第5話 鋼の腹筋と、純白の拘束衣
翌朝。
私は全身を襲う、奇妙な感覚に呻きながら目を覚ました。
筋肉痛だ。
昨晩、無茶をして三キロ先の結界を修復した代償が、二の腕と背筋に重い鉛のような痛みとなって表れている。
指先はまだ痺れており、握り拳を作ろうとしても力が入らない。
しかし、それ以上に深刻な問題が、私の腹部に発生していた。
(……苦しい)
胃が、重い。
昨晩、リュカ公爵が買い占めてきた「王都スイーツコレクション」を、彼の手前、断りきれずに半分以上詰め込んだ結果だ。
バターと生クリームの塊が、消化しきれずに胃袋の中で鎮座している。
吐き気はないが、内臓が物理的に膨張し、皮膚を内側から圧迫している不快感。
「おはよう、エルナ。顔色が優れないな」
低い声と共に、朝の光を遮る影が落ちた。
リュカ公爵だ。
彼は今日もまた、彫刻のように整った顔立ちで、私のベッドサイドに座っている。
その手には、湯気を立てる銀の匙が握られていた。
「やはり昨日の発作(※ただの魔力切れ)が響いているのか。……可哀想に」
彼は私の痛む右腕を、そっと撫でた。
その手つきは優しすぎて、筋肉痛の患部には逆に響く。
「う……」
「痛むのか? すぐに痛み止めの魔法薬を用意させる。だがその前に、栄養を摂ろう。今朝は特製のリゾットだ」
とろりとしたチーズの香りが、鼻腔を占拠する。
普段なら垂涎ものの香りだが、今の私の胃袋にとっては、新たなセメントを流し込まれるに等しい。
「あ、あの、閣下。お腹は、その……いっぱいで」
「遠慮するな。君の体は、君が思っている以上にエネルギーを欲している。さあ、あーん」
拒否権はなかった。
口元に運ばれたスプーンを、受け入れざるを得ない。
濃厚なチーズと、柔らかく煮込まれた米が、舌の上で広がる。
美味しい。悔しいほどに絶品だ。
私の舌は歓喜し、胃袋は悲鳴を上げ、脳は罪悪感でショートする。
この矛盾した三重苦こそが、私の今の「療養生活」の実態だった。
完食後、ずしりと重くなった腹をさすっていると、部屋の扉がノックされた。
「入れ」
リュカ公爵の許可と共に、入室してきたのは一人の女性だった。
派手だ。
目がチカチカするようなショッキングピンクのドレスに、孔雀の羽をあしらった帽子。
片手に持っているのは、武器のように鋭く光るハサミと、何色もの糸が巻かれたボビンだ。
「お初にお目にかかりますぅ、公爵閣下。そして、噂の『硝子細工の君』!」
女性は芝居がかった動作で、大袈裟にスカートを広げてカーテシーをした。
声が高い。オペラ歌手のように部屋の隅々まで響き渡る。
「王都で仕立て屋を営んでおります、マダム・ヴェルニエと申しますぅ。本日は閣下の命により、最愛の君のドレスを仕立てに参りました!」
「硝子細工の君……?」
私は思わず聞き返した。
誰のことだ。
私のことか。ゴキブリ並みの生命力を持つ私が、硝子細工?
