第6話 婚約指輪の呪縛と、深夜の攻防戦
「……重い」
思わず、本音が漏れた。
精神的な意味ではない。物理的な質量として、私の左手薬指が悲鳴を上げていた。
午後三時。
貴賓室のテーブルには、宝石箱が山のように積まれている。
王都でも指折りの宝石商が、額に脂汗を浮かべながら次々と箱を開けていく中、リュカ公爵が選び抜いた一品が、今、私の指に嵌められていた。
「どうだ、エルナ。気に入ったか?」
リュカ公爵が、期待に満ちた眼差しで覗き込んでくる。
彼の瞳と同じ、アメジストの大粒ダイヤ。
その大きさは、あめ玉ほどもある。
台座には複雑な魔術刻印が施され、プラチナの蔦が宝石を支えている。
窓から差し込む陽光を受け、ギラリと凶悪な輝きを放ち、部屋の壁に紫色の光斑を散らしていた。
「……とても、素敵です。でも、少し大きすぎるのでは……」
「そんなことはない。君の瞳の色に合わせ、さらに最高級の防御結界を付与した特注品だ。これ一つで、古竜のブレスすら防げる」
(装備品かよ)
心の中で突っ込む。
婚約指輪というより、伝説級の防具だ。
指を動かすたびにズシリとした慣性が働き、手首の筋肉が微かに張る。
この指輪の重さは、彼からの愛の重さそのものだ。
逃げられない。
物理的にも、社会的にも、私はこの紫色の鎖に繋がれてしまった。
「サイズは完璧だな。……宝石商、これを」
リュカ公爵が合図すると、宝石商が恭しく契約書を差し出した。
そこに記された金額を見た瞬間、私の呼吸が止まりかけた。
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【売買契約書】
品名:紫紺の守護石指輪
金額:金貨 50,000枚
備考:国家予算規模のため、分割不可
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金貨五万枚。
平民が五回生まれ変わっても使い切れない金額だ。
視界がクラリと揺れる。
もし、結婚式当日に嘘がバレて破談になったら?
この指輪の代金は、誰が払うの?
詐欺罪で訴えられた私に、支払い能力などあるはずがない。
一生、鉱山で石を運び続けても返せない借金が、この左手に輝いている。
「ありがとう、ございます……。一生、大切に、します……」
震える声で礼を言うと、リュカ公爵は満足そうに私の手に口づけを落とした。
その唇の熱さが、冷たいプラチナの感触と混ざり合い、奇妙な不快感を背筋に走らせる。
宝石商が退出し、部屋に再び二人きりになった時。
リュカ公爵の表情が、ふと曇った。
「……エルナ。実は、明日だが」
ドキリ、とした。
来た。メディカルチェックの話だ。
「式のリハーサルの前に、王宮医による最終検査を受けてもらう」
「あ、はい……聞いて、おります」
「担当は、ガリウスではない。王宮筆頭医官の、ドクター・シュタインだ」
シュタイン。
その名を聞いた瞬間、私の胃袋がキュッと縮み上がった。
知っている。
「神の目を持つ男」と呼ばれる、伝説の診断医だ。
彼の前では、どんな偽装魔法も、どんな隠蔽工作も通用しないと言われている。
ガリウス医師は私のパニックを「病状」と勘違いしてくれたが、シュタインは違う。
彼は数値とデータしか信じない冷徹な男だ。
「……シュタイン先生、ですか。すごいですね」
「ああ。彼なら、ガリウスでも見抜けなかった君の病状の『核』を特定できるかもしれない。……治療法が見つかる可能性もある」
リュカ公爵は、縋るような目で私を見た。
彼にとってそれは希望の光。
私にとっては、破滅へのカウントダウン。
「……そう、ですね。希望が、ありますね」
引きつった笑顔を返すのが精一杯だった。
嘘がバレれば、治療法どころか、処刑法が見つかるだけだ。
◇
夜。
夕食のスープ(超濃厚クリームシチュー)をなんとか胃に収め、私はベッドの中で冷や汗を流していた。
隣の部屋からは、リュカ公爵が執務をするペンの音が微かに聞こえる。
彼は「何かあったらすぐに呼べ」と言い残し、扉一枚隔てた隣室で待機しているのだ。
(どうする。このままじゃ座して死を待つのみだ)
明日の朝にはシュタインが来る。
その前に、何とかして私の体を「病人」に見せかけなければならない。
私は頭の中で、手持ちのカードを並べた。
1.**魔法で数値を誤魔化す**
→シュタインの前では無意味。魔力痕跡を辿られて即バレる。
2.**仮病を使って延期する**
→「そんなに悪いのか!」とパニックになった公爵が、さらに多くの医者を呼ぶだけだ。
3.**物理的に体を弱らせる**
(……これだ)
これしかない。
健康すぎるのが問題なら、一時的に不健康になればいい。
