズの天蓋付きベッドが鎮座している。

照明は落とされ、暖炉の炎と、数本のアロマキャンドルの揺らめきだけが、部屋を琥珀色に染めている。

甘いイランイランの香りが、湿度を帯びた空気に溶け込んでいた。


窓際に、リュカ公爵が立っていた。

彼は上着を脱ぎ、リラックスしたシャツ姿になっていた。

銀色の髪が暖炉の光を反射して輝いている。

グラスを傾けていた彼は、私が入ってきたことに気づくと、ゆっくりと振り返った。


「……エルナ」


その声は、熱っぽく、そして切なかった。

彼はグラスを置くと、私に歩み寄ってくる。

その一歩一歩が、私の心臓を踏みしめるように響く。


「綺麗だ……」


彼は私の頬に触れた。

指先が熱い。

風呂上がりで火照った私の体温よりも、彼の手の方が遥かに熱を帯びている。


「湯冷めしないうちに、ベッドへ」


エスコートされ、私はふかふかのシーツの上に腰を下ろした。

体が沈み込む。

逃げ場のない、柔らかい檻。


リュカ公爵が隣に腰掛ける。

マットレスが傾き、私たちの距離がゼロになった。

彼の体温、匂い、衣擦れの音が、五感を強烈に刺激する。


「……エルナ」


彼は私の手を取り、指を絡ませた。

恋人繋ぎ。

その力は優しく、けれど絶対に離さないという意志を感じさせる。


「安心してくれ。……何もしない」


「え?」


私は思わず顔を上げた。

彼は苦しげに微笑んでいた。


「君を抱きたい。気が狂いそうなほど、触れたいと思っている。だが……今の君の体力では、耐えられないだろう」


リュカ公爵は、私の肩に額を押し付けた。


「医者が言っていた。『魂が肉体から離れかけている』と。そんな状態で、激しい情動を与えれば……君の魂の糸は、プツリと切れてしまうかもしれない」


彼の体が、小刻みに震えている。

欲望と、理性と、そして恐怖。

相反する感情が、彼の中で激しくせめぎ合っているのが伝わってくる。


「俺は、君を壊したくない。君が隣で息をしていてくれるだけでいい。ただ、こうして体温を感じていられるなら……それだけで十分だ」


嘘だ。

十分なはずがない。

彼は健康な成人男性だ。愛する妻を目の前にして、指一本触れずに朝を迎えることが、どれほどの苦行か。

それを、私のために。

私のついた、くだらない嘘のために、彼は自分を殺して耐えようとしている。


胸の奥が、熱いナイフで抉られたように痛んだ。

罪悪感。

それはもう、限界を超えていた。


この人は、どこまで優しいのか。

そして私は、どこまで愚かなのか。


「……閣下」


私の口が、勝手に動いていた。


「リュカ様」


名前を呼ぶと、彼がビクリと反応して顔を上げた。

アメジストの瞳が、至近距離で私を見つめる。

その瞳に映っているのは、「薄幸の聖女」である私だ。

でも、本当の私は違う。

ただの、仕事から逃げたかっただけの、卑怯な女だ。


「……話が、あります」


「なんだ? 水が欲しいのか? それとも寒気か?」


「違います」


私は彼の手を握り返した。

強く。私の持てる力の全てを込めて。

その強さに、彼が少しだけ目を見開く。


「私の体は、弱くありません」


「……エルナ?」


「魂も、消えかけてなんていません。心臓は毎日元気に動いているし、ご飯だって三人前は食べられます。腹筋だって割れています」


何を言っているんだ、と彼は思っただろう。

熱でうなされているのかと。

けれど、私は止まらなかった。

一度決壊したダムの水は、もう戻せない。


「診断書は、偽造です。私が魔法で書き換えました」


「……は?」


「余命半年なんて嘘です。私は健康です。ただ……仕事が辛くて、貴方が怖くて、逃げ出したかっただけなんです!」


言ってしまった。

部屋の空気が、ピタリと止まる。

暖炉の薪が爆ぜる音だけが、パチリと響いた。


リュカ公爵は、ポカンとしていた。

理解が追いついていない顔だ。

当然だ。

愛する妻が、突然「私は詐欺師です」と自白したのだから。


私はベッドの上に正座し、頭を下げた。

シーツを握りしめた拳が震える。


「ごめんなさい。騙すつもりはなかった……いえ、騙しました。貴方の優しさに漬け込んで、こんなに贅沢をして……貴方の純粋な愛を、踏みにじりました」


