第8話 誓いの口づけは、沈黙する鐘の下で
王都中央大聖堂。
その巨大な両開きの扉が、重々しい音を立てて開かれた。
「新郎新婦、入場!」
ファンファーレが高らかに鳴り響く。
パイプオルガンの荘厳な旋律が、石造りの床を振動させ、私の足裏から骨盤へと直接響いてくる。
まばゆい光の洪水。
ステンドグラスを通した極彩色の陽光が、堂内をモザイク模様に染め上げている。
その光景は天国のように美しいはずなのに、私の網膜には、針のむしろのように焼き付いた。
「……行くぞ、エルナ」
リュカ公爵が、私の手を引く。
彼の掌は汗ばんでおり、小刻みに震えていた。
武人として幾多の死線を潜り抜けてきた彼が、たかが結婚式で震えている。
その事実が、私の胃袋を雑巾のように絞り上げた。
私たちは、真紅の絨毯を踏み出した。
ザッ、ザッ、ザッ。
一歩進むたびに、数百人の視線が突き刺さる。
参列した貴族たちのさざめきが、波のように押し寄せてくる。
「見ろ、あれが噂の……」
「なんて白いんだ。まるで透き通るようだ」
「立っているのがやっとじゃないか……」
彼らの目は、感動しているのではない。
「死にかけの花嫁」という珍しい見世物を、好奇の目で見ているのだ。
彼らの言う通り、私は立っているのがやっとだった。
感動のせいではない。
マダム・ヴェルニエが締め上げたコルセットが肋骨を圧迫し、酸素供給量を極限まで制限しているからだ。
視界の端がチカチカと明滅し、酸欠によるめまいが世界を揺らしている。
「……!」
ふらり、と膝が折れかけた。
すかさず、リュカ公爵の腕が私の腰を支える。
強い力だ。
彼は前を向いたまま、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「もう少しだ。祭壇まで、俺が運ぶつもりで支える」
「……すみません」
「謝るな。君がここに立ってくれているだけで、奇跡なんだ」
違う。
私が立っていられるのは、昨日の夜食に食べたクッキーのカロリーと、背筋の筋肉のおかげだ。
けれど、そんな真実を口にすれば、この荘厳な空気は一瞬で凍りつくだろう。
長い、長い道のりだった。
祭壇までの数十メートルが、永遠のように感じる。
濃厚な乳香の香りが鼻をつき、喉の奥をイガイガと刺激する。
咳き込みそうになるのを必死で堪える。今ここで咳をすれば、「喀血の前兆か!?」と大騒ぎになるのは目に見えている。
ようやく、祭壇の前に辿り着いた。
そこには、純白の法衣を纏った最高司祭が待っていた。
先日の薄汚い神殿長とは違う、本物の聖職者だ。
その厳格な瞳が、私とリュカ公爵を見下ろす。
「……これより、星神の御名において、二人の魂を永遠に結びつける」
司祭の声が朗々と響く。
誓いの言葉。指輪の交換。
それらが滞りなく進み、いよいよ最後の儀式へと移る。
「では、新婦エルナ。この『審判の宝珠』に手をかざし、偽りなき愛を誓いなさい」
司祭が差し出したのは、台座に乗せられた巨大な水晶玉だった。
内部で青白い光が渦を巻いている。
(……え?)
心臓が、早鐘を打った。
聞いていない。そんなアイテムが出るなんて。
「この宝珠は、触れた者の魂の色を映し出す。曇りなき愛ならば青く、偽りや邪念があれば赤く輝く。さあ、貴女の清らかな心を神に示すのです」
血の気が引いた。
嘘発見器だ。
しかも、ファンタジー特有の、ごまかしのきかない魔道具タイプだ。
(まずい。絶対に赤く光る)
私の心は嘘で塗り固められている。
「余命半年」も嘘。「病弱」も嘘。
この結婚自体が、巨大な詐欺の上に成り立っているのだ。
触れた瞬間、宝珠は真っ赤に発光し、大音量で警報を鳴らすに違いない。
そうなれば、この数百人の観衆の前で、私は稀代の詐欺師として吊るし上げられる。
「……どうした、エルナ?」
リュカ公爵が、不思議そうに私を見る。
私の手が止まっているからだ。
指先が冷たくなり、感覚がなくなっていく。
「怖がらなくていい。君の愛が本物であることは、俺が一番よく知っている」
彼は優しく微笑んだ。
その笑顔が、鋭利なナイフのように胸に刺さる。
貴方は信じている。
でも、機械は正直だ。
「さあ、新婦よ」
司祭が急かす。
逃げ場はない。
ここで拒否すれば、それこそ「やましいことがある」と自白するようなものだ。
私は覚悟を決めた。
どうにでもなれ。
赤く光ったら、「情熱の赤です」とでも言い張ろうか。
あるいは、その場で本当に気絶してしまえば、有耶無耶にできるかもしれない。
私は震える右手を、ゆっくりと宝珠へと伸ばした。
指先が、冷たい水晶の表面に触れる。
その瞬間。
バチッ!!!!
