第3話 王都一の名医と、暴走する心臓
地獄のような羞恥を伴うトイレ移動を終え、私は再び天蓋付きのベッドへと横たえられた。
背中を包み込む最高級羽毛布団の柔らかさが、今は棘のように感じられる。
「すぐに医者が来る。王都で最も優秀な男だ。彼にかかれば、病状の全てが明らかになるだろう」
リュカ公爵は、窓辺で果物を剥きながら、自信に満ちた声で告げた。
その言葉は、私にとって死刑宣告に等しい。
王都一の名医。それはつまり、ごまかしの一切通用しない怪物ということだ。
私の体は、健康そのものだ。
聴診器を当てられれば、心臓は力強くリズムを刻んでいることがバレるだろう。
魔力回路を触診されれば、詰まり一つなくスムーズに循環していることが露見するだろう。
シュッ、シュッ。
鋭利なナイフがリンゴの皮を削ぐ音が、静寂な部屋に規則正しく響く。
その銀色の刃先が、私の首筋に向けられているような錯覚に陥る。
嘘が暴かれた瞬間、あの優雅な手つきは、私を裁く冷酷な動作へと変わるのではないか。
想像するだけで、指先の毛細血管から血の気が引いていく。
「……閣下。あの、お医者様には、私から事情を説明しても?」
「必要ない。話す体力も惜しいだろう。俺から全て伝えてある」
彼は切り分けた果実をフォークに刺し、私の口元へと運んでくる。
拒否権はない。
口を開き、咀嚼する。
果汁の甘酸っぱさと、シャクシャクとした新鮮な食感が口いっぱいに広がる。
こんな絶望的な状況下でも、舌は甘味を感知し、胃袋は喜び、脳は栄養を吸収しようとしている。
この浅ましいほどの健康体が憎い。
いっそ今すぐ高熱を出して昏倒してしまえれば、どんなに楽だろうか。
コン、コン。
重厚な樫の扉が叩かれた。
その乾いた音は、銃声のように私の鼓膜を震わせた。
心臓が肋骨の内側で跳ね上がり、喉の奥がヒュッと鳴る。
「入れ」
リュカ公爵の低い許可と共に、扉が開かれる。
入室してきたのは、白衣を纏った初老の男だった。
片目には銀縁のモノクル。手には黒革の重厚な鞄。
その男が足を踏み入れた瞬間、部屋に充満していた甘い柑橘のアロマが掻き消された。
鼻を突く、鋭利で冷ややかな臭い。
高濃度のアルコールと、特有の苦みを帯びた薬草の臭気が、私の呼吸器を侵食していく。
「失礼します、ヴォルフィード公爵閣下。……患者はこちらですな」
声が、低い。
地下の岩盤が擦れ合うような重低音だ。
モノクルの奥にある瞳は、感情を一切宿していない。
ただの物体として私を捉え、骨格から血流、筋肉の付き方に至るまでを瞬時にスキャンしている。
「ああ、頼む。彼女が……エルナだ」
「ふむ」
医師はベッドの脇まで音もなく歩み寄ると、無言で私を見下ろした。
その威圧感に、肌が粟立つ。
まるで解剖台に乗せられた実験動物になった気分だ。
「王立医療院、筆頭医術師のガリウスです。……顔色が悪いようですな」
意外な言葉だった。
私は今の今まで栄養満点のスープと果物を摂取し、血色は最高潮のはずだ。
しかし、ガリウス医師の眼には違って見えているらしい。
「眼球運動の散乱。呼吸の浅さ。そして何より、発汗量が異常だ。……相当、苦しいのですな?」
彼が指摘したのは、病気の症状ではない。
極限の緊張と恐怖によって引き起こされた、私の生理反応だ。
だが、今の私にはそれが唯一の救命綱となる。
「あ、は、はい……!」
掠れた声を絞り出す。
演技ではない。喉が恐怖で張り付き、まともな発声ができないのだ。
「脈を拝見します」
ガリウス医師の冷たい指先が、私の手首に触れる。
氷のような感触に、手首の動脈が過剰に反応する。
ドクン。ドクン。ドクン、ドクン、ドクン!