風邪を引くか、熱を出すか、とにかく「異常値」を叩き出せる状態を作るのだ。
私はそろりと布団から這い出した。
足音を忍ばせ、窓際へと移動する。
厚手のカーテンを開けると、夜の冷気がガラス越しに伝わってくる。
(窓を開けて、薄着で夜風に当たり続ければ……)
単純だが、確実な方法だ。
私の頑丈な免疫システムも、冬の夜風に数時間晒されれば、多少は弱るはずだ。
少なくとも、熱くらいは出るだろう。
私は震える指で、窓の鍵に手をかけた。
カチャリ。
金属音が、静寂な部屋に大きく響く。
心臓が跳ねた。
隣室のペンの音が止まる。
「……エルナ?」
リュカ公爵の声だ。
速い。反応が速すぎる。あの人は地獄耳か。
「あ、いえ! その、少し空気を入れ替えようと……」
「駄目だ!」
ドタドタと足音が近づき、扉が勢いよく開かれた。
リュカ公爵が血相を変えて飛び込んでくる。
「何をしている! 今の君が夜風になど当たれば、命取りになるぞ!」
「でも、少し暑くて……」
「室温は最適に保たれているはずだ。……もしや、熱があるのか?」
彼は私の額に大きな手を当てた。
その手は温かく、乾燥している。
「……熱はないようだが。汗をかいているな」
それは冷や汗です。
貴方が飛び込んできたせいで出た、恐怖の汗です。
「窓際から離れるんだ。冷気が障る」
彼は私を抱き上げると(本日四回目)、強制的にベッドへと連れ戻した。
そして、あろうことか、布団を首元まで厳重に掛け直し、隙間がないように端を押し込んでくる。
これではミノムシだ。
熱を逃がすどころか、保温効果が抜群すぎて健康になってしまう。
「……今日は、ここで寝る」
「はい?」
リュカ公爵は、部屋の隅にあるソファを指差した。
「君が夜中にうなされたり、発作を起こしたりするかもしれない。隣の部屋では対応が遅れる」
「そ、そんな! 閣下のお体をソファで痛めてしまいます!」
「構わん。君の命には代えられない」
彼は上着を脱ぐと、本当にソファに横になってしまった。
部屋の明かりが落とされ、常夜灯の薄暗いオレンジ色の光だけが残る。
終わった。
監視付きだ。
これでは窓を開けるどころか、布団から出ることもできない。
部屋の中に、二人の呼吸音だけが響く。
彼の呼吸は深く、規則正しい。
対して私の呼吸は浅く、速い。
(……眠れない)
指輪の重さが、左手にまとわりつく。
天井の木目が、断罪台の模様に見えてくる。
数時間が経過した頃だろうか。
尿意を感じてトイレに立った時ですら、彼は瞬時に目を覚まし、「抱っこか?」と聞いてきた。
「自分で歩けます」と拒否するのが精一杯だったが、トイレのドアの前で彼が待機している気配を感じて、出るものも出なかった。
結局、何一つ対策ができないまま、空が白み始めた。
チュン、チュン……。
小鳥のさえずりが、処刑の朝を告げるファンファーレのように聞こえる。
私は完徹した。
一睡もできなかった。
「……よく眠れたか、エルナ」
リュカ公爵が、爽やかな顔で起きてきた。
その顔には一点の曇りもなく、今日も私を愛おしそうに見つめている。
「……はい、おかげさまで」
嘘だ。
目の下にクマができている自信がある。
肌はカサカサで、髪もボサボサだろう。
……待てよ?
私はハッとした。
寝不足。ストレス。疲労。
今の私は、間違いなく「不健康」な顔をしているはずだ。
これなら、いけるかもしれない。
「体調不良」という演技に、リアリティを持たせることができるかもしれない。
「顔色が悪いな。やはり緊張しているのか」
「は、はい……少し」
「心配いらない。シュタインは優秀だ。必ず君を救う道を見つけてくれる」
彼は私の手を取り、指輪にキスをした。
そのアメジストが、朝日に照らされて妖しく光る。
◇
そして、運命の時間がやってきた。
応接室に通された私の前に、その男は座っていた。
ドクター・シュタイン。
白髪をオールバックになでつけ、銀縁眼鏡をかけた鋭利な風貌。
その目は感情を一切通さず、手元のカルテと私の顔を交互に見比べている。
「……なるほど。余命半年、ですか」
声に抑揚がない。
機械音声のように冷淡だ。
「ガリウス君の報告書は読みました。『計測不能』のパニック状態だったと。……興味深いですね」
シュタイン医師は、鞄から見たこともない巨大な魔道具を取り出した。
水晶球を中心に、無数の金属針が放射状に伸びた、ウニのような形状。
先端からバチバチと青白い火花が散っている。
「これは『深層魂素解析機』。最新の軍事用スキャナーです。これを使えば、肉体の表面的な数値ではなく、魂そのものの形状と強度を測定できます」
(軍事用……!?)