「ええ、ええ! 今や王都中の噂ですわよぉ! 触れれば砕け散ってしまいそうなほど儚く、美しく、そして余命幾ばくもない悲劇の聖女様! ああ、なんてドラマティック!」
マダム・ヴェルニエは、うっとりと両手を組んだ。
その瞳は獲物を狙う肉食獣のように鋭く、私の全身を舐め回している。
危険だ。
この女、ただの賑やかなおばさんではない。
職人の目だ。ミリ単位の誤差も許さない、プロフェッショナルの観察眼を持っている。
リュカ公爵が、私の肩を抱き寄せた。
「ヴェルニエ。彼女の体に負担をかけることは許さん。採寸は迅速に、かつ優雅に行え。もし彼女が疲れを見せたら、その瞬間に貴様との契約は破棄する」
「オホホ、心得ておりますとも。私のメジャーは羽毛よりも軽く、私の針は光よりも速いのですぅ」
マダムは自信満々に笑うと、鞄から一本のメジャーを取り出した。
黄色いテープが、生き物のようにシュルシュルと伸びる。
「さあ、聖女様。ベッドの上に立ったままで結構ですわ。少しだけ、腕を広げてくださいまし」
私は覚悟を決めて、シーツの上に立ち上がった。
ふらつく。
これは演技ではない。食べ過ぎで重心がおかしいのと、マットレスが柔らかすぎるせいだ。
リュカ公爵が慌てて支えようとするが、私はそれを手で制した。
これ以上触れられたら、脇腹の筋肉が緊張して硬くなっているのがバレるかもしれない。
「失礼しますぅ」
マダム・ヴェルニエが接近する。
香水の匂いが鼻をつく。薔薇と麝香を煮詰めたような、濃厚な香り。
冷たいメジャーが、私の首筋に触れた。
ゾワリ、と肌が粟立つ。
「細い……。首回りは三〇センチ。風が吹けば折れてしまいそうですわねぇ」
マダムが囁くように数値を読み上げる。
手元のメモ帳に、ペンが走る音。
サッ、サッ、サッ。
続いて、バスト、ウエストへの計測へと移る。
最大の難関だ。
私は息を詰め、腹筋に力を入れたい衝動を必死に抑えた。
力を入れれば、長年の肉体労働で培われた「シックスパック」の片鱗が浮き出てしまう。
かといって力を抜けば、昨晩のケーキによる「ポッコリお腹」が露見する。
究極の二択。
私は、限界まで息を吐き出し、腹を凹ませる作戦に出た。
メジャーが、胴体に巻き付く。
蛇が獲物を締め上げるように、じわりと食い込む。
「あら?」
マダムの手が止まった。
心臓が、喉の奥で跳ねる。
バレたか?
腹筋が硬すぎたか?
マダムの指先が、私の脇腹から背中にかけてのラインを、確かめるように這う。
その指は冷たく、骨格と筋肉の付き方を探っているようだった。
「……意外ですわねぇ」
マダムは声を潜め、私だけに聞こえる音量で囁いた。
「見た目は華奢なのに、体幹が鋼のようにしっかりしていらっしゃる。……まるで、毎日重い鎧を着て走り回っている騎士のような筋肉ですわ」
ヒュッ、と息が止まった。
背中を冷や汗が伝う。
バレた。
聖女のローブの下に隠された、毎日の「第三騎士団・鎧運びトレーニング(三〇キロ)」の成果が、このプロの指先に見抜かれた。
マダムが怪訝そうに眉をひそめる。
その視線が、私の瞳を射抜く。
「それに、この肌の張り。死を前にした人間のそれではありませんわ。……聖女様、あなた本当は?」
言われる。
「健康体ですよね?」と。
リュカ公爵の目の前で。
私は助けを求めるように視線を泳がせた。
しかし、リュカ公爵は心配そうに私を見守るだけで、会話の内容までは聞こえていないようだ。
「……マダム」
私は震える声で、必死の言い訳を捻り出した。
「そ、それは……『硬直』です」
「硬直?」
「病の進行で……筋肉が、石のように強張ってしまって……痛いんです」
苦しい言い訳だ。
医学的根拠など何もない。
しかし、それを聞いたマダムの表情が、パッと変わった。
「まあ……! なんてこと!」
彼女は感極まったように口元を押さえた。
「死の恐怖と苦痛に耐えるため、無意識に全身に力を込めていらっしゃるのね……! ご立派ですわ、聖女様! その細いお体で、どれほどの苦しみを!」
(……チョロい)
助かった。
この国の人間は、どうしてこうも「悲劇のヒロイン補正」に弱いのか。
私の鋼の腹筋は、「苦痛に耐える悲劇の証」として脳内変換されたようだ。
「分かりましたわ。では、ドレスはこの強張ったお体を優しく包み込む、極上のシルクを使いましょう。締め付けは一切なく、けれどボディラインは美しく見せる……私の腕が鳴りますわ!」
マダムは涙ぐみながら、猛烈な勢いで数値を書き込んでいく。
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【採寸データ】
バスト:推定Cカップ(栄養不足気味)
ウエスト:測定不能(※苦痛による硬直のため、ゆとりを持たせる)
素材選定:最高級妖精絹
納期:超特急(命あるうちに!)