心臓が暴走していた。
嘘がバレるかもしれないという恐怖が、アドレナリンを大量に分泌させ、脈拍を限界まで加速させている。
「……脈拍、一二〇オーバー。安静時でこの数値は異常だ。心臓にかなりの負担がかかっている」
「なっ……!?」
背後で、リュカ公爵が息を呑む気配がした。
「そんなにか……! やはり、魂素崩壊の影響が心肺機能にまで……」
「ええ。通常なら立っていることすら不可能なレベルです。よく意識を保っていられる」
ガリウス医師は深刻そうに頷き、鞄から奇妙な金属の板を取り出した。
表面に幾何学的な魔法陣が刻まれた、最新鋭の「魔力診断盤」だ。
あれを使われれば、生体情報はすべて数値化される。
いくら脈拍をごまかせても、あんなものを通せば「状態:健康」という無慈悲な真実が文字として浮かび上がるはずだ。
「失礼。体内の魔力回路をスキャンします」
「……っ!」
逃げ場はない。
医師が板を私のかざす。
ブゥン、という低い駆動音が響き、板の表面が青白く発光し始めた。
肌の上を、目に見えない何かが這い回るような不快感。
全身の毛穴が収縮し、脂汗が背中を伝い落ちる。
(終わった)
観念して、目を閉じる。
牢獄の冷たい床や、断頭台の重い刃を想像した。
だが、診断盤の駆動音は止まらない。
むしろ、ジジジ、ジジ……と、不穏なノイズを混じらせ始めた。
「……む?」
ガリウス医師の眉が動く。
彼は板を叩き、角度を変え、再び私にかざす。
「どうした、ガリウス。何が出たんだ」
リュカ公爵が焦燥しきった声で問いただす。
ガリウス医師は、空中に浮かぶステータス画面を凝視し、困惑したように唸り声を上げた。
「……解せません」
「何がだ! ハッキリ言え!」
「数値が……定まらないのです。乱高下しています」
私は恐る恐る目を開けた。
空中に投影された光の文字は、激しく明滅し、バグったように歪んでいる。
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【警告:ステータス解析不能】
心拍数 :計測限界突破(ERROR)
魔力循環:乱流発生中
発汗量 :異常過多
精神状態:極度のパニック(※表示不可)
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私の体が、あまりにもテンパりすぎていた。
恐怖で自律神経が暴走し、魔力は動揺で嵐のように荒れ狂っている。
その結果、精密機器である診断盤が「正常な計測不能」という判定を叩き出したのだ。
「計測不能……だと?」
リュカ公爵の声が震えた。
その手から、剥きかけの果物が滑り落ちる。
「そこまで、進行しているというのか……。王立医療院の最新機器ですら、測定できないほどに……」
違う。
単に私が小心者すぎて、パニックを起こしているだけだ。
だが、その真実は、彼らの深刻なフィルターを通して最悪の解釈へと変換されていく。
ガリウス医師は、その「測定不能」という事実に、逆に研究者としての熱を帯びた視線を向けた。
「……興味深い。一見すると、魔力回路そのものは太く強靭に見える。だが、その中を流れる魔力は、まるで出口を求めるように暴れ回っている。これは『魂素崩壊』の末期症状……魂が肉体の檻から乖離しようとして起きる拒絶反応に酷似しています」
「なっ……!」
適当なことを言わないでほしい。
魂は逃げようとしていない。逃げたいのは、この部屋にいる私自身だ。
だが、訂正する隙などない。
リュカ公爵は顔面蒼白になり、私の手を両手で握りしめた。
彼の体温が、震える私の指先に流れ込んでくる。
痛いほどに強い力。
それは、今にも消えてしまいそうな命を、必死に繋ぎ止めようとする必死さそのものだった。
「エルナ……すまない。怖かったろう。こんなになるまで、一人で耐えていたなんて……」
彼のアメジストの瞳が潤み、涙が溢れそうになっている。