背筋が凍った。
そんなものを浴びせられたら、私の頑丈すぎる魂の輝きが、太陽のように眩しく観測されてしまう。
「痛みはありません。ただ、魂の深淵を覗かれるような……少しばかりの不快感はあるかもしれませんが」
シュタイン医師がスイッチを入れる。
キィィィィィィィン……。
耳障りな高周波音が部屋に満ちる。
水晶球が赤く明滅し始めた。
「待ってください」
私は思わず声を上げた。
逃げたい。今すぐこの部屋から逃げ出したい。
けれど、隣にはリュカ公爵が座り、私の手を強く握りしめている。
逃げ場はない。
「怖いのか? 大丈夫だ、俺がいる」
違う。貴方がいるから怖いのだ。
貴方にバレるのが、死ぬほど怖いのだ。
「始めます」
シュタイン医師が、解析機の先端を私の胸に向けた。
青白い光線が、心臓部へと照射される。
ドクンッ!!
衝撃が走った。
痛みではない。
自分の内側にある「何か」が、無理やり引きずり出されるような、気持ちの悪い感覚。
胃の中のものが逆流しそうになる。
「……ん?」
シュタイン医師が、眼鏡の位置を直した。
彼の視線が、解析機のモニターに釘付けになる。
「……これは」
「どうした! 何が見える!」
リュカ公爵が身を乗り出す。
シュタイン医師は、信じられないものを見るような目で、私を見た。
「……数値が、出ません」
「またか! 故障か!?」
「いいえ。故障ではありません」
シュタイン医師は、モニターを指差した。
そこには、エラーメッセージではなく、奇妙なグラフが表示されていた。
一直線の、水平な線。
波形が一切ない。
「魂の反応が……『無』です」
「無……だと?」
「はい。通常、どんなに弱った人間でも、魂には微弱な波形があります。しかし、彼女の魂は……まるで『虚無』そのもの。そこに存在していないかのような、完全なる静寂です」
部屋が静まり返った。
私もポカンとした。
虚無?
私の魂がない?
そんな馬鹿な。私はここにいるし、お腹も空いているし、トイレにも行きたい。
「……どういうことだ」
リュカ公爵の声が震える。
「つまり、彼女はもう……魂が肉体から離れかけていて、現世に留まっているのが不思議な状態だと言うことか?」
「……解釈としては、そうなります。医学的には説明がつきませんが……彼女は今、生と死の境界線上に立っている。肉体という器だけが、かろうじて形を保っている状態です」
シュタイン医師が、青ざめた顔で私を見た。
その目には、畏怖の色が浮かんでいる。
(……あ)
分かった。
指輪だ。
左手の薬指に嵌められた、このバカ高いアメジストの指輪。
「最高級の防御結界」が付与された特注品。
その強力すぎる結界が、外部からのスキャンを完全に遮断し、私の魂の反応を「無」にしてしまったのだ。
「……なんてことだ」
リュカ公爵が、崩れ落ちるように膝をついた。
彼は私の腰に抱きつき、子供のように震え出した。
「エルナ……。君は、そんな状態になっても……俺のために笑ってくれていたのか……」
「あ、あの、閣下……」
「俺は馬鹿だ! リハーサルなどと言っている場合ではなかった! 今すぐ式を挙げよう! 一分でも早く!」
誤解が、加速する。
マッハの速度で、最悪の方向へと突き進んでいく。
シュタイン医師もまた、神妙な顔で頷いた。
「……これほどの精神力。医学の常識を超えています。もはや治療云々の段階ではない。彼女に残された時間を、安らかに過ごさせることだけが、我々にできる唯一のことです」
お墨付きが出た。
王宮筆頭医官による、「手遅れ」のお墨付きが。
私は、輝く指輪を見つめた。
この宝石は、私を守ってくれたのか。
それとも、退路を完全に断ったのか。
「……ううッ……」
リュカ公爵の嗚咽が、部屋に響く。
彼の涙が、私のドレスを濡らしていく。
その温かさが、嘘で塗り固められた私の心をじわじわと焦がしていく。
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【診断結果】
患者名:エルナ
診断:魂素消失(※誤診)
原因:過剰な装備品によるスキャン遮断
余命:今すぐ死んでもおかしくない(※医師談)
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私は、彼の頭を優しく撫でた。
もう、戻れない。
私はこのまま、「死にかけの聖女」として、彼と結婚するしかないのだ。




