Side Story 2 王都の仕立て屋は、針と糸で「神話級の猛獣(レディ)」をラッピングする
美とは、戦いである。
王都の一等地に店を構える私、マダム・ヴェルニエにとって、その言葉は比喩でも何でもない。
ドレスとは、女性という柔らかく、時にワガママな生き物を、理想の形へと封じ込める鎧なのだから。
アトリエの作業台には、今日も色とりどりの布地が散乱している。
最高級のシルク、繊細なレース、重厚なベルベット。
それらは私の指先一つで、貴婦人たちを夜会の華へと変える魔法の素材だ。
だが、私の長いキャリアの中でも、あの「依頼」ほど困難で、刺激的で、そして美しい戦いはなかった。
ことの始まりは、ヴォルフィード公爵閣下からの緊急の呼び出しだった。
◇
深夜の公爵邸。
通された一室で、私はわが目を疑う光景を目撃した。
あの「氷の閣下」が、一人の女性の足元に跪き、まるで女神を崇めるように見上げていたのだから。
エルナ・ヴォルフィード公爵夫人。
噂の「硝子細工の君」。
最初の採寸の時、私は彼女の体に違和感を覚えた。
華奢に見えるが、触れた時の反発力が違う。
彼女はそれを「病による硬直」だと言った。
私はそれを信じた。いや、信じるふりをした。
プロとして、顧客の嘘を暴くのは野暮というものだからだ。
だが、決闘の前日。
戦闘用ドレスの仮縫いのために彼女の部屋を訪れた時、私は「真実」を見てしまった。
「……失礼しますぅ、奥様。ドレスの最終調整に入りますので、背中を拝見してもよろしいですか?」
私が声をかけると、彼女は少し躊躇いながらも、薄いガウンを脱ぎ捨てた。
息を呑んだ。
持っていたメジャーを取り落としそうになった。
そこにあったのは、病的な痩躯などではない。
ミケランジェロの彫刻も裸足で逃げ出すような、極限まで研ぎ澄まされた「肉体美」だった。
広背筋は、巨大な翼を広げたように美しく隆起している。
僧帽筋から三角筋にかけてのラインは、鋼鉄のワイヤーを束ねたように強靭だ。
そして何より、腹部だ。
コルセットを外した瞬間、露わになったその腹直筋は、板チョコ……いや、城壁の石積みのように強固に割れていた。
「……あ、あの、マダム?」
エルナ様が、恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「見苦しくてごめんなさい。……少し、体が強張ってしまって」
強張りというレベルではない。
これは、数年単位の過酷なトレーニングと、徹底した栄養管理の結晶だ。
私は震える手で眼鏡の位置を直した。
恐怖ではない。歓喜だ。
私の職人魂に、業火のような火がついたのだ。
彼女は、この肉体を「儚い聖女」というドレスの中に隠そうとしている。
猛獣を、仔猫の着ぐるみの中に押し込もうとしているのだ。
なんて無謀で、なんて挑戦的なオーダーなのだろう。
「素晴らしい……。素晴らしいですわ、奥様!」
私は叫んだ。
「この肉体……いえ、この『強張り』こそ、貴女様の生きた証! 私の全技術を以て、この美しき凶器を優雅なドレスの中に完全隠蔽してみせますわ!」
「え? あ、はい。お願いします」
彼女は私のテンションに若干引いていたが、そんなことは構わない。
◇
アトリエに戻った私は、スタッフ全員を叩き起こし、戦時体制に入った。
課題は三つ。
第一に、エルナ様の筋肉の隆起を目立たせないこと。
第二に、決闘における激しい動き(主に皇女の攻撃回避)に耐えうること。
そして第三に、リュカ閣下の要望である「世界一儚く、守りたくなるデザイン」であること。
矛盾だらけだ。
鋼鉄を包み、戦車のように頑丈で、かつ羽毛のように軽く見せろと言うのだから。
