第7話 純白のウエディングドレスと、泥まみれの元上司
結婚式当日の朝は、皮肉なほどに美しい快晴だった。
窓の外では小鳥がさえずり、陽光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
けれど、私の視界は薄い灰色に霞んでいた。
睡眠不足による眼精疲労と、胃の底にへばりついた鉛のような罪悪感のせいだ。
「……息を止めてくださいまし、聖女様」
マダム・ヴェルニエの声と共に、背中の紐がギュウウウッと締め上げられる。
コルセットが肋骨を圧迫し、肺の中の空気が強制的に排出された。
「うぐっ……」
「あら、ごめんなさい。でも、もう少しだけ。このドレスは貴女様の儚さを際立たせるために、ウエストラインが命なのですぅ」
マダムは徹夜明けで充血した目をギラつかせながら、職人魂を炸裂させていた。
鏡に映る私は、確かに美しかった。
最高級の「妖精絹」で作られた純白のドレスは、光の加減で真珠のような光沢を放ち、私の肌を透き通るように白く見せている。
ふわりと広がるレースの裾は、まるで雲のようだ。
けれど、その中身は地獄だった。
コルセットの締め付けで内臓が悲鳴を上げている。
昨晩のストレスによる暴飲暴食(夜食のクッキー缶完食)が、今になってボディラインに復讐してきているのだ。
「完璧ですわ……! まるで、今にも空へ溶けてしまいそうな雪の精霊!」
マダムが感嘆の声を漏らす。
違う。
これは単に、酸欠で顔色が悪いだけだ。
指先が冷え、唇の色が薄くなっているのを、彼女は「儚げな美」として解釈している。
「さあ、仕上げのメイクです。頬には赤みを足さず、あえて蒼白さを残しましょう。その方が、公爵閣下の保護欲をそそりますからねぇ」
冷たいパフが肌を叩く感触。
白粉の粉っぽい匂いと、整髪料の甘い香りが混ざり合い、吐き気を誘発する。
私は椅子に座ったまま、鏡の中の自分と目を合わせた。
そこにいるのは、幸せな花嫁ではない。
豪華な死装束を着せられた、生贄の羊だ。
コン、コン。
控えめなノックの後、扉が開いた。
正装に身を包んだリュカ・ヴォルフィード公爵が入ってくる。
漆黒のタキシードに、家紋入りのサッシュ。
銀色の髪は完璧に整えられ、その立ち姿だけで絵画になるような美丈夫ぶりだ。
だが、その表情は硬い。
結婚式の朝だというのに、彼の目には深い悲哀と、決死の覚悟が宿っている。
彼は私を見た瞬間、息を呑んだ。
「……エルナ」
その声が震えている。
彼はゆっくりと歩み寄り、壊れ物に触れるように私の手を取った。
「綺麗だ。……言葉にならないほど」
「ありがとうございます、閣下」
「だが、やはり痩せたな。ウエストがこんなに細くなって……」
彼の手が、私の腰に回される。
コルセットでギリギリまで締め上げられたウエストを、彼は「病による衰弱」だと信じて疑わない。
実際は、その下で腹直筋が悲鳴を上げながら耐えているのだが。
「気分はどうだ? 立てるか?」
「はい、なんとか」
「無理はするな。辛くなったらすぐに合図しろ。式の間も、俺がずっと支えている」
彼は私を横抱きにする勢いでエスコートし、部屋を出た。
◇
公爵邸の玄関前には、黄金の装飾が施された馬車が待機していた。
御者台には四人の護衛騎士。
沿道には、噂を聞きつけた群衆が集まっているらしい。
遠くからざわめきが聞こえる。
「行くぞ。……俺たちの、最初で最後の晴れ舞台だ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
最後じゃない。
私はこれから何十年も生きるつもりだ。
でも、彼の中では、これが私との最期の思い出作りになっている。
馬車に乗り込もうとした、その時だった。
「待てぇぇぇぇぇッ!!」
大気を引き裂くような、汚い怒号が響いた。
群衆を掻き分け、数人の男たちが屋敷の門を強引に突破してくる。
ボロボロの法衣。
伸び放題の髭。
そして、充血した目。
先頭に立っているのは、見間違えるはずもない。