涙が溢れてきた。

演技ではない。本物の涙だ。

ボタボタとシーツに落ちて、濃い染みを作っていく。


「もう、耐えられません。これ以上、貴方を騙し続けるなんて……私にはできません。処刑でも、追放でも、どんな罰でも受けます。だから……」


顔を上げられない。

彼がどんな顔をしているか、見たくない。

きっと、鬼のような形相で激怒しているだろう。

あるいは、氷のように冷めきった目で、私を蔑んでいるだろう。


沈黙が続く。

一秒が、一時間のように長い。


やがて。

衣擦れの音がした。

彼が動いた。

来る。殴られるか、怒鳴られるか。

私は身をすくませた。


しかし。

触れたのは、温かい手だった。

彼の手が、私の濡れた頬を包み込み、ゆっくりと顔を上げさせた。


「……エルナ」


恐る恐る目を開ける。

そこにあったのは、怒りではなかった。

安堵。

そして、堪えきれないほどの歓喜の色だった。


「……本当か?」


声が震えている。


「本当に……死なないのか?」


「……はい。ピンピンしてます」


「半年後に、いなくなったりしないのか?」


「はい。あと六〇年は生きる予定です」


「……っ!!」


リュカ公爵が、私を抱きしめた。

今までで一番強く。

肺の空気が全部出るくらいの勢いで。


「よかった……! ああ、神よ……! よかった……!!」


彼は私の肩に顔を埋め、男泣きに泣いた。

子供のように声を上げて。


「嘘でもいい! 詐欺でも何でもいい! 君が生きていてくれるなら、それだけでいいんだ……!」


「え、あの、閣下? 怒らないんですか?」


「怒るわけがないだろう! むしろ感謝したい! 君が健康だと分かった今、これ以上の幸福があるか!」


予想外の反応だった。

彼は私の「罪」よりも、「生存」を喜んでくれている。

その愛の深さに、私は呆然とした。


「それに……」


彼は少しだけ体を離し、涙に濡れた顔で、悪戯っぽく笑った。


「君が健康だということは……つまり」


彼の視線が、私の唇から、首筋、そして胸元へと熱っぽく滑り落ちる。

その瞳の色が変わった。

庇護者としての慈愛ではない。

一人の男としての、捕食者の色だ。


「手加減をする必要は、ないということだな?」


「……え?」


「腹筋が割れているほど頑丈なら、俺がどれだけ愛を注いでも、壊れることはないわけだ」


ゾクリ、と背筋に電流が走った。

空気が変わった。

先ほどまでの清廉潔白な空気は消え失せ、濃厚な雄の色気が部屋を満たしていく。


「覚悟はいいか、エルナ。……今まで我慢していた分、一晩中、徹底的に愛させてもらう」


彼は私をベッドに押し倒した。

視界が回転し、彼の顔が覆いかぶさる。

逃げ場はない。

そして今度は、「病人だから」という免罪符もない。


「待っ、ちょっ、閣下! リュカ様!?」


「逃がさない。君は俺の妻で、しかも健康体だ。……もう、理性なんて保てない」


彼の唇が、私の首筋に吸い付く。

熱い。

火傷しそうなほどの熱量。

これが、「氷の閣下」の本当の温度。


私は悟った。

嘘がバレて処刑されることはなかった。

けれど、別の意味で「死ぬほど」愛される夜が始まったのだと。


(……自業自得だ)


私は彼の背中に腕を回した。

罪悪感は消えた。

代わりに、これからの長い人生を彼と共に歩む覚悟と、とりあえず今夜を生き延びるための気合を入れる。


窓の外では、月が静かに輝いていた。

私のついた嘘は、こうして甘やかな共犯関係へと溶けていった。


--------------------------------------------------

【ステータス更新】

氏名:エルナ・ヴォルフィード

状態:極めて健康(※夫にバレ済み)

現在地:リュカ公爵の腕の中

ミッション:朝まで生き延びる

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夜は、まだ始まったばかりだった。


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