Side Story 3 帝国の冷徹な頭脳は、「ダイヤモンドの腹筋」に触れて計算を放棄した
世界は、数式で記述できる。
それが、私、ラインハルト・フォン・エグゼの信条であり、揺るぎない真理だった。
ガレリア帝国の宰相として、私は常に論理を武器に戦ってきた。
魔術の威力、軍の兵站、国家の予算、そして人の感情さえも。
全ての変数を計算し、予測し、最適解を導き出す。
私の計算に狂いはない。未知など存在しない。
そう信じていた。
あの日、ヴォルフィード公爵夫人の「腹部」に触れるまでは。
◇
事の発端は、皇女ヒルデガルド殿下の不可解な敗北だった。
あの武の化身のような殿下が、か弱い公爵夫人に投げ飛ばされたという。
報告書を読んだ瞬間、私は即座に「不正」を確信した。
物理法則に反している。
作用・反作用の法則、質量保存の法則。
どれをどう計算しても、硝子細工のような女性が、重装備の皇女を空へ飛ばすエネルギー係数は算出できない。
あるとすれば、高度な幻術か、あるいは未知の魔導具による干渉だ。
私はそれを暴くために、彼女への接触を試みた。
最初の接触は、公爵邸の庭園だった。
ガゼボで優雅に茶を飲む彼女に対し、私は挨拶代わりに「重力負荷領域」を展開した。
帝国軍が拷問……いや、尋問に使用する術式だ。
対象にかかる重力を局所的に増大させる。
私の計算では、以下の反応が予測された。
パターンA:即座に悲鳴を上げて床に這いつくばる(一般人)。
パターンB:魔力防御を展開し、正体を現す(魔術師)。
パターンC:耐えきれずに骨折等の物理的損傷を負う(虚弱体質)。
私は最初、三倍の負荷をかけた。
屈強な兵士でも膝をつく圧力だ。
だが、彼女は微笑んだままだった。
ティーカップを持つ手は優雅に固定され、紅茶の水面すら揺らさない。
「……計算エラーか?」
私は術式を疑った。
だが、魔力計の数値は正常だ。確実に彼女の肩には、鉛の塊のような負荷がかかっている。
私は負荷を上げた。
五倍。七倍。
ガゼボの柱が軋み、地面が沈下する。
隣にいた殿下でさえ、顔をしかめて後退るほどのプレッシャー。
しかし、彼女は平然とクッキーを食べた。
「宰相閣下は、マッサージがお上手なのですね」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
マッサージ?
七倍重力を?
骨が砕ける音を、コリがほぐれる音と勘違いしているのか?
いや、そもそも彼女の骨格強度はどうなっている?
ミスリル合金でできているとでも言うのか?
私の脳内で、数式が音を立てて崩れ去った。
理解できない。
「我慢している」というレベルではない。
物理的な圧力を、精神論(夫への愛)で無効化しているかのような非論理的な現象。
私は恐怖した。
この女は、私の知る物理法則の外側に生きている。
◇
決定的瞬間は、舞踏会の夜に訪れた。
私は彼女をダンスに誘った。
遠隔魔法が通じないなら、直接触れて確かめるしかない。
人間の肉体には、必ず「生体反応」がある。
筋肉の収縮、脂肪の弾力、骨の硬度。
それらを指先で感じ取れば、彼女が何者か――あるいはどんな魔導具を仕込んでいるか――が分かるはずだ。
私はワルツの回転に合わせて、彼女の腰に手を回した。
ドレスの上から、脇腹付近を探る。
華奢な腰つきだ。
視覚情報としては、柔らかく、折れそうなほど細い。
私は確信を持って、指先に力を込めた。
グニャリと沈み込む感触を予想していた。
あるいは、緊張した筋肉の反発を。
だが。
私の指が触れたのは、「壁」だった。
ガチン。
脳が認識を拒絶した。
硬い。
あまりにも硬すぎる。
これは筋肉ではない。骨でもない。
岩盤だ。いや、もっと密度の高い……鉱物のような硬度。
私は混乱の中で、さらに指を食い込ませようとした。
だが、微動だにしない。
マダム・ヴェルニエのコルセット越しとはいえ、生身の人間ならば多少の弾力があるはずだ。
しかし彼女の腹部には、有機的な「揺らぎ」が一切なかった。
まるで、精巧なドレスの中に、ダイヤモンドの原石が詰め込まれているかのような。
「……なんだ、これは」
冷や汗が噴き出した。
もしや、彼女は人間ではないのか?