その純粋な悲嘆が、私の胸を鋭く刺した。
罪悪感が、胃の中でどろりと熱い塊になって渦を巻く。
この人は、本当に私のことを大切に思ってくれている。
その真心を踏みにじり、騙し続けている自分が、世界で一番醜い生き物に思えた。
「ガリウス。治療法は」
「……正直に申し上げますが、この段階まで進行した崩壊現象を食い止める術式は、現代魔法医学には存在しません」
「なんだと!?」
リュカ公爵が激昂し、ガリウス医師の胸倉を掴み上げた。
椅子が倒れる音が響く。
部屋の空気が一瞬にして凍りつき、殺気が肌を刺した。
私は慌てて彼の腕にしがみつく。
「か、閣下! 乱暴はいけません!」
「しかし……! こいつは名医なんだろう!? 治せないなどと、ふざけたことを!」
「落ち着いてください。……先生も、治療法がないとは仰っていません」
ここで医師を追い出してしまえば、別の医師が呼ばれ、今度こそ健康体がバレるかもしれない。
この「勘違いしてくれる医者」を手放すわけにはいかないのだ。
ガリウス医師は、襟元を正しながら冷静に続けた。
その態度は、医学の限界を知る者特有の諦観と、わずかな希望を含んでいた。
「……左様。完治させる術式はありませんが、進行を遅らせ、症状を緩和させることは可能です」
「……どうすればいい」
「『徹底的な安息』と『精神の充足』。これに尽きます」
医師は重々しく人差し指を立てた。
「彼女の魔力乱流の原因は、魂と肉体の不和です。心身に負荷をかける一切の行為を禁じ、美味しいものを食べ、温かいベッドで眠り、愛されること。それによって魂を肉体に定着させるしかありません」
「愛されること……」
リュカ公爵が、その言葉を反芻する。
その瞳に、狂気にも似た強い決意の光が宿った。
「それなら、できる。……俺の全てをかけて、彼女を甘やかせばいいんだな?」
「ええ。文字通り、指一本動かさせないつもりで。彼女が『幸せだ』と感じる瞬間を、一秒でも多く作ってください。それが唯一の特効薬です」
ガリウス医師は、羊皮紙に処方箋をサラサラと書き始めた。
そこには薬の名前ではなく、『最高級ハチミツ』『肌触りの良いシルクの寝間着』『アロマオイル』といった、およそ医療とは無関係な単語が並んでいた。
「では、私はこれで。……公爵閣下、彼女の命は、貴方の献身にかかっていますぞ」
医師は一礼し、足早に退室していった。
重い扉が閉まる音が、裁判の閉廷を告げる小槌の音のように響く。
部屋には、再び二人きりの静寂が戻った。
薬品の臭いが薄れ、代わりに加湿器から漂う甘い香りが、ゆっくりと空気を支配していく。
リュカ公爵は、私のベッドの縁に腰掛けた。
その表情は、先ほどまでの激情が嘘のように穏やかで、そしてどこまでも甘いものへと変わっていた。
「……聞いたな、エルナ」
「は、はい」
「医者の指示だ。これからは、俺が君の手足になる」
彼はそう言うと、私の足を布団の上から優しく撫でた。
その手つきは、壊れやすいガラス細工を扱うように慎重で、そして熱い。
「喉は乾いていないか? 背中は痛くないか? ……何か欲しいものがあれば、どんな些細なことでも言ってくれ。月を持ってこいと言われれば、空を切り裂いてでも持ってくる」
私は口を開こうとして、躊躇った。
本当は、「自由」とか「散歩」とか言いたい。
このふかふかのベッドは最高だけれど、一日中寝ているのは逆に腰が痛い。
けれど、そんなことを言えば「安静にしていないと死ぬ!」と彼をパニックにさせてしまうだけだ。
私は少し考えて、無難なリクエストをひねり出した。
「……あの、甘いものが、食べたいです」
「甘いものだな。分かった」
リュカ公爵は即座にベルを鳴らした。
数秒もしないうちに、メイド長が入室してくる。
「旦那様、お呼びでしょうか」
「エルナが甘いものを所望だ。王都中の菓子店から、評判の菓子を全て買い占めてこい」
「……へ?」
私は耳を疑った。
全て?