元上司――神殿長だ。
「ゲホッ、ゲホッ……! 待て! その女を連れて行くな!」
神殿長は、以前の小太りだった体型が嘘のように激痩せしていた。
頬はこけ、目の下にはどす黒い隈がある。
彼だけではない。後ろに続く神官たちも皆、泥と煤にまみれ、異臭を放っていた。
まるで魔物の巣窟から這い出てきた亡者のようだ。
リュカ公爵が、私を背に隠すように前に出た。
周囲の温度が、一瞬で氷点下まで下がる。
「……何の用だ。私の妻に近づくな」
地を這うような低音。
殺気というより、もはや物理的な圧力が空間を歪めている。
護衛の騎士たちが一斉に剣を抜いた。
しかし、神殿長は引き下がらなかった。
いや、引き下がれないのだ。
彼らの目は、追い詰められた鼠そのものだった。
「妻だと!? ふざけるな! その女は神殿の所有物だ! まだ雇用契約は切れていない!」
神殿長は懐から、クシャクシャになった羊皮紙を取り出し、振りかざした。
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【終身労働契約書(写)】
被雇用者:エルナ
契約期間:魂が消滅するまで
違約金 :金貨100万枚
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「見ろ! こいつは死ぬまで神殿に奉仕する契約なんだ! 勝手に連れ出すなど、窃盗罪だぞ!」
唾を飛ばしながら叫ぶその姿は、醜悪の一語に尽きる。
数日前までの威厳など見る影もない。
「それに……結界だ! 王宮の結界が、もう限界なんだよぉ!」
神殿長が泣き崩れた。
「こいつがいなくなってから、パイプラインが詰まり放題なんだ! 瘴気が逆流して、神殿内は腐臭で充満している! 他の聖女どもは『汚い』『臭い』と言って誰も掃除をしようとしない!」
「……知ったことか」
リュカ公爵が冷たく吐き捨てる。
「お前たちが彼女に押し付けていた雑務のツケが回ってきただけだ。自業自得という言葉を知らんのか」
「うるさい、うるさい! 国中から苦情が殺到しているんだ! 国王陛下からも『今日中に何とかしなければ全員処刑する』と言われているんだぞ!」
神殿長は血走った目で私を睨んだ。
「おい、エルナ! 聞こえているんだろう! 貴様のせいで我々は破滅寸前だ! 今すぐ戻ってこい! ドブさらいでも何でもさせてやるから!」
その言葉に、私は思わず身をすくませた。
ドブさらい。
それが私の仕事だった。
高貴な聖女のふりをして、毎日毎日、ヘドロにまみれて配管を掃除していた日々。
その記憶が蘇り、胃液がせり上がってくる。
「……戻りません」
私は震える声で、しかしはっきりと拒絶した。
「私はもう、貴方たちの道具ではありません」
「なんだとぉ!? この恩知らずめ! 誰が拾ってやったと思っているんだ!」
神殿長が逆上し、私に掴みかかろうと突進してきた。
その手には、泥と油で汚れた黒いシミがついている。
あの手が、私の純白のドレスに触れようとした瞬間。
ドォォォォォォンッ!!!
視界が揺れた。
神殿長の体が、見えない壁に弾き飛ばされ、数メートル後方の石畳に叩きつけられたのだ。
リュカ公爵が、片手を軽く払っていた。
風魔法による不可視の衝撃波。
手加減はしているようだが、神殿長はカエルのように手足をばたつかせて悶絶している。
「……私の花嫁に、その汚い手で触れるな」
リュカ公爵の声には、激情が含まれていた。
彼は私の方を振り返ると、心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、エルナ。怖かったろう」
「は、はい……」
「すぐに片付ける。こんなゴミどもを見る必要はない」
彼が再び神殿長たちに向き直った時。
痛みに呻いていた神殿長が、ふと、何かを訝しむように鼻をひくつかせた。
「……おい」
神殿長が、這いつくばったまま私を凝視する。
その目が、探るように細められた。
「変だぞ」
心臓が跳ねた。
何が?
