第4話 硝子細工の結界と、極大の洗濯魔法
リュカ公爵が部屋を出て行ってから、どのくらいの時間が経過しただろうか。
部屋の中は、死んだように静まり返っていた。
先ほどまで鼻孔をくすぐっていたバターとバニラの甘い香りが、今はひどく不快なものに感じられる。
テーブルの上に積み上げられた色とりどりの洋菓子は、まるで供物の山のようだ。
私は、口の中に残るイチゴの酸味を無理やり嚥下した。
喉の奥がつかえ、食道が収縮して拒絶反応を示す。
美味しいはずのタルトが、砂利を詰め込まれたように重く、胃の底に沈殿していく。
カン、カン、カン、カン……。
遠くから響く警鐘の音は、まだ止まない。
その乾燥した金属音は、私の心拍数と同期し、不整脈のような不快なリズムを刻み続けている。
(……見なきゃ)
私はシルクのシーツを握りしめた。
指先の血流が止まり、白くなるほどの力で。
「安静」という医師の言葉が脳裏をよぎる。
けれど、背骨に氷柱を突き刺されたような悪寒が、私をベッドから引き剥がそうとしていた。
私の嘘が、私の逃亡が、あ外の世界で何を引き起こしているのか。
それを直視しなければ、私は一生、この甘い砂糖菓子でできた牢獄の中で窒息することになる。
私は震える足で床を踏みしめた。
厚手の絨毯が音を吸い込む。
ふらつく足取りで、重厚なベルベットのカーテンに手をかけ、数センチだけ隙間を作った。
「……っ」
喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
ガラス越しに見える空は、澄み渡るような青色ではない。
王宮のある方角から、どす黒い煙が立ち上り、空を汚している。
それは巨大な蛇のようにのたうち回り、風に乗ってこの屋敷の方へと流れてきていた。
微かに、焦げ臭いにおいが鼻をつく。
何かが燃える臭いではない。
もっと生臭く、鼻の奥の粘膜を腐らせるような、魔物が死滅する際の特有の硫黄臭だ。
私は目を凝らした。
王宮を覆っているはずの半透明のドーム――「守護結界」の表面に、亀裂が走っているのが見えた。
ピキ、ピキピキ。
距離が離れているため音は聞こえない。
だが、その亀裂が広がる様は、脆くなった硝子細工が崩壊する寸前の光景そのものだった。
あの亀裂のパターンには見覚えがある。
「第三層、北西区画」。
そこは、魔力回路が複雑に絡み合い、ゴミが溜まりやすい場所だ。
私が毎日、昼食の時間を削ってブラシをかけ、詰まりを取り除いていたパイプラインだ。
あれを放置すれば、どうなるか。
私は熟知している。
あと数分で亀裂は広がり、そこから瘴気が逆流し、王都の下町へと溢れ出すだろう。
胃液が逆流しそうなほどの吐き気が込み上げる。
私のせいだ。
私が「もう嫌だ」と仕事を投げ出したから。
私の代わりなんていくらでもいると、そう思い込もうとしていた。
でも現実はどうだ。
神殿の連中は、私が抜けた穴を埋めることさえできず、無様に結界を腐らせている。
「……どうする」
私は自分の掌を見つめた。
汗で湿った、震える手。
ここから王宮までは、直線距離でおよそ三キロメートル。
通常、魔法が届く距離ではない。
もし、私がここで魔法を使えば。
リュカ公爵にバレるかもしれない。
「魔力欠乏症」という設定なのに、こんな大規模な魔力を行使すれば、矛盾が生じる。
嘘が露見し、軽蔑され、断罪される未来が脳裏をよぎる。
でも。
このままここで、安全な場所から煙を眺めているだけでいいのか。
誰かが傷つき、血を流すのを、イチゴタルトを食べながら待つのか。
ドクン。
心臓が大きく鳴った。
違う。それは私の望む「ざまぁ」ではない。
私はブラックな職場に復讐したかったのであって、無関係な人々を不幸にしたかったわけではない。
「……やるしかない」
覚悟を決めると、身体の奥底から熱が湧き上がってきた。
恐怖による冷え切った指先に、血液が循環し始める。
私は窓の鍵を開け、バルコニーへと出た。
風が強い。
吹き付ける風が、私の薄いネグリジェをはためかせ、長い髪を乱暴に巻き上げる。
硫黄と煤の臭いが、ダイレクトに肺に入り込んできた。
私は手すりに身を乗り出し、遥か彼方の王宮――その上空にある「汚れ」を睨み据えた。
呼吸を整える。
深く吸い込み、長く吐く。
肺の中の酸素を、全て高密度の魔力へと変換していくイメージ。
血管の一本一本が魔力の通り道となり、熱を帯びて発光する感覚。
杖はない。
詠唱する時間もない。
使うのは、私がこの数年間、来る日も来る日も使い続けてきた、生活魔法の応用術式だ。
私は右手を空にかざした。
親指と人差し指で、遠くに見える結界の亀裂を「摘む」ような形を作る。
(狙いは、結界の裂け目に付着した瘴気のヘドロ。座標固定)
視界が急速にズームする。
網膜に魔力を集中させ、望遠レンズのように視覚を拡張する。
三キロ先の景色が、目前にあるかのように鮮明に映し出された。
亀裂の周囲にこびりついた、黒くドロドロとしたタールの塊。あれが結界の修復を阻害している「汚れ」だ。
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【ターゲット補足】
対象:高濃度瘴気汚染物質
距離:3240m
術式選択:遠隔・超高圧洗浄《ロングレンジ・ハイプレッシャー・ウォッシュ》
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脳内に、使い慣れた作業用ウィンドウが浮かび上がる。
通常の攻撃魔法ではない。
あれを吹き飛ばすのではなく、「洗い流す」のだ。
「……消えろ」
指先に集束させた魔力を、一気に解き放つ。
ヒュンッ!!