「え、あの、閣下? ひとつでいいんです。プリンとか、そういう……」
「馬鹿を言うな。たった一つで足りるはずがない。君がどれを気に入るか分からないだろう? 全部試して、一番笑顔になれるものを見つけるんだ」
彼は大真面目だった。
その瞳には一点の曇りもなく、ただひたすらに私の「笑顔」だけを追い求めている。
メイド長もまた、表情一つ変えずに「畏まりました」と一礼した。
「至急、手配いたします。三十分以内に」
「待って! 買い占めはやめて! お店が困ります!」
私の悲鳴は、吸音性の高いカーテンと絨毯に吸い込まれて消えた。
それから三十分後。
私の目の前には、文字通りの「菓子の山」が築かれた。
イチゴのショートケーキ、モンブラン、艶やかなチョコレートタルト、宝石のようなフルーツゼリー、焼き菓子の詰め合わせ……。
色とりどりのスイーツが、部屋のテーブルを埋め尽くしている。
濃厚なバターと焦がし砂糖の香りが部屋中に充満し、空気そのものが糖度を増したように甘ったるい。
見ているだけで胸焼けしそうな量だ。
「さあ、エルナ。どれから食べる? 全部一口ずつでも構わないぞ」
リュカ公爵は、フォークを構えて待ち構えている。
その目は「さあ、俺に『あーん』をさせる権利を与えてくれ」と輝いていた。
私は引きつった笑みを浮かべながら、赤い果実の乗ったタルトを指差した。
「……じゃあ、その、イチゴのタルトを」
「分かった。口を開けて」
差し出されたタルトを口に含む。
サクサクと崩れる香ばしい生地。
甘酸っぱいイチゴの果汁と、濃厚なカスタードクリームが舌の上で混ざり合い、脳髄を痺れさせるような幸福感をもたらす。
美味しい。文句なしに美味しい。
けれど、飲み込んだ瞬間、胃の奥にズシリと重い塊が落ちた気がした。
それはカロリーの重さではなく、取り返しのつかない罪の重さだった。
「どうだ? 美味しいか?」
「……はい、とても」
「そうか。笑った顔が見られてよかった」
彼は満足そうに目を細め、私の髪を梳くように撫でる。
その指先の優しさに、私は胸が締め付けられた。
この人は、本気だ。
本気で私を愛し、本気で私を救おうとしている。
その献身を、私は嘘で食い物にしている。
いつかバレる。絶対にバレる。
その時、この優しい手は、私を裁く冷たい鉄槌に変わるのだろうか。
それとも、裏切られた絶望で、二度と笑わなくなってしまうのだろうか。
どちらにしても、地獄だ。
私は甘いタルトを噛み締めながら、心の中で懺悔した。
神様、ごめんなさい。
でも、もう少しだけ。この温かい地獄に、居させてください。
その時だった。
甘い空気を切り裂くように、窓の外から不穏な音が響いてきたのは。
カン、カン、カン、カン!!!
硬質で、焦燥感を煽る金属音。
王宮の方角から聞こえる、非常事態を告げる早鐘だ。
リュカ公爵の表情が、一瞬にして甘やかす夫の顔から、冷徹な騎士団長のそれへと切り替わった。
「……魔物の襲撃か」
彼は窓へと歩み寄り、鋭い視線を外へと向けた。
遠くの空に、黒い煙が細く立ち上っているのが見える。
「エルナ、すまない。少しだけ席を外す」
「え、閣下? まさか討伐に?」
「いや、部下に指示を出すだけだ。君を置いて戦場に行くつもりはない。……だが、王宮の結界に異常が出ているようだ」
心臓が、大きく跳ねた。
王宮の結界。
それは昨日まで、私が睡眠時間を削り、命を削って魔力を充填していた結界石によって維持されていたものだ。
私が辞めて、逃げ出して、まだ一日しか経っていない。
もう綻びが出たというのか?
「すぐに戻る。大人しく待っていてくれ」
彼はそう言い残し、風のように部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
残された私は、食べかけのケーキの山と、窓の外の黒煙を見比べた。
部屋の中は、むせ返るほど甘いお菓子の匂いが満ちている。
けれど、窓の隙間からは、微かに焦げ臭い風が入り込んでいた。
私のせいだ。
私が仕事を放り出したせいで、結界が弱まり、魔物が入ってきた。
もし誰かが怪我をしたら?
もし死人が出たら?
それはもう、「サボり」や「可愛い嘘」では済まされない。
取り返しのつかない大罪だ。
私はシルクのシーツを握りしめ、自分の両手を見つめた。
この手はまだ、温かい。
けれど、その温もりは、誰かの犠牲の上に成り立っている。
静まり返った部屋に、私の荒い呼吸音だけが、いつまでも響いていた。