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書き殴られたメモが見えた。
「命あるうちに」の文字が、やけに生々しい。
採寸が終わり、マダムが一礼して下がろうとした時だった。
リュカ公爵が、重々しく口を開いた。
「ヴェルニエ。納期だが」
「はい、閣下。通常なら二週間ですが、スタッフ総出で三日以内に仕上げてみせますぅ」
「遅い」
一刀両断だった。
部屋の温度が、一気に下がる。
リュカ公爵のアメジストの瞳が、氷のような冷たさでマダムを見下ろしていた。
「あさってだ。あさっての朝までに仕上げろ」
「あ、あさって!? さすがにそれは物理的に……」
「金ならいくらでも出す。王都中の職人を集めろ。寝る間も惜しんで針を動かせ」
彼の声音には、有無を言わせぬ圧力が込められていた。
それは単なるワガママではない。
焦りだ。
一分一秒でも早くしなければ、何かが間に合わないという、強烈な焦燥感。
「……承知いたしました」
マダム・ヴェルニエは、プロの顔になって深く頭を下げた。
彼女が退室した後、部屋には再び重苦しい静寂が戻った。
私は恐る恐る、リュカ公爵に尋ねた。
「あの、閣下。……なぜ、そんなに急ぐのですか? ドレスなんて、いつでも……」
「いつでも、ではない」
彼は私の手を取り、痛いくらいに強く握りしめた。
その熱い掌から、彼の動悸が伝わってくるようだ。
「エルナ。……式は、三日後だ」
「……はい?」
私は自分の耳を疑った。
式?
なんの式?
まさか、葬式ではないだろう。私が死ぬ前提だとしても、気が早すぎる。
「結婚式だ」
彼は真っ直ぐに私を見つめて言った。
「準備期間がないことは分かっている。本来なら、一年かけて準備するような盛大な式にすべきだ。だが……今の君には、時間がない」
言葉が詰まる。
時間がない。
それは私がついた嘘だ。「余命半年」という設定。
だが、彼はそれを「明日死ぬかもしれない」というレベルの緊急事態として受け止めているのだ。
「法的な手続きだけならすぐに終わる。だが、俺は君に……ウエディングドレスを着せてやりたいんだ。君が生きて、俺の妻になったという証を、世界中に見せつけたい」
彼の声が震えていた。
切実な願い。
私の命が尽きる前に、形だけでも夫婦になりたいという、悲痛な叫び。
胃の奥が、キリキリと痛んだ。
食べ過ぎのせいではない。
罪悪感が、内臓を雑巾絞りしている痛みだ。
三日後。
結婚式。
それはつまり、大勢の貴族や関係者の前で、私が「公爵夫人」としてお披露目されることを意味する。
そして、その場には当然、神殿の関係者や、国王陛下も参列するだろう。
もし、その場で。
私が「実は元気です」なんて言ったら?
あるいは、緊張でボロが出て、健康体がバレたら?
これは、ただの詐欺ではない。
国家規模の詐欺事件になりつつある。
「……嫌か? こんな、急ごしらえの式など」
リュカ公爵が、不安そうに眉を下げた。
あの冷徹無比な騎士団長が、捨てられた子犬のように私の顔色を窺っている。
そんな顔をされたら、断れるはずがない。
「……いいえ。嬉しい、です」
私は笑顔を作った。
頬の筋肉が引きつり、能面のような笑みになっていないことを祈りながら。
「ありがとう、閣下。……楽しみに、しています」
嘘だ。
楽しみなわけがない。
公開処刑の日程が決まっただけだ。
「そうか! よかった……!」
リュカ公爵は破顔し、私を抱きしめた。
強い力で。骨が軋むほどに。
彼の胸板越しに聞こえる心臓の音は、速く、力強く、そして温かい。
その温もりが、私にとっては焼けた鉄板のように熱く、苦しい。
その時。
抱きしめられた私の視界の端、サイドテーブルに置かれた羊皮紙が目に入った。
先ほどマダム・ヴェルニエが置いていった、今後のスケジュールの控えだ。
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【今後の予定表】
本日午後:指輪のサイズ調整(宝石商来訪)
明日午前:式場の下見(※抱っこ移動)
明日午後:リハーサル及び、最終メディカルチェック
明後日 :結婚式本番
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私の視線は、下から二行目で釘付けになった。
『最終メディカルチェック』。
(……は?)
聞いていない。
採寸だけじゃなかったのか?
結婚式の直前に、医師による健康診断があるなんて。
しかも「最終」ということは、あのガリウス医師よりもさらに偉い、王宮医のトップが出てくる可能性が高い。
血の気が引いていく。
サーッ、と音が聞こえるほど急速に、全身の血液が足元へ落下した。
私の体は、三日後の結婚式まで持たないかもしれない。
その前に、メディカルチェックという名の断頭台が待っている。
「どうした、エルナ? 手が冷たいぞ」
「い、いえ……嬉しくて、震えてしまって」
私は彼の胸に顔を埋め、表情を隠した。
この震えが、恐怖による痙攣であることを悟られないように。
窓の外では、今日も澄み渡るような青空が広がっていた。
その青さが、私には逃げ場のない檻の色に見えた。
鳥籠の中の鳥は、歌うことしか許されない。
たとえその喉が、嘘で枯れ果てていたとしても。