「貴様……余命半年とかいう話だったな? もうすぐ死ぬとか」
「……」
「なのになぜ、そんなに肌に張りがある? なぜ、そんなに目に力がある?」
神殿長の指摘に、周囲の空気が凍りついた。
彼は腐っても高位の神官だ。
人間の生命力を見分ける眼力だけは持っている。
「おかしい……。死にかけの人間からは、もっとこう、枯れた臭いがするはずだ。だが貴様からは、生命力がムンムンと溢れ出ているぞ!」
ヒュッ、と息が止まった。
バレた。
化粧で顔色を隠し、コルセットで腹を締めても、溢れ出るバイタリティは隠せなかった。
「まさか貴様……仮病か?」
その一言が、爆弾のように炸裂した。
神殿長がニタリと笑う。
「そうだろ! あの仕事から逃げたくて嘘をついたんだろ! 詐欺だ! こいつは公爵閣下を騙しているぞ!」
「違う!」
私は叫ぼうとしたが、声が出なかった。
喉が張り付き、呼吸ができない。
隣にいるリュカ公爵を見るのが怖い。
彼がどんな顔をしているか。
軽蔑? 怒り?
「騙したな」と言って、その手で私を弾き飛ばすのだろうか。
私は目を閉じて、断罪の時を待った。
しかし。
聞こえてきたのは、さらに温度の下がった、氷点下の声だった。
「……貴様」
リュカ公爵が、一歩踏み出した。
石畳が、彼の足元からパキパキと音を立てて凍りついていく。
「必死に病と闘っている彼女を……詐病だと? 愚弄するにも程がある!!」
「ひっ!?」
「彼女の魂は、今にも消え入りそうなほど微弱だ! 王宮医のシュタインですら『虚無』と診断したのだぞ! それを……貴様ごときが、何を知った風な口を!」
リュカ公爵の怒りは、私の嘘に向けられたものではなかった。
神殿長への怒りだった。
彼の中で「エルナ=瀕死」という事実は、もはや絶対的な真理として固定されているのだ。
神殿長の正しい指摘も、彼にとっては「愛する妻への最低最悪の侮辱」にしか聞こえない。
「消えろ。二度とその薄汚い口を開くな」
リュカ公爵が右手を天にかざした。
上空に、無数の氷の槍が出現する。
その数、百本以上。
朝日に照らされ、キラキラと輝くそれは、美しくも凶悪な処刑器具だ。
「ひ、ひいいいいっ!」
「逃げろ! 殺される!」
神殿長たちは悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
雇用契約書も、結界のことも放り出して。
「……行くぞ、エルナ」
リュカ公爵は氷の槍を霧散させると、何事もなかったかのように私に向き直った。
その表情は、先ほどの修羅のような形相から一転、慈愛に満ちたものに戻っている。
「嫌な思いをさせたな。……気分は悪くないか?」
「……はい」
私は小さく頷いた。
気分は悪い。最悪だ。
神殿長たちの言葉は真実だったのに。
それを力技でねじ伏せ、嘘を真実に変えてしまった。
「さあ、式場へ急ごう。神父が待っている」
彼は私をエスコートし、馬車へと誘う。
その背中を見ながら、私は思った。
この人は、私が「元気です」と言っても、信じてくれないのではないか。
あるいは、信じたくないのではないか。
「薄幸の聖女を救う英雄」という物語の中に、彼自身も囚われてしまっているのではないか。
馬車が動き出す。
窓の外を流れる景色は、涙で滲んで歪んで見えた。
遠ざかる公爵邸の門の前には、神殿長が落としていった契約書が、風に吹かれて寂しく転がっていた。