「糸を持ってきて! 普通の絹糸じゃダメよ! 『古竜の髭』を編み込んだ強化糸を使うの!」
「生地は『妖精絹』の最高ランク! 伸縮率五〇〇パーセントのやつを!」
「コルセットの裏地には『スライムゲル』を二層構造で配置! 外からの衝撃は吸収し、内からの腹圧には耐えるように設計しなさい!」
私の指示が飛ぶ。
針子が悲鳴を上げ、パタンナーが頭を抱える。
だが、手は止めさせない。
私が最も苦心したのは、背中のカッティングだった。
彼女の広背筋は美しいが、ドレスの上からでは「逞しさ」として映ってしまう。
そこで私は、特殊な錯視効果のあるレース配置を考案した。
筋肉の隆起に合わせてレースの密度を変え、影を光に変える。
盛り上がった筋肉が、まるでドレスのドレープ(ひだ)の一部であるかのように見せる視覚トリックだ。
徹夜の作業。
カフェインと情熱だけで乗り切った三六時間。
完成したドレスは、まさに奇跡の一着だった。
一見すると、夜空を切り取ったような深い藍色のイブニングドレス。
しかしその強度は、ミスリルの鎖帷子に匹敵する。
◇
そして、決闘の夜。
私は特等席で、自分の作品の性能試験を見守っていた。
相手はガレリア帝国のヒルデガルド皇女。
彼女の一撃は、岩をも砕く破壊力だ。
エルナ様が倒れ込んだふりをして回避した時、会場中が悲鳴を上げたが、私だけはドレスの裾の動きを凝視していた。
「……良いわ。素晴らしいドレープだわ」
急激な重心移動にも関わらず、ドレスはエルナ様の体に吸い付くように追従している。
強化妖精絹の伸縮性が、筋肉の瞬間的な膨張を吸収し、決して布地を突っ張らせない。
そして、クライマックス。
エルナ様が皇女の突進を受け止め、投げ飛ばした瞬間。
私は見た。
ドレスの背中の縫い目が、極限まで引き絞られるのを。
彼女の広背筋が爆発的に収縮し、ドレスを内側から引き裂こうとする圧力。
耐えろ。耐えてくれ、私の可愛い糸たちよ。
ブォンッ!!!
皇女が空を舞う。
ドレスは……無傷だ。
一瞬の過負荷を耐え抜き、エルナ様が着地すると同時に、ふわりと優雅なシルエットに戻った。
「ブラボー……ッ!!」
私は思わずスタンディングオベーションをしたそうになった。
完璧だ。
あのドレスは、物理法則という野蛮な現実を、優雅さという虚構で完全にラッピングしてみせたのだ。
エルナ様が「ドレスが汚れるので」と呟いた時、私は涙が出るほど嬉しかった。
彼女は信頼してくれていたのだ。私の作った鎧を。
◇
後日。
舞踏会の夜、エルナ様は新たな伝説を作った。
「魔力結晶化症候群」。体がダイヤモンドになる病。
帝国宰相に腹筋の硬さを悟られそうになり、ついた大嘘だ。
翌日、エルナ様は申し訳なさそうに私に詫びた。
「ごめんなさい、マダム。貴女の素晴らしいドレスがあったのに、私の筋肉が硬すぎて……バレそうになってしまって」
私は首を振った。
「いいえ、奥様。それは新たなインスピレーションですわ」
ダイヤモンド。
世界で最も硬く、そして最も美しい宝石。
それはまさに、エルナ様そのものではないか。
私は今、新しいデザイン画を描いている。
次はもっと凄いものを作る。
彼女がどれだけ鍛え上げようとも、どれだけ筋肉を肥大させようとも、全てを飲み込み、より美しく見せる「無限のドレス」を。
アトリエの窓から、秋の空が見える。
リュカ閣下からは、また無茶な注文書が届いていた。
『妻がダイヤモンド化しても着られる、肌触りの良いパジャマを頼む』
本当に、あの夫婦は私を飽きさせない。
私は針を取った。
美とは戦いである。
そして私の戦場は、あの最強の公爵夫人のボディラインの上にあるのだ。
さあ、次はどんな「無理難題」を攻略してやろうか。
私の職人魂は、今日も高らかに歌っている。