空気が裂ける音がした。
目に見えない魔力の弾丸が、音速を超えて射出される。
反動で右腕が後ろに弾かれ、肩の関節が悲鳴を上げた。
痛みが脳天を突き抜けるが、私は歯を食いしばって視線を外さない。
弾丸は一瞬で三キロの空間を跳躍し、王宮の結界に着弾した。
バシャアアアアアッ!!!
遠くの空で、水飛沫のような光が弾けた。
攻撃魔法の爆発音ではない。
巨大なホースで水を叩きつけたような、清涼感のある破砕音。
黒いタールが一瞬にして剥ぎ取られ、光の粒となって霧散していく。
詰まりの取れた結界が、呼吸を取り戻したように脈打ち、亀裂が急速に塞がっていくのが見えた。
「……よし」
成功だ。
汚れは落ちた。あとは神殿に残っている聖女たちが、通常の魔力供給を行えば維持できるはずだ。
安堵した瞬間、膝の力が抜けた。
「あ……」
ガクン、と身体が崩れ落ちる。
バルコニーの冷たいタイルに、膝を強打した。
視界が明滅し、耳鳴りがキーンと高く響く。
杖もなしに、これだけの長距離狙撃を行った代償だ。
魔力回路が焼き切れそうなほど熱を持ち、指先が痺れて感覚がない。
息が上がって苦しい。
肺が酸素を求めて喘ぐ。
これは演技ではない。本物の消耗だ。
(……まずい、部屋に戻らないと)
リュカ公爵が戻ってくる前に。
私がバルコニーで倒れていたら、言い訳ができない。
這うようにして部屋の中へ戻り、窓を閉める。
鍵をかける指が震えて、カチャカチャと金属音を立てた。
なんとか施錠し、カーテンを閉め、私はベッドへと倒れ込んだ。
布団を頭まで被り、荒い呼吸を整える。
心臓が壊れそうなほど早鐘を打っている。
汗びっしょりの寝間着が、肌に張り付いて気持ち悪い。
その時だった。
ガチャリ。
扉が開く音がした。
「……エルナ?」
リュカ公爵の声だ。
私は反射的に目を閉じ、狸寝入りを決め込んだ。
足音が近づいてくる。
コツ、コツ、コツ。
その音は、ベッドの脇で止まった。
「……ひどい汗だ」
彼の大きな手が、私の額に触れる。
その手は外気で冷え切っており、鉄と硝煙の臭いが微かに染み付いていた。
彼もまた、戦場を見てきたのだ。
「すまない。魔物の数こそ多かったが、なぜか結界が急激に持ち直したおかげで、大事には至らなかった」
彼は独り言のように呟くと、タオルで私の汗を丁寧に拭い始めた。
「苦しかっただろう。怖かっただろう。……俺がそばにいなかったせいで」
違う。
これは私が魔法を使った反動の汗だ。
けれど、彼はそれを「一人で恐怖に耐えていた発作の痕跡」だと解釈しているようだった。
「……う……」
私は小さく呻き声を漏らし、薄く目を開けた。
演技力を総動員して、弱々しい病人になりきる。
「か、閣下……?」
「ああ、戻ったぞ。もう大丈夫だ」
リュカ公爵は、安堵と悔恨が入り混じった表情で私を見つめていた。
その瞳の奥には、狂気的なまでの愛着が燃えている。
「王宮の騒ぎは収束した。だが、神殿の管理体制の不備は明白だ。……やはり、一度更地にすべきかもしれん」
彼の声のトーンが、スッと低くなった。
冗談ではない。本気で神殿を物理的に破壊しそうな殺気だ。
私は慌てて、彼の手を握り返した。
「そ、それより……閣下。あの」
「なんだ? 水か? それとも抱っこか?」
「……いえ。その、無事で、よかったです」
それは、半分は本心で、半分は彼を落ち着かせるための言葉だった。
すると、リュカ公爵は目を見開き、それから顔を真っ赤にして口元を覆った。
「ッ……!」
彼はその場に膝をつき、私の手を額に押し当てた。
まるで女神の慈悲を受けた信徒のような姿だ。
「……あんな地獄のような職場を追放され、死の淵にありながら、俺の身を案じるとは。……エルナ、君はやはり聖女だ。いや、聖女以上の天使だ」
「へ?」
「決めた。神殿への報復は後回しだ。まずは君の笑顔を守ることが最優先だ」
彼は顔を上げ、きらきらと輝く瞳で宣言した。
「明日は、世界一の服職人を呼ぼう。君に似合う、最高に肌触りのいいドレスを作らせる。それから、隣国の王室御用達のパティシエも招集済みだ」
「え、あの、待って――」
「拒否権はない。君はただ、愛されていればいいんだ」
重い。
愛が、物理的な質量を持って圧し掛かってくる。
私は遠くで修復された結界のことを思い出しながら、別の意味での「逃げ場のない檻」が完成しつつあることを悟った。
私の魔力狙撃による疲労感は、彼の過剰な溺愛によって、強制的に回復させられようとしていた。
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【現在のステータス】
氏名:エルナ
状態:魔力枯渇(中度)
精神:罪悪感(極大)
装備:最高級シルクのパジャマ
称号:氷の閣下の最愛(逃走不可)
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私は天井を見上げた。
精緻な彫刻の施された天蓋は、相変わらず美しい。
けれど今の私には、それが蜘蛛の巣のように見えて仕方がなかった。