耳をつんざくような破裂音が響いた。
「きゃあっ!?」
私は弾かれたように手を引っ込めた。
静電気などではない。もっと強烈な、物理的な衝撃が指先を襲ったのだ。
「なっ……!?」
司祭が目を見開いて叫んだ。
目の前の宝珠が、赤でも青でもなく――漆黒に染まっていた。
まるでインクを垂らしたように、どす黒い闇が水晶の中を侵食していく。
そして。
パリーンッ!!!
乾いた音と共に、国宝級の魔道具である宝珠が、粉々に砕け散った。
「ほ、宝珠が……砕けた……?」
静まり返る大聖堂。
誰もが息を呑み、床に散らばった黒い破片を見つめている。
私も呆然としていた。
何が起きた?
私の嘘の質量が大きすぎて、許容オーバーフローを起こしたのか?
「……やはり、そうか」
沈黙を破ったのは、リュカ公爵の沈痛な声だった。
彼は悲痛な面持ちで、私の左手を――あの巨大なアメジストの指輪が嵌められた手を握りしめた。
「彼女の『魂素崩壊』は、そこまで進行していたのか……」
「え?」
「神聖な宝珠ですら、彼女の魂を観測できず、その虚無の力に耐えきれずに自壊したんだ」
会場がどよめいた。
「なんてことだ……」「魂がもう、現世にないというのか」「そこまで体を酷使して……」
貴族たちのヒソヒソ話が、またしても最悪の解釈へと収束していく。
違う。
多分、原因はこの指輪だ。
「古竜のブレスすら防ぐ」という過剰な防御結界が付与されたこの指輪が、宝珠からのスキャン魔力を「敵性攻撃」と見なして、全力でカウンターを叩き込んだのだ。
物理的な相性問題だ。
けれど、真実を知る者はここにはいない。
「……司祭よ」
リュカ公爵が、剣呑な眼差しで司祭を睨みつけた。
「彼女にこれ以上の負担をかけるな。儀式は終わりだ。誓いの証明など、この俺の命があれば十分だろう」
「は、はいっ! もちろんです、公爵閣下!」
司祭は青ざめて頷いた。
国宝を壊された文句など言える雰囲気ではない。
「死にかけの花嫁」に無理をさせ、あわやトドメを刺しかけた無能な聖職者、というレッテルを貼られるのを恐れているのだ。
「では、誓いの口づけを……!」
司祭が逃げるように進行を進める。
リュカ公爵が、私に向き直った。
その瞳は、涙で潤んでいる。
宝珠を破壊するほどの「死の影」を背負いながら、それでも自分の元に嫁いできてくれた健気な女。
今の私は、彼の目にそう映っている。
「エルナ……。愛している。君が星になるその瞬間まで、いや、星になってからも永遠に」
重い。
愛の質量が、惑星レベルだ。
彼はゆっくりと顔を近づけてくる。
整髪料と、微かな汗の匂い。
至近距離で見る彼の顔は、心臓が止まるほど美しい。
長いまつ毛。通った鼻筋。そして、震える唇。
(……ごめんなさい)
私は心の中で懺悔した。
私は星になりません。
明日も明後日も、普通に起きてご飯を食べる予定です。
ふわり、と唇が重なった。
柔らかく、そして熱い。
ただ触れるだけの、優しい口づけ。
なのに、そこから流れ込んでくる感情の奔流に、私は溺れそうになった。
涙の味がした。
彼が泣いているのだ。
ワァァァァァァ……ッ!
堂内に、拍手が巻き起こった。
それは祝福というより、悲劇の舞台の幕引きに対する万雷の拍手だった。
参列者の多くがハンカチで目頭を押さえている。
「美しい……」「なんて悲しい愛なの」
すすり泣く声が、パイプオルガンの音色と混ざり合う。
唇が離れる。
リュカ公爵は、私の頬を両手で包み込み、額を合わせた。
「……絶対に、死なせない」
呪文のような呟き。
その言葉と共に、私の左手薬指の指輪が、カチリと音を立てて締まった気がした。
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【ステータス更新】
氏名:エルナ・ヴォルフィード
職業:公爵夫人
状態:健康(※夫フィルターにより『瀕死』表示)
装備:呪いの指輪(防御力9999/取り外し不可)
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私は、彼の胸に顔を埋めた。
安堵と、罪悪感と、そして微かな幸福感が入り混じり、本当に目眩がした。
こうして。
私の嘘は、神と国によって公認されてしまった。
もう、後戻りはできない。
地獄の釜の蓋は、完全に閉ざされたのだ。




