Side Story 4 氷の閣下は、愛しい妻の「重み」を抱きしめて、永遠の愛を誓う
世界は、こんなにも鮮やかだっただろうか。
ヴォルフィード公爵邸の主寝室。
天蓋の隙間から差し込む朝日が、隣で眠る愛しい妻の頬を淡い黄金色に染めている。
エルナ・ヴォルフィード。
私の妻であり、私の命そのもの。
私は身じろぎもせず、その寝顔を見つめ続けていた。
彼女のまつ毛の長さ、呼吸に合わせて上下する胸元、そして無防備に開かれた唇。
その全てが、私にとっては奇跡の結晶だ。
かつての私は、色のない世界を生きていた。
「氷の閣下」などと呼ばれ、感情を殺し、ただ義務と責任だけを背負って歩いていた。
書類の山と、魔物の血の匂い。
それが私の日常の全てだった。
だが、彼女が現れてすべてが変わった。
「余命半年」という嘘をついて、私の腕の中に飛び込んできてくれたあの日から。
「……んぅ……」
エルナが寝返りを打ち、私の腹部に足を乗せてきた。
ズシリ。
確かな重量感が、私の内臓を圧迫する。
普通なら不快に感じるかもしれないその重みが、今の私には愛おしくてたまらない。
彼女がここに存在している。
幽霊でも幻でもなく、質量を持った肉体として、私の隣で生きている。
その事実だけで、私は神に感謝の祈りを捧げることができる。
先日までの騒動を思い出す。
ガレリア帝国のヒルデガルド皇女と、ラインハルト宰相。
彼らはエルナの「強さ」を試し、そして完敗して去っていった。
あの夜の決闘。
エルナがヒルデガルドの突進を受け止め、空へと投げ飛ばした瞬間。
私の心臓は止まりかけた。
だが同時に、魂が震えるほどの感動を覚えた。
世間はそれを「奇跡」と呼んだ。
だが私は知っている。
あれは奇跡などではない。
彼女が、私の妻としての誇りを守るために、隠された力――あの愛らしい筋肉――を解き放った結果なのだと。
彼女は言った。
『夫をゴリラ扱いされたままでは、妻の名が廃ります』と。
その言葉を聞いた時、私はどれほど嬉しかったか。
彼女のあの細い腕のどこに、あんな力が眠っているのかは分からない。
おそらく、ブラックな職場環境で生き抜くために身につけた、涙ぐましい生存本能の賜物なのだろう。
そう思うと、彼女の強ささえも、私には「健気さ」として映るのだ。
そして、舞踏会での出来事。
彼女は宰相ラインハルトに対し、「体がダイヤモンドになる病」だと嘘をついた。
ラインハルトはそれを信じ込み、青ざめた顔で去っていった。
私はその場では話を合わせたが、内心では舌を巻いていた。
ダイヤモンド。
なんて的確な比喩だろうか。
彼女の腹筋が物理的に硬いことは、毎晩触れている私が一番よく知っている。
だが、それ以上に。
彼女の魂の輝きこそが、ダイヤモンドそのものなのだ。
どんな圧力にも屈せず、どんな理不尽も跳ね返し、傷つくことを恐れずに大切なものを守ろうとする。
その高潔な輝きに比べれば、王冠の宝石など路傍の石ころに等しい。
「……リュカ、様……?」
ふと、エルナの瞳がゆっくりと開かれた。
寝ぼけ眼の彼女が、私の顔を認めてふわりと微笑む。
「おはようございます……。また、私の寝顔を見ていらしたのですか?」
「ああ。百年見続けても飽きない自信がある」
私が答えると、彼女は呆れたように、けれど嬉しそうに笑った。
「変な人。……私の顔なんて、ヨダレの跡がついているだけですわ」
「それも含めて芸術だ」
私は指先で彼女の口元を拭い、その指に口づけをした。
エルナの顔が真っ赤に染まる。
この反応が見たくて、ついからかってしまう。
「……リュカ様。重くありませんか? 私の足」
彼女が慌てて足を引っ込めようとするが、私はそれを手で押さえて逃がさなかった。
「いいや。もっと乗せていてくれ。……君の重みを感じている時が、一番安心するんだ」
これは本心だ。
彼女が健康だと分かった今でも、時折、恐怖に襲われることがある。
ふとした瞬間に、彼女が煙のように消えてしまうのではないか。
あの診断書の「余命半年」という文字が、実は真実だったのではないか。
そんな悪夢が、私の脳裏をよぎるのだ。
だからこそ、この物理的な重みが必要だった。
彼女の筋肉の密度、骨の重さ、そして体温。
それらが私の体に刻み込まれることで、初めて私は「彼女は生きている」と実感できる。
「……分かりました。では、遠慮なく」
エルナは観念したように力を抜いた。
彼女の体温が、布団の中で私と混ざり合う。
「ねえ、リュカ様」
「なんだ?」
「ヒルデガルド様から頂いた、あの鉄アレイのぬいぐるみ……。名前をつけようと思うんです」
「ほう? どんな名前だ?」
「『コグマ一号』です」
あまりにもそのままで、可愛らしいネーミングに、私は思わず吹き出した。
「ふッ……! いい名前だ。では、私が特注させている六十キロのバーベルには『コグマ二号』と名付けようか」
「えっ、バーベルも注文されたのですか!?」
エルナが目を丸くする。
「ああ。君が強さを求めるなら、私は全力で支援する。屋敷の地下室を改装して、君専用のトレーニングルームを作ろうと思っているんだ」
「ト、トレーニングルーム……!」
彼女の瞳が、宝石のように輝いた。
ドレスや宝石を贈った時よりも、遥かに嬉しそうな顔だ。
やはり、私の妻は規格外だ。
普通の貴族令嬢なら眉をひそめるような贈り物に、彼女は心からの喜びを見せる。
そんな彼女だからこそ、私は愛さずにはいられない。
「エルナ」
私は彼女を抱き寄せ、その耳元で囁いた。
「君がどれだけ強くなっても、どれだけ筋肉をつけても……君は私の、守るべきお姫様だ。それだけは忘れないでくれ」
彼女の体が、少しだけ強張った。
そして、私の背中に腕を回し、力強く抱き締め返してくれた。
「はい。……貴方の腕の中が、世界で一番安全な場所ですから」
その言葉だけで、私は今後数十年戦える気がした。
窓の外では、新しい一日が始まろうとしている。
帝国との一件で、エルナの名声は高まった。
「ダイヤモンドの聖女」という二つ名は、これから彼女を多くの面倒事から守る盾になるだろう。
だが同時に、その輝きに惹かれて集まってくる羽虫も増えるに違いない。
構うものか。
どんな敵が現れようと、私が全て凍らせて排除する。
そして、排除しきれなかった敵は、きっと彼女がその「コグマ一号」で物理的に解決してくれるだろう。
私たちは最強の夫婦だ。
愛と、信頼と、そして筋肉で結ばれた、誰にも壊せない絆がある。
「さあ、起きようか。今日の朝食は、君の好きなローストビーフを用意させたぞ」
「本当ですか! 起きます、今すぐ起きます!」
エルナが弾かれたように飛び起きた。
その動きのキレの良さに、私はまた愛おしさを募らせる。
私の世界に、春が来た。
そしてこの春は、永遠に終わることはないだろう。
なぜなら、私が全力でこの温もりを守り抜くからだ。
たとえ、彼女の腹筋がダイヤモンドよりも硬くなろうとも、私の愛はその上を行く熱量で、彼女を包み込み続けるのだから。