ゴーレム? 自動人形?
いや、手は温かい。脈もある。吐息も感じる。
生命活動を行っているのに、肉体の一部だけが物理法則を無視した硬度を持っている。
私の思考回路がショート寸前になった時、彼女は悲しげに瞳を伏せて告げた。
『魔力結晶化症候群』
その病名を聞いた瞬間、私の脳内でバラバラだったピースが、恐ろしいほどの整合性を持ってハマり込んだ。
なるほど。そうか。そうだったのか。
なぜ、七倍重力に耐えられたのか。
肉体が石のように硬化しているからだ。神経が鉱物に置き換わり、痛覚が麻痺しつつあるからだ。
なぜ、皇女殿下の突進を受け止められたのか。
彼女自身の質量が、見た目以上に増大しているからだ。ダイヤモンドの比重は人体の三倍以上。全身が結晶化しつつあるなら、彼女の体重は数百キロに達していてもおかしくない。
そして、なぜ彼女が「薄幸の聖女」と呼ばれるのか。
生きながらにして体が石に変わる激痛。
徐々に動かなくなる四肢。
迫りくる死の恐怖。
それら全てを、あの微笑みの裏に隠しているというのか。
「……私の負けだ」
私は敗北を認めた。
論理の敗北ではない。
生命の神秘と、一人の女性の精神力の前に、私の浅はかな計算が及ばなかったのだ。
◇
帰国の朝。
公爵邸の玄関で、私は最後の「証拠」を目撃した。
殿下が贈ったプレゼント。
特注の鉄アレイ入りぬいぐるみ。総重量五十キログラム。
それを、夫人は片手で、軽々と受け止めた。
彼女の腕は細い。
上腕二頭筋の隆起など、ドレスの上からは微塵も感じられない。
物理的にあり得ない光景だ。
五十キロの物体を、あのモーメントアームで支えれば、手首か肘の関節が砕けるはずだ。
だが、彼女は微笑んでいた。
眉一つ動かさず、まるで綿菓子を持つように。
確定だ。
彼女の腕は、すでに内部まで結晶化が進行している。
骨も筋肉も、ダイヤモンド並みの強度を持つ物質に変質しているのだ。
でなければ、説明がつかない。
私は戦慄と、深い畏敬の念を抱いた。
どれほどの苦痛だろうか。
自分の体が、冷たい石に変わっていく感覚。
夫の愛に応えたくても、その皮膚は硬く閉ざされ、やがては体温すら失っていく運命。
ヴォルフィード公爵が、彼女を過保護なまでに守ろうとする理由が分かった。
彼は知っているのだ。
彼女に残された時間が、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていることを。
そして、その最後の一粒が落ちた時、彼女は永遠に変わらぬ、美しくも冷たい宝石像になってしまうことを。
「……あまり数字ばかり追いかけていては、大切なものを見落としますわよ?」
彼女の言葉が、胸に刺さる。
私は計算機だった。
効率と利益だけを追求し、人の心の強さという「変数」をゼロと見積もっていた。
その傲慢さを、彼女は命がけで正してくれたのだ。
馬車に揺られながら、私は手帳を開いた。
そこには、彼女の身体データに関する推測値が書き殴られている。
私はそれを全て斜線で消した。
そして、新しいページに一言だけ書き記した。
『観測不能。ただし、聖女なり』
隣では、殿下が筋肉痛に顔をしかめながらも、嬉しそうに空気椅子の練習をしている。
帝国は変わるだろう。
あの規格外の公爵夫人がもたらした「衝撃」は、武力と論理に凝り固まった我が国に、新たな風を吹き込んだ。
私は眼鏡を外し、涙を拭った。
あの美しいダイヤモンドの聖女が、一日でも長く、温かいままでいられることを願わずにはいられない。
たとえそれが、私の生涯で最も非論理的な祈りだとしても。




